たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

名古屋鉄道完全乗車記 【令和2年1月23~25日】 その6(名古屋本線〈一部特別車特急『パノラマsuper』〉)

名鉄岐阜駅に停車中の豊橋行き特急列車

 6回目となる名古屋鉄道乗車記ですが、今回は旅の2日目に特急パノラマsuperで名古屋本線に乗った時のことを。



目次

【2日目の乗車区間】
2日目の乗車区間
※クリックで拡大(この絵に限らず当ブログの画像はクリックでだいたい拡大しますので。)

2日目 令和2年1月24日(金) ~名古屋本線、豊川線、蒲郡線、西尾線、三河線、豊田線、知多新線、河和線、築港線

名古屋本線 一部特別車特急『パノラマsuper』

【未明の名鉄岐阜駅入り口】
未明の名鉄岐阜駅入り口

 昨晩セットしたアラームが鳴る前の4時過ぎに目が覚めたものの、一昨晩の夜行バスに加えて昨晩もぐっすり眠れていなかったので、頭がかなりぼんやりとしています。ですが、二度寝すると一昨年の台湾の時のように寝過ごすのは確実だと思い、無理矢理起きて着替えと身支度を済ませてから、まだ夜明けが遠い朝の5時過ぎ、泊まっていたホテルをチェックアウト。昨日よりも何故か重く感じた旅行鞄を提げて名鉄岐阜駅へと向かったところ、頭がぼんやりしていたのとスマートフォン地図アプリの罠にはまって見当違いの方角に向かってしまい、ホテルからすぐの訳がだいぶ余計に歩いてしまいました。

【岐阜駅中央改札口付近】
岐阜駅中央改札口付近
【名鉄電車全線2DAYフリーきっぷ】
名鉄電車全線2DAYフリーきっぷ

 名鉄岐阜駅に着いたのは5時19分発の一番列車が出発した直後。早速自動券売機で、今日と明日の乗り鉄に使う『名鉄電車全線2DAYフリーきっぷ』を購入。名前のとおり名古屋鉄道の鉄道路線全線に2日間乗り放題の切符で、早速それを使って改札口の中へ。それにしてもさすがは名鉄名古屋本線における一方のターミナル駅は、早朝にもかかわらず、列車が結構な頻度で入線してきますね。

【名鉄岐阜駅に停車中の豊橋行き特急列車】
名鉄岐阜駅に停車中の豊橋行き特急列車

 改札口を入ったところにある待合室でそれらを見つつ暫し休んでいたところ、今日最初に乗る列車が3番線に入ってきていたようで。それが、5時53分発の豊橋行き特急列車。名鉄では最長となる8両で、後部2両が1800系、そして前部が、『パノラマsuper』こと1200系特急型車両という編成になっていました。これで名鉄名古屋本線の終点である名鉄岐阜駅から起点の豊橋駅まで99.7kmを、一気に駆け抜けます。

 で、その名古屋本線。名鉄が定めた路線記号は「NH」。起点終点を含めた駅数は60駅。名鉄の背骨と言うべき基幹路線で、全線の大部分が複線、途中の一部区間は複々線なのですが、両端区間は歴史的な経緯により単線になっています。それで歴史的なものついてはちょっとやそっとじゃまとめきれないので道中追々触れていくとして、まずはこの特急列車に使われている1200系特急型車両について少々。

【車体側面の1200系エンブレムステッカー】
車体側面の1200系エンブレムステッカー

 日本で最初に(運転台を2階に上げて)客席から前面展望を楽しめるように作られた電車が、昭和36年(1961年)に登場して以降、名鉄の代名詞となった『パノラマカー』こと7000系(とその改良型である7500系)という車両なのですが、その後継として昭和59年(1989年)に登場した『パノラマDX』こと8800系(現在は全車廃車)特急型車両に続き、昭和63年(1988年)から増備が始まったのが、『パノラマsuper』こと1000系特急型車両。登場当時は、全車指定席、今で言う特別席仕様の4両固定編成で、最高速度は120km/h。パノラマカーの由来である両端の先頭車に設けられた展望席は、先に登場したパノラマDXと同様の、初代パノラマカーとは逆となる1階が運転席、中2階が展望席というハイデッカー構造。出入口は片開き2扉で、出入口とはデッキで仕切られた客席には回転式(展望席は固定式)リクライニングシートが広いピッチ(1000mm)で並びます。

 それで登場して2年後の平成2年(1990年)、一般席車両として旧来の車両などを併結して使用したところ、その車両と通り抜けが出来ないにもかかわらず指定席客、一般席客で車両の誤乗が絶えないことや、併結した場合の最高速度が一般車に合わせた110km/hになってしまうことから専用の一般車が計画され、平成3年(1991年)に登場したのが3扉転換クロスシート車の1200系。それに合わせて1000系も6編成が組み替えられ、豊橋寄りに1000系の指定席車2両、岐阜寄りに1200系の一般車4両という6両固定編成が12本作られました。また同時期に、増結用の2両固定編成一般車として、1200系とは(ミュージックホーンなど一部を除く)同仕様で登場したのが、昨日乗り、この列車にも併結されている1800系です。

 そしてその後の平成19年(2007)年、以降の名鉄の特急列車は中部国際空港アクセス用のミュースカイを除いて一部特別車編成に統一することから、全車特別車編成で残っていた車両は廃車のうえ、これまた昨日乗った5000系電車に主要機器を流用。残った12編成は平成27年(2015年)からリニューアル工事が施され、塗装や内装の変更、先頭車へのLED行先方向表示器の取り付けがなされ、更にリニューアルを機に、編成全体を1200系と呼称するようになりました。

【1号車出入口と先頭部】
1号車出入口と先頭部
【1015(ク1000形)展望席(後方から)】
1015(ク1000形)展望席(後方から)
【1015(ク1000形)展望席(前方から)】
1015(ク1000形)展望席(前方から)
【1015(ク1000形)展望席のシート】
1015(ク1000形)展望席のシート

 この列車、あらかじめネット予約で先頭の1号車の特別車、しかも展望席の一番前の席を入手してあったので、最後部から編成全体を確認しつつ1号車の乗車口へ。使われている車両は、1800系が後ろから1905(モ1900形)と1805(ク1800形)のコンビ。それに続く1200系は後ろから1415(モ1400形)、1465(モ1450形)、1215(サ1200形)、1265(モ1250形)、1065(モ1150形)、1015(ク1000形)という車番。1200系は元々4両編成だった1000系を2両と2両に分割、更には半分を方向転換して使用していることなどから、車両毎の搭載機器が違うA編成とB編成があるのですが、これはA編成になるようですね。また調べたところ、前寄り2両の元1000系は平成2年(1990年)の製造で、後寄り4両の1200系は平成3年(1991年)の製造。その後平成28年(2016年)に編成全体がリニューアル工事を施されているようです。

 やがて定刻となり、階下の運転席から運転手さんの指差点呼の声が聞こえてきて列車は名鉄岐阜駅を後に。外はまだ真っ暗なのですが、実は以前一度だけ、名鉄岐阜駅(当時は新岐阜駅)から名鉄名古屋駅(当時は新名古屋駅)まで、パノラマsuperの展望席最前列に乗ったことがあるので、景色は見えなくとも問題ないかな、と。

【名鉄岐阜駅発車】
名鉄岐阜駅発車
【名鉄岐阜駅-加納駅間(加納陸橋)】
名鉄岐阜駅-加納駅間(加納陸橋)

 昭和23年(1948年)に現在の名古屋鉄道の手によって現位置となった2面4線の名鉄岐阜駅を発車すると、線路はすぐに単線になりJR東海道本線と高山本線の下を通過。この部分を加納陸橋というのですが、大正3年(1914年)12月に美濃電気鉄道笠松線としてこの区間が開通した時は複線だったとのこと。その直後、第一次世界大戦の最中に補修用レールを入手できなかったため、この区間を単線化してそのレールを補修用に転用。その後も、この区間だけ単線として残ってしまったそうで。また平成8年(1996年)までは名鉄がJRを跨いでいたのですが、JR岐阜駅の高架化に伴って、JRが陸橋の上を更に跨ぐかたちとなりました。

【名鉄岐阜駅-加納駅間】
名鉄岐阜駅-加納駅間
【笠松駅進入】
笠松駅進入

 JRの列車とタイミング良くクロスした加納陸橋を過ぎると線路は複線となり、岐阜の市街地から郊外へ。時折すれ違う列車や時折通過する駅以外は暗闇の中を進む印象です。そして発車して5分ほどで、最初の停車駅である笠松駅に到着。まだ6時前ですが、ホームには列車を待つ人達が結構いました。もっとも、特別車である1号車と2号車のところに並んでいる人は、数えるほどでしたが。

【木曽川堤駅-笠松駅間(木曽川橋梁)】
木曽川堤駅-笠松駅間(木曽川橋梁)

 笠松駅を発車した列車は、昨日競馬場のスタンドにいた時ほとんどの時間目に入っていた木曽川橋梁を通過。この鉄橋は名鉄で距離が一番長く、また歴史も古くて完成は昭和9年(1934年)のこと。また木曽川橋梁を含む笠松駅から南の区間は、名岐鉄道がその翌年の昭和10年(1935年)4月に開通させた区間で、昨日の尾西線のところでもちょこっと書いたのですが、この区間の完成によって木曽川越えの徒歩(後にバス)連絡がなくなり、 名岐鉄道が重要視した名古屋と岐阜の都市間直通運転が達成されました。もっとも、乗る列車の前方風景は相変わらず暗闇の中を疾走という感じ。というのもここから先、新木曽川駅、名鉄一宮駅という2つの停車駅を挟んで通過となる新清洲駅までの区間が、名鉄では最も速い最高速度120km/hで走行できる区間だそうで。で、そんな中、階下の運転席から時折聞こえてくる運転手さんの指差点呼の声に加えて、午前6時にならんとする時、自動放送っぽい時報のアナウンスが。これをこの日この後、何度も聞くことになるとは、この時はつゆ程も思っていなかったという。

【名鉄一宮駅進入】
名鉄一宮駅進入
【国府宮駅進入】
国府宮駅進入

 木曽川を渡って愛知県に入り新木曽川駅に停車した列車は、6時6分の定刻に名鉄一宮駅に到着。ここでは笠松駅以上に多くの人がホームで列車の到着を待っていましたが、やはり特別車のところは数えるほど。特別車に乗るためのミューチケットは1席370円とかなりリーズナブルなのですが、乗車時間との兼ね合いもあるんですかね。(首都圏だと、JR普通列車のグリーン車に、短区間でも乗ってくる人、結構居るんですけどね。)で、この名鉄一宮駅から次の停車駅である国府宮駅までは、尾西鉄道が大正13年(1924年)2月に開業させた区間。ここも列車を待つ人が多いですね。更に国府宮駅から先、通過となる丸の内駅までは尾西鉄道を買収した現在のとは別の名古屋鉄道(以下、「旧名古屋鉄道」と。)が、新清洲駅までは昭和3年(1928年)2月に、新清洲駅と丸ノ内駅の間が同年4月に開通させた区間です。

【西枇杷島駅通過】
西枇杷島駅通過
【枇杷島分岐点-東枇杷島駅間(庄内川橋梁)】
枇杷島分岐点-東枇杷島駅間(庄内川橋梁)

 丸ノ内駅から先は、名古屋電気鉄道が「郡部線」と称した郊外へと向かう路線として開通させた区間。次駅の須ヶ口駅(通過)までが大正3年(1914年)9月に清洲線として、犬山線が分岐する元の枇杷島橋駅(現在の枇杷島分岐点)までが大正3年(1914年)1月に津島線として、その先は明治45年から大正元年(1912年)に枇杷島線として開業した区間で、現在とは別の位置にあった東枇杷島駅を通り名古屋市内にあるターミナル、古くは柳橋駅、その後は押切町駅まで繋がっていました。また、その名古屋電気鉄道が、郡部線を旧名古屋鉄道に譲渡したのが大正11年(1922年)7月。そして旧名古屋鉄道は美濃電気鉄道を合併し名岐鉄道に名称を変更。先述した昭和10年(1935年)4月の木曽川橋梁部分の開通をもって、名古屋市内の押切町駅と新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)を結ぶ「名岐線」が全通しました。

【栄生駅-名鉄名古屋駅間】
栄生駅-名鉄名古屋駅間
【新名古屋地下トンネル進入】
新名古屋地下トンネル進入

 更に名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併して、昭和10年(1935年)8月、現在の名古屋鉄道が誕生しましたが、実はこの時、岐阜へと向かう元名岐鉄道の名岐線(西部線)と、豊橋へと向かう元愛知電気鉄道の豊橋線(東部線)という名古屋鉄道の二大幹線と言うべき路線は、物理的に繋がっていませんでした。で、それらを繋ぐ「東西連絡線」が計画され、枇杷島橋駅(現在の枇杷島分岐点)から新名古屋地下トンネル内に設置された新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅)までの区間が、昭和16年(1941年8月)に開業。それに伴って東枇杷島駅も移転し、名岐線のターミナルも押切町から新名古屋駅へと変わりました。一方車窓は、ようやくほんのりと明るくなってきたという感じで、まだ良くは見えないのですが、庄内川橋梁を渡って名鉄名古屋駅に近づくにつれ、高い建物が目に入るように。右手にはJR東海道本線が近づき列車と併走したと思ったら、新名古屋地下トンネルに進入します。

【名鉄名古屋駅進入】
名鉄名古屋駅進入

 新名古屋地下トンネルはそれほど深いところまで潜らず、トンネルに入って程なく、新名古屋駅の4番線に定刻の6時25分に到着。さすがにホームには沢山の人が待っていたものの、やっぱり特別席は少なめ。もっとも、さすがは名鉄で最も乗降客数数が多い駅だけあって、気が付けばパラパラと乗っていた我が展望席内の乗客も、ここで何人かが入れ替わりましたが。

【金山駅進入】
金山駅進入

 名鉄名古屋駅を30秒停車で慌ただしく発車した列車は、名古屋本線で一番の急勾配となる35パーミルの坂を登って地上に出ると、昔はナゴヤ球場前駅という名前だった山王駅を通過した後、金山駅に停車。それで名鉄名古屋駅から金山駅を経て、愛知電気鉄道のターミナルだった神宮前駅へと至る区間は、先述の東西連絡線の続きとして昭和19年(1944年)9月に開通した区間。もっとも、当時は直流電化された架線の電圧が、名岐線(西部線)が600V、豊橋線(東部線)が1500Vと異なっていたため(当時の技術では)列車が直通出来ず、金山駅(翌年に金山橋駅と改称)を乗換駅としていました。そして太平洋戦争後の昭和23年(1948年)5月、名岐線が1500Vに昇圧し、名岐線と豊橋線の直通運転が開始。また名岐線、東西連絡線、豊橋線を一本化し、路線名が名古屋本線となりました。

【神宮前駅進入】
神宮前駅進入

 金山駅を発車した列車は、次に停車する神宮前駅の間にある、名古屋鉄道で唯一の複々線区間に。名古屋本線の豊橋方面行き列車は、その間、いちばん山側の線路(進行方向に向かっていちばん左側の線路)を走行。しかし距離が2.2kmと短く、また時間帯的に列車の密度も高くなっていないので、複々線ならではの並走や追い抜きシーンにはお目にかかれなかったというか、気が付いたら終わっていたのはちょっと残念。

【神宮前駅-堀田駅間】
神宮前駅-堀田駅間
【堀田駅通過】
堀田駅通過
【本星崎駅-鳴海駅間】
本星崎駅-鳴海駅間

 神宮前駅から先、名古屋本線の起点である豊橋駅までは、愛知電気鉄道が開通させた区間ですが、神宮前駅から次の停車駅である鳴海駅の先、この列車は通過となる有松駅までは、有松線として大正6年(1917年)5月に全通さた区間。このあたりから、明るくなるにつれ景色がよく見えるようになってきて、空はいい感じに朝焼けてきたというか、雲は多いもののそれ故のブルーグレイな上空から地表に近いところのオレンジまでが美しいグラデーションを描き、その下の景色は、名古屋市の中心部から遠ざかることによって、高い建物の数が減り住宅が多くなるという感じの風景が、前方の大きな窓越しに流れていきます。

【鳴海駅進入】
鳴海駅進入

 そんな中、高架線に登ったと思ったら、鳴海駅に停車。平成18年(2006年)に高架化されたのですが、この列車が停車する4番線は線路がカーブしているため車体を傾けて傾いて停車。特に展望室はハイデッカー構造になっているので殊更そう感じるのかもしれません。また、平成9年(1997年)までは駅に隣接して鳴海工場・鳴海検車区という車両基地がありましたが、駅の高架化工事に伴って、同年に新設された舞木検査場に機能移転されました。

【鳴海駅-左京山駅間】
鳴海駅-左京山駅間

 鳴海駅を定刻の6時40分に発車した列車は、少しの間、市街地にかかる高架線を走行。このあたりで、この列車の乗車時間的にはちょうど半分が経過したことになります。そして高架線を降りて少し走ると有松駅を通過。先述のとおり神宮前駅から豊橋駅までの区間は愛知電気鉄道が開通させた区間なのですが、この先の有松駅から先の区間は、歴史を辿ると興味深いことが。というのも大正時代、当地の都市間、ひいては東京・名古屋間の都市間高速輸送という壮大な構想を掲げた東海電気鉄道という会社が設立されたものの、最大の出資者(JR鶴見線の安善駅にその名を残す安田財閥の創始者、安田善次郎。)の暗殺などで会社の資金繰りが行き詰まり計画が頓挫。東海電気鉄道を救済合併した愛知電気鉄道が、その計画を引き継いだ結果、有松線を延長して豊橋線を建設することになったそうで。それで大正12年(1923年)8月に東岡崎駅まで(当時は岡崎線という名称。)、昭和2年(1927年)6月には当時の吉田駅(現在の豊橋駅)まで延伸され全通しました。

【豊明駅通過】
豊明駅通過
【富士松駅-一ツ木駅間】
富士松駅-一ツ木駅間
【知立駅進入】
知立駅進入
【牛田駅-新安城駅間】
牛田駅-新安城駅間
【新安城駅進入】
新安城駅進入

 一方車窓から見える景色は都市から郊外へと移ってきたようで、豊明駅を通過するあたりから、住宅と農地が混在するようになりました。そして列車は、現在高架化工事中である知立駅に停車。ここから先(実質的には次駅の牛田駅より先だそうで。)の区間は、再び最高速度120km/hが可能な区間。もっとも、程なく新安城駅に停車するせいか、飛ばしている感はあまりなかったのですが。その新安城駅を出るとまた120km/h運転が可能な区間となったものの、速いっちゃ速いけどそれほどスピード感が無いというのが正直なところ。もっとも、スピート感がないからといってつまらないなんてことは全くなく、相変わらず食い入るように前面展望を堪能しまくっているのですが。

【東岡崎駅進入】
東岡崎駅進入
【男川駅-美合駅間】
男川駅-美合駅間
【美合駅-藤川駅間】
美合駅-藤川駅間
【藤川駅-名電山中駅間(舞木検査場横)】
藤川駅-名電山中駅間(舞木検査場横)
【名電山中駅-本宿駅間】
名電山中駅-本宿駅間

 階下の運転席から聞こえてきた7時の時報と共に、東岡崎駅に停車。この東岡崎駅から次の停車駅である国府駅までの区間は、発車してらから停車するまでの時間が、この列車のなかで最長。もっとも、それは時間にして約16分間なのですが。で、これまで直線が多かった線路はカーブが増え、前方には山が。そんな中、平成9年(1997年)に開場した舞木検査場の横を通過。その後、車窓の景色は峠越えの様相を呈してきて、左手上方に東名高速、右手下方に国道1号が寄り添って低い谷あいを進むのですが、国道1号は朝の通勤時間帯とあってか交通量がかなり多いようで。そして低い峠越えを終えた列車は、通過となる名電長沢駅から先、伊奈駅までの区間は線形が良いためまた120km/h運転が可能な区間になるのですが、特に次の名電赤坂駅の先は約8.8kmの名古屋本線最長となる直線区間が続きます。

【国府駅進入】
国府駅進入
【国府駅-小田渕駅間】
国府駅-小田渕駅間
【伊奈駅進入】
伊奈駅進入

 一直線の線路を飛ばすこと少々で、国府駅に停車。この列車に乗っていられるのもあと10分少々となりました。発車後は相変わらず真っ直ぐな線路を快調に飛ばして、最後の停車駅である伊奈駅に到着。ここはかつて、豊川鉄道、後の鉄道省(その後国鉄)飯田線小坂井駅へと向かう小坂井支線の乗換駅。かつては豊川鉄道、その後鉄道省を経て国鉄に変わっても、直通の豊川行き列車が運行されていたそうで。それでここまで来て、この列車に乗ってから最大のガッカリが。というのもこの列車、ここまでの駅進入や通過の際、名鉄特急名物のミュージックホーンを一度も鳴らしていなかったんですよね。この先の区間は後述する理由によってミュージックホーンを鳴らすことはないので、せっかく一番良く聞こえる展望席に乗っていながら聞きそびれてしまったことが、ちょっと残念。(もっとも、前回パノラマsuperの展望席に乗った時に聞いているから良いっちゃ良いんですがね。)

【伊奈駅-平井信号場間】
伊奈駅-平井信号場間

 伊奈駅を出発した列車はこの先、正確には伊奈駅から1.2kmの距離にある平井信号所から先、JR飯田線との共用区間に入ります。というのも現在の名古屋本線、かつての愛知電気鉄道豊橋線の全通にあたって豊橋駅、当時の吉田駅への乗り入れ方法について検討した際、当時単線だった豊川鉄道の路線に沿って愛知電気鉄道が単線の線路を敷設。合流地点となる小坂井駅付近に新設する平井信号場と吉田駅の間は、双方の単線を使った複線運転とすることで最終的に話がまとまりました。ちなみにこの両単線、その間隔が結構離れている箇所もあって、そのせいかどうかはわからないのですが、豊橋駅からの平井信号所までの距離が、名鉄が3.8km、JRが3.9kmとなっています。そしてその後の昭和18年(1943年)、豊川鉄道が国有化して鉄道省(後に国鉄)飯田線になった以降もこの共用方法は守られているのですが、この区間の運行管理はJR東海によって行われているため、最高速度はJR飯田線に合わせた85km/h、乗り入れ本数は毎時最大6本に制限。ダイヤが乱れた際はJR飯田線の運行が優先(名鉄の列車は伊奈駅折返し)され、名鉄独自のミュージックホーンの吹鳴もされないんですよね。

【平井信号場-豊橋駅間(豊川放水路橋梁)】
平井信号場-豊橋駅間(豊川放水路橋梁)
【JR飯田線船町駅通過】
JR飯田線船町駅通過
【豊橋駅進入】
豊橋駅進入

 そんな共用区間をこの列車は、先程までのギャロップからキャンターへと歩様を変えて豊橋駅へと。右側から近づいてきたJR飯田線、東海道本線と合流し、豊川放水路を渡ります。そしてJR飯田線の下地駅を通過し豊川を渡ってJR飯田線の船町駅も通過すると、いよいよ豊橋駅へ。時刻は7時28分の定刻ギリギリで、降りたホームにはこの列車の折返しとなる犬山行き特急列車に乗る乗客で混雑していました。


つづく

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