たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 25/100城目 松坂城 【平成25年10月19日】

史跡松坂城跡碑

 10月下旬に三重、滋賀、岐阜へとクルマで旅して来た時の記事その5は、前の記事の伊勢神宮参拝の後にお伺いしたこちらについて。


松坂城について

 築城は天正16年(1588年)。豊臣秀吉によって伊勢国に12万3千石与えられた蒲生氏郷は、天正12年(1584年)、(現在の松阪市松ヶ島町にあった)松ヶ島城に入部しました。で、ここはここで伊勢神宮へと続く参宮街道、そして伊勢湾に面した要衝だったのですが、城下が手狭であったらしく氏郷は新たに城を築くことに。それで目を付けたのが、飯高郡矢川庄の宵の森(古くは意悲の森)、もしくは四五百森と呼ばれた丘。ここに縄張りをして築城を開始しました。

 その普請はかなりの突貫工事で、不足する木材は領内の寺院を取り壊し、また石垣の石は墓石から古墳の葺石や石棺の蓋まで使って約1年で完成させました。(その後も造営は続けられたらしいですが。)その際、本丸には三層五階の天守が築かれたそうで。それで完成した城に「松坂」と名前を付け、更には城下町の整備にあたっては松ヶ島の住人を強制的に移住させ、また氏郷の出身であった近江の日野から近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設けたり、松ヶ島を通っていた伊勢参宮街道を松坂の中心部を通るようにするなどその後商都として発展する松坂の礎を築いたとされます。

 そんな氏郷なのですが、小田原攻めの功績や秀吉の伊達政宗に対する警戒の意味もあって(氏郷の有能さを煙たがった秀吉が遠ざけたなどという話もあるようで。)などにより、天正18年(1590年)の奥州仕置によって会津に移封。替わってやってきたのが、かつて桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をあげた服部一忠だったのですが、文禄4年(1595年)の(豊臣)秀次事件の際、秀次に連座したということでに切腹に。そしてやってきたのが秀吉家臣の古田重勝で、この時、城の改修を行ったそうです。で、秀吉の没後に迎えた関ヶ原。勝重は西軍に付くよう説得を受けるもこれに応じず、松坂城に籠城するなどして西軍を引き留めた結果、その功績を認められ5万5千石(豊臣時代から2万石余りを加増)をもって松坂藩初代藩主となりました。しかし、江戸時代に入った慶長11年(1606年)に没すると弟の重治が藩主を継ぎますが、元和5年(1619年)に石見国浜田に転封となりました。

 その後、松坂は紀州藩の飛び地とされ城代がおかれることとなったのですが、城内には和歌山藩主の宿泊施設などが設けられ、寛政6年(1794年)には二の丸に陣屋が、また幕末の文久3年(1863年)には近くに御城番長屋が建てられました。しかし、松坂城の天守や門などの建築物は放置されていたようで、天保元年(1644年)には台風によって天守が倒壊したと伝えられ、以後再建されることはありませんでした。そして明治に入り、明治4年(1871年)に廃城となり、その後失火により二の丸御殿が焼失しますが、他の建物もそのほとんどが破却されて、水堀も埋められてしまいました。しかし、昭和63年(1988年)から平成15年(2003年)にかけて、発掘調査と石垣を含む大規模な修復がおこなわれました。

実際に行ってみた

 実はこの松坂城。当初の予定では、明日というか、旅の二日目の朝イチでお伺いする予定でした。しかし、前記事のとおり、お伊勢さんを早々に切り上げてしまったというか、明日の天候が今日より悪くなるという予報もあって、この日の内にお伺いすることにしました。

【松阪市内】
松阪市内
 それで伊勢から松阪まで、国道23号などを通って移動。途中、雨は強くなったり弱くなったりしていましたが、松阪市内に入ると空も少し明るくなったような。

【松阪市駐車場】
松阪市駐車場
 松坂城にぶつかって右に折れるような感じで市民病院前を通って野球場のところにある市駐車場へ。ちなみに駐車料金は無料でした。

【市営駐車場から表門跡の間の石垣】

市営駐車場から表門跡の間の石垣
【表門から先(南東方向)の石垣】
表門から先(南東方向)の石垣
 それで先程ちらと見えたのですが、この駐車場から表門まで歩くだけで、松坂城の魅力の一端が。草に覆われた野面積みの石垣で「おっ」と思ったのですが、更に表門から先は、もう、見事と言うしか。それを堪能しつつ石垣に沿って歩いてみたいのですが、とりあえずは表門から中へ。

【表門付近】
表門付近
 表門跡を通ってお城の中に入ると、これがまた良い雰囲気。で、こちらの石垣は、基本的には野面積みですが、角の部分はこのように算木積みや切り込み接ぎも使われています。

【表門付近の松阪城跡碑】
表門付近の松阪城跡碑
 表門から入って突き当たりのところにも城跡碑があるのですが、こちらは先程の「松坂」ではなく「松阪」になっています。(どちらが正しいというわけではないんですがね。)

【松阪市立歴史民俗資料館】
松阪市立歴史民俗資料館
 表門から入って突き当たりを右に進んで坂を登ったところには、松阪市立歴史民俗資料館が。日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。(この他、同じ松坂城内にある本居宣長記念館にもあります。)ちなみにこの建物は明治43年に飯南郡図書館として建てられ、昭和52年まで松阪市立図書館として使用されたもの。また内部は松阪の商家に関するものや、松阪木綿、伊勢白粉に関するものなどで、コンパクトなのでサクっと見学できます。

【助左衛門御門跡付近】
助左衛門御門跡付近
 歴史民俗資料館を背に進もうとすると、表二の門にあたる助左衛門御門跡。写真右手にちらっと写っている櫓台は鐘ノ櫓跡だそうで。それで、助左衛門さんって、城主が古田勝重の時の留守居役で、関ヶ原の戦いの際、城主の留守中に来た「西軍へ属しろ」という要請をかたくなに断lり続けたという古田助左衛門のことですかね?

【本丸下段と月見櫓跡】
本丸下段と月見櫓跡
【本丸下段と太鼓櫓、金ノ間櫓跡】
本丸下段と太鼓櫓、金ノ間櫓跡
【月見櫓跡から見た表門方向の石垣】
月見櫓跡から見た表門方向の石垣
 助左衛門御門からの坂を登れば本丸下段に。上写真奥の低い櫓台は月見櫓跡です。そして中写真の左手奥方向が太鼓櫓跡で、右手前の高いのが金ノ間櫓跡。それにしても、傾斜が直線的な石垣というか。反ってるのも色っぽくて良いけど、こういうスパッとしたシルエットのも味わいがあって良いなぁ。

【中御門付近(1)】
中御門付近(1)
【中御門付近(2)】
中御門付近(2)
 本丸下段から本丸上段の間には中御門跡が。で、ここを登れば本丸上段に。降りれば隠居丸、二の丸方面へ。

【本丸上段】
本丸上段
【金ノ間櫓跡】
金ノ間櫓跡
【天守台及び敵見櫓、付櫓跡】
天守台及び敵見櫓、付櫓跡
 中御門から続く坂というか段を上れば本丸上段。ちなみに下写真は右手前に敵見櫓、真ん中付近が付櫓、そして左奥が天守となります。それにしても天守台は、想像以上のコンパクトさだったというか。

【本丸ときたい丸の間あたり】
本丸ときたい丸の間あたり
 このあたりから裏側っぽい雰囲気がしてこれまた良い感じというか。

【きたい丸】
きたい丸
 本丸から店主を挟んで西側にあるきたい丸は、現在梅林になっていました。

【本丸石垣にあった穴】
本丸石垣にあった穴
【太鼓櫓付近の石垣】
太鼓櫓付近の石垣
 この後は本丸の石垣を眺めながら戻ってきたのですが、途中の石垣に謎の穴が。排水溝?通路?狭間?

【隠居丸】
隠居丸
【隠居丸から見た御城番長屋】
隠居丸から見た御城番長屋  
 再び中御門を通って今度は隠居丸へ。ここに、本居宣長の旧宅が移築してあるのですが、団体さんというか、何かの集まりがあったらしくガヤガヤしていたので、写真を何枚か撮っただけでスルーしてしまいました。また、ここから見えた御城番長屋については後ほど。

【二ノ丸と藤棚】
二ノ丸と藤棚
 かつて徳川陣屋があった二ノ丸。また、写真に写っている藤棚は樹齢300年を越えるという古木で、1本で105坪もの広さになっているそうです。

【月見櫓の高石垣】
月見櫓の高石垣
 何度見てもやっぱり、こちらの石垣は見事だなぁ。でも、カメラのレンズに水滴が付いてしまって残念…。

 以上、とりあえず城内を一通り散策した後、先程隠居丸から見て気になった御城番長屋へ。

御城番長屋

 御城番長屋は、幕末に起こった紀州藩田辺詰与力騒動の際に一時浪人となった藩士20名が、その後松坂御城番職として紀州藩に復帰することになったのですが、その藩士と家族の住居として文久3年(1863年)に建築された建物。平成16年(2004年)には国重要文化財にしていされています。それでなんと、今でもその子孫の方々がお住まいになっているのですが、その一部は一般公開もされています。

【御城番長屋】
御城番長屋
【生け垣の内部】
生け垣の内部(1)
生け垣の内部(2)  
 一般公開されている部分は当時の姿に復元され、建物の中にも入れるようになっています。それにしても、150年も前の建物が、しかも当時お住まいになっていた方の子孫の方の手で維持管理され今も生きているって凄い事なのですが、更に実際に見てみると、生きている建物が持つ独特の雰囲気も感じられて、これがまたなんとも。

感想とかまとめとか

 というわけで松坂城だったのですが、まずはやはり、その石垣の見事さが印象に残りました。熊本城などの壮大で立派な石垣も素晴らしいですが、こちらのように野面積みで緻密に積み上げた物も、また別の趣があって素晴らしかったです。また、お城自体のコンパクトさというか、さほど広くない城域の中に、お城を楽しむ上でのエッセンスがギュっと詰まっているように感じられたのも魅力的だったというか。下手に建物などを復元して観光地化するより、現存する石垣や曲輪を堪能できるこのような保存方法の方が、個人的には好きというか良いと思いますね。というわけで、伊勢神宮でちょっと下がってしまったテンションも復活することができました。で、こちらもまた何時か、今度は天気の良い日にでも、お伺いしたいですね。

 それともう一つ。今回こちらにお伺いするに当たって(また、した後も)色々と調べた際、大変に興味をそそられたのが、築城主である蒲生氏郷公。これまでは、失礼ながら個人的にマイナー感がある戦国武将だったのですが、2月に行った会津若松城(鶴ヶ城)を築き、そして8月に行った盛岡城築城の際にも大きな役割を果たしたというのが、今回アタマの中でようやく1つに繋がったというか。で、その結果、その人となりや功績が、改めて魅力的に感じられたんですよね。こういうのって、今年の2月に(会津若松城に続いて)行った山形城の際の最上義光公以来というか、こいいうことがあるのも、遅ればせながら歴史に興味を持つことが出来たおかげかなぁ、なんて。

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