たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 30/100城目 武田氏館 【平成26年2月8日】

史蹟武田氏館跡の石碑

 前の記事で書いたラーメンをいただいたあとお伺いした、甲府にあるもう1つの日本100名城が、現在は武田神社となっている、武田氏館跡。躑躅ヶ崎館(つづじがさきやかた)という名前の方が通りが良いかもしれませんね。


武田氏館について

 武田氏館は、山梨県甲府市にある連郭式平城というか、戦国時代の居館で、館のあるところの地名からの躑躅ヶ崎館という名前の方が有名ですね。

 甲斐国は元々、清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の武田氏が国守護に任ぜられていましたが、18代当主である武田信虎(あの信玄(晴信)の父)の頃には、有力国人衆や内紛を制して甲斐国内の統一をほぼ成し遂げつつありました。そんな最中の永正16年(1519年)、信虎は甲府を南に見下ろす相川扇状地の開口部に館を築きました。これが、いわゆる躑躅ヶ崎館で、これまで本拠していた川田(現在の甲府市川田町)から本拠を移すと共に、翌年には詰城として館の北東に要害山城を築きました。

 そして、信玄(晴信)の代に武田氏は勢力を拡大し、信濃、駿河、上野、遠江、三河、美濃の一部を領すまでになりますが、本拠は一貫して躑躅ヶ崎館のままでした。しかし、信玄(晴信)の死後、天正3年(1575年)の長篠の戦いで勝頼が敗れた後、現在の韮崎市に新府城を築き、天正10年(1582年)には本拠の移転を行いましたが、程なくして織田信長の甲州征伐により、天目山の戦いをもって武田氏は滅亡に追い込まれてしまいました。

 武田氏滅亡後は、甲州征伐で功績のあった河尻秀隆が甲斐国を領したのですが、以降、甲斐国支配の本拠は新府城ではなく、躑躅ヶ崎館が使われたそうで。ですが、天正10年(1582年)におきた本能寺の変の後に発生した一揆から逃れる最中、武田遺臣である三井弥一郎に討たれ死亡。その後、天正壬午の乱を経て甲斐国は徳川家康が領することになり、家臣の平岩親吉が城代に。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐を経て秀吉が天下を統一すると家康は旧北条領である関東へ移封され、秀吉は同年、家臣で甥の羽柴秀勝を、その翌年には加藤光泰を城主としました。で、この、武田氏滅亡から秀吉の天下統一後あたりに甲府城が築かれると、甲斐国支配の拠点はそちらに移り、躑躅ヶ崎館は廃されることとなりました。

 その後、周辺一帯は田畑と化したものの、竹藪に覆われた館跡は「古城」や「御屋形跡」と呼ばれ、往時を偲ぶ人達もいたらしいのですが、明治時代に入ると史跡の保存運動が起き、大正4年(1915年)には大正天皇の即位に際して武田信玄に従三位追贈が行われたのを契機に武田神社創建の気運が高まった結果、官民一体の「武田神社奉建会」が設立(今では考えられませんが、当時は国家神道との絡みもあったんですかね?)され、大正8年(1919年)に創建され、現代に至っています。

実際に行ってみた

 実は武田氏館跡というか武田神社って、以前(平成22年7月)に一度お伺いしていたりするのですが。でもその時はササッとご挨拶というか、お参りだけで帰ってしまったので、ちゃんと見ようとするのは初めてだったりします。

【武田神社手前の並木道】
武田神社手前の並木道
 それで前の記事のラーメンをいただいた後、相変わらず激しく降り続く雪の中、甲府市内を北の方へ。武田神社手前の並木道で前回来た時の事を思い出したというか、その時(夏)と景色は変われど、またここに来たんだな、と。もっとも、それと同時に、前を走るハイパワー後輪駆動のクルマがちゃんと真っ直ぐ走れるか、ちょっとドキドキしながら見ていたのですが。

【武田神社正面入口のところの石碑】
武田神社正面入口のところの石碑
【正面入口に掛かる神橋から】
正面入口に掛かる神橋から
 ラーメン屋さんから焼く30分程かかって何とか正面入口横の駐車場にたどり着いたのですが(実際、この頃には、雪がだいぶヤバイ感じになっていました。)なんと、こんな天気にもかかわらず、観光客とおぼしきクルマが2、3台。また、この大雪の取材か、地元のテレビ局の車も停まっていました。それでまずはお参りということで。で、神橋奥の左右に見えるのは、昔の土塁跡でしょうか?

【神橋から見た水堀】
神橋から見た水堀(1)神橋から見た水堀(2)
 武田氏館は中世の館跡らしく、周囲に堀が巡らせてあるのですが、正面入口付近はそれが整備された状態で残っています。

【手水舎】
手水舎
【武田菱を模した手水鉢】
武田菱を模した手水鉢
 神橋を渡って参道に入り、まずは手水でお清めを。で、こちらは手水鉢が武田菱を模した形状になっているんです。

【甲陽武能殿】
甲陽武能殿
 手水舎の奥には、「甲陽武能殿」と名付けられた能舞台が。定期的に薪能が行われているようですね。

 その後、拝殿前にて二礼二拍一礼してご挨拶。ちなみに拝殿と本殿の写真はなしというか、以前は脳天気にバシバシ撮っていた時もありましたが、最近、色々と知るにつれ、最低限そこだけは撮っちゃまずいのでは、と思うようになった次第で。

【宝物殿】
宝物殿
【展示物で唯一撮影可能な信玄公の像】
展示物で唯一撮影可能な信玄公の像
 お参りを済ませた後は、宝物殿を拝観。コンパクトながら、武田氏縁の展示物の数々はかなり見応えがありました。ちなみに、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。

【大手口付近】
大手口付近
【大手口のところの堀】
大手口のところの堀(1)大手口のところの堀(2)  
 宝物殿を拝観した後は、近くの大手口へ。名前のとおり、ここが躑躅ヶ崎館だった頃は、こちらの方が正面入口だったそうで。それにしても、ただでさえ木の生い茂った堀は写真にするとわけわからなくなるのに、今回はそこに雪が加わって、もう、何を撮ったのやらという感じで…。

【大手口石塁跡】
大手口石塁跡
 正面入口に当たるこちらには、かつて、石塁があったとりこと。また、三日月堀もあったとされ、その位置関係は重複しているそうで。

 それで、他にも館跡の遺構はあるのですが、相変わらず雪がシャレにならない状態なので引き上げ、せめて帰りがけにクルマで外周を回ろうとしたのですが、それも危なそうだったので断念してそのまま帰ることにしました。

感想とかまとめとか

 というわけで、二度目の武田氏館跡というか武田神社だったのですが、初めて拝観した宝物殿の展示物はかなり興味深かったですね。ですが正直、ひどい雪のお陰で館跡の遺構というかディテールがほとんど堪能できなかったのが、ものすごく残念だったというか。なので勢とももう一度、詰め城の要害山城や、武田氏の新たな拠点としようとした新府城などと共に訪れてみたいと思います。

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

このブログの管理人

HN:
馬 たひお (@uma_tahio)
性別:
男性
趣味:
このブログのとおり
自己紹介:
栃木県のちょいと北の方に住んでいます。
競馬が好き。食べること飲むこと全般が好き。なので、競馬場で飲み食いしている時が、一番幸せです。

【ご注意】 このブログに記載された情報は訪問当時のもので、現在のものとは異なる場合があります。あしからずご了承ください。

ツイッター

ブログ内検索

カレンダー

06 2019/07 08
S M T W T F S
2 4 6
10 12
14 16 18 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

アーカイブ

忍者アナライズ