たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 32/100城目 小田原城 【平成26年3月9日】

「北条早雲と小田原城」の顔出し看板

 3月はじめに伊豆と東京に行ってきた時の記事ですが、前の記事の石垣山城に来たら当然こちらも訪れるべきだと思われる小田原城について。後北条氏の本拠で、日本100名城にも選ばれた有名なお城でが、石垣山城は訪れたことがあったにもかかわらず、じつはこちらは初めてだったりします。


小田原城について

 小田原城は、神奈川県小田原市にある平山城。昭和13年(1938年)に城跡が国の史跡に指定されています。

 その築城時期については諸説あるらしいのですが、一説によると、室町時代の応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱によって小田原を含む相模国足柄下郡の地を与えられた大森氏が、享徳3年(1454年)頃、八幡山に築城。もっともこれは詰めの城で、大森氏の館は天守の辺りに有ったとも言われています。

 で、その小田原城を奪ったのが、後北条氏の始祖で後に北条早雲と呼ばれることになる伊勢盛時。明応2年(1493年)にいわゆる『伊豆討入り』で伊豆国を手中に収め、韮山城をその本拠としていたのですが、その後、当地の政治的動きに応じて大森藤頼から城を奪取。ちなみにその時期も諸説有って、一説には明応4年(1495年)ですが、他にも応年間(~1501年)や永正2年(1505年) までの間で特定できないとも。また奪取後に大規模な改修を行ったとも言われています。その後、盛時は永正13年(1495年)に相模国を平定するのですが、その本拠は韮山城に置いたままでした。

 それで小田原城に後北条氏の本拠が移るのが、盛時の子である氏綱に代が変わってから。また、「北条」を名乗るようになったのもこの氏綱からと言われています。その後、後北条氏は氏康、氏政、氏直と代が変わっても勢力は拡大を続け、途中、上杉謙信や武田信玄の侵攻を退け最終的には関東の大部分と駿河国の一部に及ぶ(後の試算では石高240万石とも)広大な区域を支配することになるのですが、途中城も幾度か改修され、氏綱時代の大永4年(1524年)に本丸、御用米曲輪、二の丸が作られたり、氏政の時代の永禄9年(1566年)から12年(1569年)の間には、この時期争っていたの上杉、武田の侵攻に対抗、もしくは攻められた後の修復のため改修。また三の丸外郭の普請に着手し、それは氏直に代が変わっても進められると共に支城も整備されました。

 そんな中、本能寺の変以降、織田信長の天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、天正15年(1587年)に「関東・奥羽惣無事令」 を発し私戦を禁止、また後北条氏にも臣従を促すのですが、家格の維持や民政不介入を条件に表面上は恭順の意思を示しつつも、氏政、氏直親子は要求された上洛を拒否。また、近隣諸国からも人夫を集めて小田原城の大修築(相府大普請)を行います。そして天正17年(1589年)、いわゆる沼田問題からの名胡桃城占領事件が発生。それを以て秀吉は、惣無事令違反として後北条氏に対し宣戦を布告したのですが、後北条氏も秀吉の侵攻に対抗して約9kmにも及ぶ空堀と土塁で城下を囲んだ惣構を構築、また、山中城など城砦の改修、整備もなされました。そして天正18年(1590年)。とうとう秀吉の小田原征伐が行われたのですが、籠城による長期戦に持ち込もうとした北条方に対して、支城の攻略や石垣山城の構築によって北条方は(思いの外早く)戦意を失い、小田原城はほぼ無血で開城。氏政は切腹、氏直は高野山に追放となりました。

 小田原征伐後、関東は徳川家康に与えられ、天正18年(1590年)、家康は重臣の大久保忠世を小田原城主に。文禄3年(1594年)には忠世の逝去に伴い子の忠隣が跡を継ぎ、江戸時代に入るとそのまま小田原藩初代藩主になりますが、この大久保氏の時代に、小田原城はその規模を縮小されつつも石垣を使った近世城郭に改修されたそうで。ですが忠隣は、慶長19年(1614年)に幕府内の政治的なからみで突如改易になり城は破却。二の丸・三の丸の石垣・城門が破壊されました。以降、阿部正次が短期間城主を務めた他は城代が置かれたり、また、徳川秀忠の隠居城にする計画が持ち上がったりもしたのですが、結局は寛永9年(1632年)に稲葉正勝が城主となり、それにあたって再度整備。寛永11年(1634年)に正勝の逝去に伴って子の正則が跡を継ぎますが、この頃に小田原城の公儀普請に着手し、櫓の建造及び天守の新築、桝形の変更や曲輪石垣の積み足しが行なわれ、延宝3年(1675年)にそれら一連の改修が完了しました。その後、天和3年(1683年)に正則の子の正往が跡を継ぎますが、政治的なからみで(本当のところは不明だそうですが)貞享2年(1685年)に国替えとなり、翌年、大久保忠隣の孫にあたる忠朝が藩主となると、以降、幾度かの大地震や富士山の噴火によって被害を受けつつも幕末までその居城で有り続けました。

 そして明治維新を迎え、小田原城も廃城となり、天守をはじめとする城内のほとんどの建物が破却されて、また天守がなくなった跡には御用邸が建てられたのですが、大正12年(1923年)に発生した関東大震災によって御用邸は大破(後に廃止)。また、石垣も大部分が崩壊し、唯一残っていた二の丸平櫓も倒壊してしまいました。その後、石垣が積み直されたり、二の丸櫓が復興されたのですが、現代の復元とは違って元の姿に忠実な復元はなされなかったようで。また、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守も、本来無かった高欄が取り付けられたりしました。そしてその後も城の復元は続けられ、昭和46年(1971年)には常盤木門が外観復元され、平成元年(1989年)には住吉橋が、平成9年(1997年)には銅門が、平成21年(2009年)には馬出門が復元され、平成23年(2011年)には馬屋曲輪が整備されました。

実際に行ってみた

【今回クルマを停めた駐車場】
今回クルマを停めた駐車場
 前の記事であげた石垣山城にお伺いした後、一部でものすごく混雑していた小田原市内を走ってお城近くに到着。小田原城には公設の駐車場はないので近くの民間駐車場を探すのですが、たまたま、お城に接する三の丸駐車場というところに停めることができました。

【小田原城址公園南入口付近】
小田原城址公園南入口付近
 小田原城跡は城址公園となっているのですが、そこの今回停めた駐車場から一番近い入口である南入口から、いざ。

【小峰橋(御茶壺橋)】
小峰橋(御茶壺橋)
 南入口は、江戸時代の箱根口門にあたる場所からお城に入ることになるのですが、そこでまず渡るのが御茶壺橋とも呼ばれる小峰橋。橋自体は当時のものとは違いますが、かつてこの位置に橋が架けられていたそうで。で、何で御茶壺橋かというと、時代劇にも度々その題材として取り上げられる御茶壺道中(宇治から江戸まで将軍に献上する御茶を運んだ)の際、その御茶壺を一時保管する倉が、小田原城内にあったそうで。それで、道中が小田原城に到着して御茶壺をその倉にしまう際と取り出す際、この橋を往復したことからその名が付いたとのことで。

【小峰橋から見た堀と石垣】
小峰橋から見た堀と石垣
 そのまんま。ちなみに、右手の石垣の上に見える建物は小田原市郷土文化館で、ついうっかりしていて見学しなかったのは失敗でした。

【御茶壺曲輪】
御茶壺曲輪
【御茶壺曲輪の土塁】
御茶壺曲輪の土塁
 小峰橋を渡って右手が、御茶壺曲輪。かつてここに、前述の御茶壺を保管するための倉があったからそう名付けられたとのこと。またここには、曲輪の周囲に土塁が残って?いました。

【馬屋曲輪】
馬屋曲輪
 御茶壺曲輪の東隣が、平成23年度に整備された馬屋曲輪。ここには、曲輪の名前の由来となった馬屋や、登城者の待機所兼番所の大腰掛けという建物などがあったそうで。

【馬屋跡】
馬屋跡
【大腰掛け跡】
大腰掛け跡
 曲輪の南側にあるのがが馬屋跡。現存している彦根城の馬屋を参考に計算すると、14頭の馬を繋いでおける広さだったとのこと。またこの馬屋は徳川将軍家来の登城時専用だったということで、将軍家の威光と当地の重要性が感じられます。それと、その東側には登城者の待機所兼番所の大腰掛け跡が。

【六角井戸】
六角井戸
【馬屋曲輪櫓台】
馬屋曲輪櫓台
 馬屋曲輪には、他にも珍しい六角形の井戸や、曲輪の南東隅には二階櫓の櫓台があります。

【馬出門】
馬出門
 馬屋曲輪の北東には、平成21年に復元された角馬出と馬出門が。で、復元は発掘調査の成果などに基づき、構造まで再現されています。それにしても、復元とはいえこのようにそのものを目の前に出されると、馬出というものがどういうものかよく伝わってきますね。

【銅門全景】
銅門全景
【銅門】
銅門
 馬出曲輪から二の丸へ入るところにあるのが、平成9年に復元された銅門で、二の丸の正門にあたるそうで。ちなみに名前の由来は、大扉などの装飾に銅が使われているからだそう。で、この巨大な櫓門って、戦国BAS○RAで見たことが!

【二の丸】
二の丸
 銅門を抜けると二の丸。とりあえず、広いです。

【歴史見聞館】
歴史見聞館
 二の丸にあるのが、こちらの歴史見聞館。名前のとおり、こちらでは5代にわたる後北条氏や小田原城の歴史について知ることが出来ます。ちなみに、入場料は300円(大人)。

【常盤木門全景】
常盤木門全景
【常盤木門】
常盤木門
 二の丸から本丸への正門に当たるのが、昭和46年に復元されたこちらの常盤木門。ちなみに名前の由来は、往時から門の近くに植えられた長寿を誇る常緑の松の木になぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って名付けられたそう。で、多門櫓と渡櫓からなる桝形門形式は、とても重厚な印象です。

【本丸】
本丸
 本丸は後に植樹されたと思われる木が茂っているという印象。それにしても、日曜の昼下がりとあってか、かなりの人手でしたねぇ。

【天守】
天守
 こちらが、昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守。内部はお約束の資料館になっています。また、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらの1階に置いてあります。ちなみに、拝観料は400円(大人)。先述の歴史見聞館とのセットだと600円(大人)となっております。

【天守から見た石垣山城方面】
天守から見た石垣山城方面
 天守から石垣山城を見たところ。秀吉の小田原攻めの際、このような立派な天守があったかはわかりませんが、こちらからだと見上げる感じになるというか、石垣山城からは見下ろされるのを実感。城を秀吉の大群に囲まれ、更にはその本陣である城(しかも、当時、東国では珍しい総石垣造の天守付)を目の当たりにして、北条方の兵はどんな気持ちだったのかなぁ。

【城内に残る石垣】
城内に残る石垣
 天守を出た後は、駐車場へ向かうために城内にある報徳二宮神社方面へと向かったのですが、その途中には崩れかけた石垣が。これはこれで趣があると思うのですが、安全上は、今後の修復が待たれるというか。

【小峰曲輪北堀】
小峰曲輪北堀
 報徳二宮神社のある曲輪は戦国時代の後北条氏の頃に作られたそうで、江戸時代前期には雷曲輪、後期には小峰曲輪と呼ばれていたのですが、その曲輪を囲むのがこの空堀。その後の時間経過によって浅くはなっていますが、往時は7~8mの深さがあり、また堀の底は障子堀の畝が設けられていたと考えられているそうです。

感想とかまとめとか

 というわけで、小田原城だったのですが、現在残っているお城の遺構や、復元された元ネタがが江戸時代に築かれた時のものということで、後北条氏か築いた戦国の城跡という感せず、逆に箱根の麓の要衝にある近世城郭という感じがしました。それにしても、今回は小田原市内が局所的に激混みだったことや、時間の都合もあって城址公園の部分(しかも一部)しか見られなかったのは大変に残念で、特に、小田原市内に残る惣構の遺構である、深い空堀を見逃したのは痛恨事。そのような遺構をみれば、もっと戦国時代の城としての印象を得られたかもしれません。それに、個人的にお城に行く時の愉しみのひとつにしている「史跡 小田原城」といったような石碑を見つけることも出来ませんでしたし。なので是非とももう一度、リベンジしたいお城になってしまいました…。

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