たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 24/100城目 盛岡城 【平成25年8月28日】

史蹟 盛岡城址の石碑

 前の記事であげた青森県八戸市の根城を後に八戸道から東北道と家のほうに近づきつつ向かったのは、岩手県盛岡市にある盛岡城。この旅行で立ち寄った最後のお城になります。


盛岡城について

 盛岡城は、岩手県盛岡市にある連郭式平山城で、元々の当地の地名からとった不来方城という別名も有名かと。

 その築城の経緯なのですが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し参陣した三戸南部氏の当主である信直が、その後の奥州仕置の際に所領七郡を安堵され、南部氏の当主として認められました。その際、前にあげた根城の記事でもちょっと触れたのですが、たとえ有力な同族であっても同盟関係ではなく、家臣として宗家(この場合三戸南部氏)への服属を求められました。で、それが面白くなかったのが、元々同族であり、我こそが南部家の正統な当主であると自称していた九戸政実。それ以前より九戸氏と三戸南部氏とはちょいちょいトラブっていたそうなのですが、奥州仕置の翌年である天正19年(1591年)3月に、政実が挙兵。いわゆる九戸政実の乱が勃発しました。しかし、精強な九戸郡に対して信直の力だけでは鎮圧出来ず、結局のところ秀吉に頼んで、秀吉は奥州再仕置軍を編成。それによって九戸政実の居城であった九戸城は落とされ、乱は鎮圧されました。その後、奥州再仕置軍に参加し秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城を改修して信直に引き渡したのですが、信直はそこを福岡と改名し、こちらに居城をしました。ですが、氏郷や(奥州仕置きの実務を担当し、奥州再仕置軍にも参加した)豊臣政権五奉行筆頭である浅野長政から、本拠地の位置としてあまりにも北すぎるとの助言を受け、文禄元年(1592年)に居城を不来方に移すことを決定しました。

 で、その年には築城予定地の整地が開始されたらしいのですが、信直の嫡子利直を総奉行として実際に城の普請が始まったのは慶長2年(1597年)ともその翌年とも。(慶長3年に行われた、秀吉の京都醍醐の観桜会直後に、信直が秀吉から築城許可を得て築城開始という話も伝わっているようで。)そして慶長4年(1599年)には一部完成し、信直が入城したという話もあるのですが、同年10月、信直が病没。翌年には城自体の普請も一応終わったのですが、それ以降の築城は中断されたようで。その後、関ヶ原の戦いでは利直は東軍に付いた(しかし某政宗のおかげで帰国するハメに。)ため、家康より所領を安堵されました。また、この時期に城の所在地というか地名の不来方は「心悪しき文字」だと利直が思った為、森ヶ岡を経て現在の盛岡に改められたらしいです。あと、わりとどうでも良い話なのですが、このあたりで成立した盛岡藩の初代藩主は、信直になるのか信直の嫡子利直になるのか、今回この記事を書くにあたって見た資料によって違ったりしてるんですよね。

 それはさておき、慶長8年(1603年)頃から築城が再開されたのですが、冬季には作業ができず、また当地が度々水害にみまわれるなどしてなかなか工事は進まなかったようで、ようやく完成をみたのが利直の次代である重直が藩主を務めていた寛永10年(1633年)。東北地方で一般的な土塁メインではなく、珍しく石垣を多用した、総石垣作り城と城下になりました。それで重直は盛岡城を南部氏の居城と定め、以降、幕末までそれが続くことに。(盛岡藩も江戸時代を通して藩主が変わらなかったんですねぇ。)

 やがて明治維新を迎え、廃藩置県後、例によってお城は陸軍省の管轄に。明治6年(1873年)の廃城令で盛岡城は存城処分となったものの、明治7年(1874年)には城内の建物のほとんどが入札により払い下げられ、取り壊されました。(もっとも、存城といっても、城郭の保存が目的ではないんですがね。)その後、陸軍用地となった一部を除き、城内の土地は旧藩主である南部家に払い下げられることに。で、この当時、お城はかなり荒れていたらしいのですが、県が土地を借り受け、岩手公園として整備。明治39年(1906年)に開園し、それ以降市民の憩いの場となりました。昭和9年(1934年)には土地が南部家から盛岡市に譲渡され、昭和12年(1937年)には国の史跡に指定。昭和59年(1984年)からは盛岡市によって石垣の修復および発掘調査が開始されました。そして平成18年(2006年)、岩手公園開園100周年を記念し「盛岡城跡公園」と愛称が付けられました。

実際に行ってみた

 実はこの盛岡城。今回の旅の当初の予定ではお伺いすることになっておらず、実際は旅の途中で立ち寄ることに決めたというか。そんなわけで冒頭に書いたとおり、八戸から八戸道、東北道と走って丁度お昼頃盛岡ICへ。

【岩手県営内丸駐車場】
岩手県営内丸駐車場
 そこからわりとスムーズに、時間にして10分ちょっとで盛岡城というか岩手公園のあたりまで来ることができたのですが、駐車場を探すうちにお城のまわりをほぼ一周。結局のところ県庁近くというか合同庁舎のところにある県営内丸駐車場というところにクルマを停めることができたのですが、ここって今後のお城探索に便利な場所だったというか。

【亀ヶ池】
亀ヶ池
【鶴ヶ池】
鶴ヶ池
 駐車場の(道路挟んだ)隣にはかつての水堀が残っていて、案内看板によれば亀ヶ池となっていました。で、そこから飲食店街を挟んだ反対側にも水堀があり、そちらは鶴ヶ池と。

【もりおか歴史文化館】
もりおか歴史文化館
 まずはこちらで、日本100名城スタンプラリーのスタンプをゲット。その後内部をさらっと見学して予備知識を仕入れました。そしてこちらを出た後は、近くにあった案内看板を見ながら、どんなコースで城内を巡ろうかと暫し検討。

【帯曲輪付近の巨石】
帯曲輪付近の巨石
【残念石?】
残念石?
 まず訪れたのが腰曲輪を取り巻く位置にある帯曲輪。前述のとおり盛岡城は東日本では珍しい石垣を多用したお城なのですが、その石の産地の一つが城内のこのあたりだったそう。確かに、巨石が地表に露出し、また案内看板には残念石という表記もありました。

【腰曲輪南東部の石垣】
腰曲輪南東部の石垣
 花崗岩の見事な石垣ですねぇ。ちなみにこのあたりの石垣は、寛永年間初期のものらしいです。

【彦御倉】
彦御倉
 腰曲輪の南にあるのが、盛岡城で唯一残った藩政当時の建物である彦御倉。(推定)江戸時代後期の建物で、元々は腰曲輪の南西角付近にあった物を、市道拡幅の際にこちらに移築したとのこと。

【腰曲輪南西部の石垣】
腰曲輪南西部の石垣
 こちらも寛永年間初期の石垣。盛岡市の資料では「乱積」となっており、盛岡城では一番多い積み方のようです。

【腰曲輪西側の石垣】
腰曲輪西側の石垣(1)
腰曲輪西側の石垣(2)
 こちらは、腰曲輪西側にある曲輪へと登る坂道付近。このあたりの石垣は盛岡市の資料では「布積」となっていて、先ほどとはまた表情が違いますね。

【腰曲輪】
腰曲輪
 建物は無く、桜が植えられていました。この一帯は、桜の名所だそうですね。 

【本丸南側の腰曲輪へと続く階段付近】
本丸南側の腰曲輪へと続く階段付近
 このあたりの石垣もまた違った表情。ちなみに盛岡市の資料では「間知積」となっていました。

【本丸と二の丸と渡雲橋(太鼓橋)】
本丸と二の丸と渡雲橋(太鼓橋)
 左手が本丸で右手が二の丸。そしてその間に掛かるのが渡雲橋(太鼓橋)。橋の赤色があらオサレというか。ちなみに、このように本丸と二の丸を橋でつなぐ構造って、結構珍しいみたいですね。

【二の丸】
二の丸
 こちらは、紅葉の名所だそうで。

【榊山稲荷曲輪】
榊山稲荷曲輪
【腰曲輪から降りる階段付近の石垣】
腰曲輪から降りる階段付近の石垣
 腰曲輪というかそこと二の丸の接点付近の西側にちょこんと飛び出すようにあるのが、榊山稲荷曲輪。この付近の石垣も(以下略)。

【本丸と南部利祥中尉銅像台座】
本丸と南部利祥中尉銅像台座
 本丸には、南部家42代当主で日露戦争に従軍し戦死した南部利祥中尉の銅像の台座のみが残されています。その銅像は明治41年(1908年)に建立されるも、太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に金属供出によって撤去されてしまいました。

【三の丸の石垣】
三の丸の石垣
 このあたりの石垣は石が大きいのが特徴的ですが、元々の石垣が地震で崩れたのを宝永年間に修復したものだそうで。

【櫻山神社】
櫻山神社
 お城を一通り堪能したあとは、三の丸に隣接したところにある櫻山神社へ。こちらの境内に、盛岡城築城時に出現した巨石「烏帽子岩」が祀られているのですが、実際に目にするとその大きさに圧倒されました。

感想とかまとめとか

 というわけで盛岡城だったのですが、東北随一と言われるその石垣を十二分に堪能することが。お陰で「石垣大好き!」な同行者のテンションもかなり上がっていましたね。(今回の旅で訪れたお城がどれも控えめな石垣だったので、かなり飢えていたらしい…。)前述したとおり、今回の旅で当初は寄る予定ではなかったのですが、その場所場所によって色々と表情が違う石垣を見られただけでも、予定を変更して寄った甲斐があったというもので。それと、お城とは直接関係ないのですが、もりおか歴史文化館で見た南部氏ゆかりの品々が、個人的にとてもグっときたというか。実はこれ、根城の後に寄った八戸市博物館でも思ったのですが、根城南部氏や三戸南部氏が共通して持っている独特のセンスというか美意識が表れた品々が、どれもものすごく格好良かったんですよね。っていうか、昔の日本の物って、ものすごく洗練された格好良さを感じさせてくれることが度々あるというか。

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