たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

石垣山城 【平成26年3月9日】

石垣山一夜城公園の石碑

 3月はじめに伊豆方面、そして帰りに東京に寄った旅の記事なのですが、今度も、前の記事であげた山中城と同じく、豊臣秀吉の小田原征伐の舞台のひとつとなった、石垣山城です。


石垣山城について

 石垣山城は、神奈川県小田原市にある悌郭式山城。別名は、後述の理由により、石垣山一夜城や太閤一夜城と呼ばれています。

 その築城は、天正18年(1590年)。天下統一を進める豊臣秀吉は、この前年、いわゆる沼田問題からの名胡桃城事件を経て、惣無事令違反を名目とした小田原の北条氏討伐の令を発します。この当時、後北条氏といえば、新興の戦国大名とはいえ相模国から関東の平定を伺うなど一大勢力を誇り、その本拠である小田原は、約9kmにも及ぶ空堀と土塁で町全体を囲んだ惣構の堅固な城として難攻不落を誇りました。その小田原及び北条氏を攻めるわけですから、秀吉は配下の大名に一大号令を発し、総勢22万もの軍勢になったそう。そのうち、小田原城攻略には15万ほどの兵が充てられたのですが、天正18年3月29日に沼津から進軍を開始した豊臣軍は、山中城など箱根山一帯に築かれた小田原城の支城を攻略しつつ、4月3日には先鋒の軍が小田原の城下に迫りました。そして秀吉も4月6日には箱根湯本の早雲寺に本陣を置きますが、着陣して早々に、小田原城から直線距離で西に約3km、小田原城を見下ろす位置にある笠懸山の山頂に築城を始めます。で、それがこの石垣山城で、山体を城にするために穴太衆(秀吉が連れてきた)による野面積みの石垣が各所に作られたため、のちに笠懸山から石垣山へと呼び名が変わったそうで。

 それで伝承では、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造ってからそこに白紙を張って白壁に見立てた後、夜のうちに周囲の樹木を伐採して一夜にして城を作ったように見せかけ、それに驚いた北条軍は戦意を喪失したというふうに伝えられていますが、実際のところはのべ4万人を動員して約80日間掛けて(それでもかなりの突貫工事ですが)作られた、関東では初の総石垣造の近世城郭でとなりました。また、通常は簡易的な造りとする陣城(攻城のため一時的に設ける拠点)をこのような本格的な城にしたのは、長期戦に備えるという理由の他、太閤殿下の威光を天下に知らしめる的な理由もあったそうで。また、築城中から完成後にかけては、天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師を呼び寄せ茶会や宴を催したり、戦場に女性を呼ぶことは不吉とされていたにもかかわらず(自分が会いたいから)側室の淀君を呼び寄せ更には参陣していた諸大名にも同じくするよう勧めたり、徳川家康といわゆる「関東の連れ小便」をしたり、伊達政宗が死に装束で遅参を詫びに来たり、同じく政宗が白壁の代わりに和紙が張ってあったのを看破して感心されたりと、(全部が全部本当かどうかはわかりませんが)戦国史を彩る様々なエピソードが生まれました。

 そんな中、とうとう城が完成したのは6月26日。その前より支城が陥落したりするなどして士気の低下していた北条軍ですが、この完成が(前述の一夜城エピソードがあったかどうかは別として)決定打となってか、小田原城開城を決意。徹底抗戦を主張していた北条家前当主の氏政らが切腹、そして現当主の氏直は高野山に追放され、秀吉の小田原征伐が完了しました。

 そしてその後の石垣山城ですが、小田原征伐後は遺棄されたとも、築城が続けられとも、また何かに利用されたとも言われているのですが、詳しいことは不明とのこと。ですが結局のところ、後世には石垣を残して放置されていたようで。ですが、昭和11年(1936年)に石垣山が富士箱根伊豆国立公園に指定され、昭和34年(1959年)には、国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されています。

実際に行ってみた

 実は、石垣山城に行くのは個人的に2度目。最初はかれこれ10数年前、旅行でたまたま小田原を訪れた際、何となく立ち寄ってみたのですが、思い返せば、それまで歴史が苦手だったというか興味が持てなかった私が、興味を持つきっかけになった理由のひとつかもしれません。

【駐車場】
駐車場
 それで今回10数年ぶりにお伺いしたのですが、まず驚いたのは、立派な駐車場が整備されていたのと、その駐車場と隣接して、某有名パティシエのお店が出来ていて、そのお陰が駐車場は9割方埋まっていました。前は、こんなに賑わっていなかったというか、かなりひっそりとしていた記憶があるので、正直、だいぶ戸惑ったというか。

【江戸城修築用の石材】
江戸城修築用の石材
 江戸時代初期に江戸城を修築した際、その石垣用の石材をこの石垣山西側斜面から切り出したのですがそこから移設された石材が、駐車場の一角に展示されていました。

【石垣山入口】
石垣山入口
【南曲輪の石垣】
南曲輪の石垣
 駐車場から道路を渡ると、石垣山入口と書かれた案内が。ですが、今回はそこからすぐ西側にあるもう1つの入口から入ることに。で、そちらは、これがまたいきなり凄いものが見られるというか、最初、南曲輪の石垣に沿って登ることに。

【石の転がる道】
石の転がる道
 登山道というか城内の道に入って程なくしてこんな状態に。もっとも、このように道の真ん中に石がゴロンと転がっている箇所は少ないのですが、最低限運動靴くらいは履いていくことをオススメします。それと、石垣も崩れかかっている箇所が結構あるので、むやみに近づいたり(当たり前ですが)登ったりしない方が良いと思われます。

【南曲輪】
南曲輪
 まず向かったのが、先程その石垣を眺めつつ登ってきた南曲輪。コンパクトな印象です。

【門の基台跡】
門の基台跡
 次に向かおうとしたのが西曲輪なのですが、その入口には門の基台跡が。ここが西曲輪の虎口だったんですね。

【西曲輪】
西曲輪
【天守台の石垣】
天守台の石垣
 西曲輪は、南曲輪よりも広く感じたのですが、中央部に樹木が無いせいもあるかもしれません。それでこの西曲輪に接して天守台が売るのですが、その石垣もだいぶ崩れつつも残っています。

【本丸】
本丸
【本丸から見た小田原城と相模湾方面】
本丸から見た小田原城と相模湾方面
【天守台】
天守台
 次に向かったのがこの石垣山城でもっとも高い位置にあり、最も広い本丸。で、ここから小田原城を見たかったのですが、どこにあるか見つけられなかったというか。しかも、あとで写真を拡大してみたらちゃんと写っていたという…。また本丸には天守台もありますが、(一夜城エピソードのためのフェイクではなく)ちゃんとした天守が実在したかは不明だそうです。

【枡形の鍵折れ】
枡形の鍵折れ
 次に向かうは二ノ丸なのですが、その途中には枡形の鍵折れの名残が。

【二ノ丸(馬屋曲輪)】
二ノ丸(馬屋曲輪)
【二ノ丸から見た本丸方向】
二ノ丸から見た本丸方向
 二ノ丸は、本丸と並ぶ広さの曲輪で。現在は芝生広場的に整備されています。で、そこからは、走り回る子供の歓声が聞こえてきました。また、本丸側には石垣があるのですが、崩れながらもわりと残っていたというか。

【櫓台】
櫓台
 二ノ丸にも櫓があったそうで、櫓台跡が残っています。で、今はこんな形状になってしまったのですが、関東大震災前はもっとしっかりとした石積みが残っていたとか。

【二ノ丸展望台】
二ノ丸展望台
 二ノ丸の最北端には展望台があり、先程確認できなかった小田原城を見ようと思ったのですが、今度は木が邪魔で…。

【井戸曲輪入口にあった工事看板】
井戸曲輪入口にあった工事看板
【井戸曲輪】
井戸曲輪
【保全対策工事中の石垣】
保全対策工事中の石垣
 そして最後に向かったのは、この石垣山城のハイライトである井戸曲輪。前回訪れた時、お城や石垣に対してなんの知識も無かったのに、見ただけでえらく感動した覚えが。ですが今回、残念なことに工事中で途中までしか行けなかったというか、その見事な野面積みの高石垣を間近に拝むことは出来ませんでした。こればかりは仕方が無いのですが、ちょっとばかし残念…。

感想とかまとめとか

 というわけで石垣山城だったのですが、まずは前回訪れた時との変わりように少々びっくりしてしまったというか。前回よりも公園としてちゃんと整備されたのは嬉しく、また、パンフレット(小田原市のウェブサイトからダウンロード出来ます。)のお陰でしっかりと見ることが出来たのですが。ですがもし、もう一度訪れる時は、平日の人があまりいない時にでも来て、ここで繰り広げられた数々のエピソードに、思いを馳せたいと思います。

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