たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 13/100城目 山形城 【平成25年2月9日】

山形城趾碑

 このところ、先日の三連休を利用(と言っても、旅に出たのは9,10日の2日間ですが。)して東北の日本100名城を巡った時の記事が続いておりますが、ようやくその2城目というか、初日の最後に訪れたのは、山形県山形市にある山形城です。

山形城について

 山形城は、山形県山形市にある国の史跡(昭和61年に指定)。輪郭式の平城で、別名は霞(か)城や霞ヶ城というのですが、これは慶長5年(1600年)に上杉氏(の直江兼続)が山形に侵攻した(関ヶ原の戦いとも大いに関係する)出羽合戦の際、周りを霞が取り巻き城を守った(城を隠した)事に由来するそうです。

 もともとは、南北朝時代の正平11年/延文元年(1356年)、後に屋形号を許され最上氏の祖となる斯波(しば)兼頼が羽州探題として山形に入部した際に築城したとの事。その後最上氏は室町時代に隆盛を誇りますが、天童氏などとの同族争いやお隣の伊達氏の干渉により衰退。一時は伊達氏の傘下となっていた事もあったそうで。しかしその後、戦国時代に入ると伊達家内部で天文の乱が勃発。それを機に独立を果たし、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて当主となった(11代当主)義光の頃には57万石(山形藩の最初の石高。ただし異説もあり。)を誇る大大名となり、慶長年間には山形城を奥羽随一と言われる規模に拡張。城下町も整備されました。

 ですが、義光の没後、孫に当たる義俊の代となる元和8年(1622年)、最上騒動と呼ばれるお家騒動が起き、結局も最上家は改易。最上家の旧領地からいくつかの藩が立藩されましたが、山形城には山形藩主として、徳川家譜代の重臣、鳥居忠政が24万石(これも異説有り。)をもって入封。これは伊達や上杉に対する警戒という意味もあった様で。で、本丸や二の丸を今に残るカタチに改築したのですが、子の忠恒の代に継嗣が無く33歳で病死となり、末期養子の禁令に触れ鳥居家は改易。その後の寛永13年(1636年)に20万石でやって来たのはこの後会津藩に転じ会津松平家の祖となった保科正之なのですが、そんなわけで寛永20年(1643年)には会津に転封。後は譜代や親藩が次々に藩主を務めるものの、いつしか石高は減って(ほとんど10万石以下)、山形藩最後の藩主となった水野忠弘は5万石。なので、最上氏57万石の頃の広い城域は江戸中期以降維持出来なくなり、幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に。一部の施設は荒廃したまま放置され、更に三の丸の西半分は田畑となっていたそうです。

 そして明治時代。廃城となり城が売りに出されると山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致。残っていた城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられてしまいました。更に昭和に入って太平洋戦争後、二の丸の内側は霞城公園として整備され、その外側は市街地化が進んでいきました。ですが、昭和61年(1986年) 国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸が復元。その後も平成3年(1991年)に二の丸東大手門が、平成18年(2006年)に本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元されました。

実際に行ってみた

【霞城公園北口入口】
霞城公園北口入口
 米沢でラーメンをいただいてから山形へと向かったのですが、着いたのは午後3時を回った頃。日も傾いてきていたので、とりあえずカーナビの指示で着いた北門から入城して付近を見学。

【北不明門】
北不明門
 名前が不明なので不明門とのこと。入ったところに無料の駐車場があります。

【北不明門の石垣】
北不明門の石垣
 石垣には、意味ありげなマークが。

【北門付近の石垣・土塁と堀】
北門付近の石垣・土塁と堀
 東日本お城らしく、石垣は門付近のみであとは土塁という構成。それにしても、水鏡がきれいでした。

【北門の堀付近にいた猫】
北門の堀付近にいた猫
 霞城公園には捨て猫が多数住み着いているとのこと。確かに、ここにも3匹(と写真には写っていないけどあと2匹)の猫が日向ぼっこをしていました。

 で、このまま北門近くの無料駐車場に止めて見学しても良かったのですが、復元された二の丸東大手門に外から入りたかったのと、お城の後で見る予定の最上義光歴史館に近い所にクルマを停めたかったので、移動。一度北不明門から出て、東大手門近くにある山形市営大手町駐車場と言うところへクルマを停めました。(ちなみに、料金は最初の1時間250円で、後は30分ごとに100円となっています。)それで実は、北門から大手町駐車場に来る間、近道しようとして逆に迷ったりしたおかげで、ますますもって日が傾いてしまったというか、歴史館の閉館時刻も気になりだしてきました。なのでここからは、勿体ないのですが少々早足で見学。

【二の丸東大手門】
二の丸東大手門
 見事に復元された、二の丸東大手門。ちなみにこの門の規模は、江戸城の城門に匹敵するそうです。

【二の丸東大手門付近の石垣・土塁と堀】
二の丸東大手門付近の石垣・土塁と堀(1)
二の丸東大手門付近の石垣・土塁と堀(2)
 堀のすぐ脇には、JR奥羽本線(山形新幹線)が走っています。

【最上義光公銅像】
最上義光公銅像
 二の丸東大手門から入ると、最上義光公の見事な銅像が。で、不思議なことにどの角度から見てもお顔がよく見えないのですが、これは義光公存命当時の肖像画が一枚も残っていない(=お顔がよくわからない)所為もあるんですかね?

【復元された大手橋】
復元された大手橋
 将来的には大手橋を含めた一文字門全体が復元される予定とのこと。

 と、ここまで見たところで、残念ながらタイムリミットというか、歴史館に向かう事に。

【最上義光歴史館】
最上義光歴史館
 こちらが、最上義光歴史館。入館は無料となっています。で、展示スペースは割とこぢんまりとしているのですが、最上義光公愛用の指揮棒や、出羽合戦の長谷堂城の戦いの際に上杉軍が放った鉄砲が命中した(その傷跡が残る)兜(一部復元)など、貴重な史料が展示してあり、見応えがありますね。それにしても、ここを含めもっとゆっくりと見たかったというか…。

 そしてその日は、山形市内に一泊。で、その翌朝。次の目的地に向かう前に、市内中心部にある山交バスの山交ビル角バス停付近へ。

【三の丸土塁】
三の丸土塁(1)
三の丸土塁(2)
 市街地中心部の一角に、ここだけポツンというか、ビルの裏手に土塁が残っているんですね。っていうか、ここが三の丸って、本当に城域が広かったんですね。

感想とかまとめとか

 というわけで、遺構はそれほど多くないのですが、それでも、奥羽随一と言われた立派な城の片鱗には触れることが出来たような気がします。そして何より、最上義光公!個人的には、大河ドラマの『独眼竜政宗』で、故原田芳雄さんが演じたエキセントリックな悪役というイメージしか無かったのですが、山形城を訪れるにあたって(また帰ってきてからも)、山形城や最上氏の事を調べた際、そこに出てくる義光公の人物像が、もの凄く魅力的なんですよね。で、そんな事を知ることが出来たのも、100名城巡りのお陰かな、なんて。今回は駆け足での訪問となってしまったのですが、何時かまた当地を訪れ、山形城や歴史館を含めた、義光公ゆかりの地をゆっくりと訪ね歩いてみたいと思います。

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