たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 11/100城目 箕輪城 【平成25年2月2日】

本丸の箕輪城趾碑

 この日、栃木県足利市の足利氏館(鑁阿寺)、群馬県太田市の金山城と巡って来たのですが、最後に立ち寄ったのが群馬県高崎市にある箕輪城。事前にざっと調べた限りでは、築城した長野氏について(勉強不足な為)ピンと来ず、実際に行った人の話でも「建物は残っていない。」とのことだったので、正直、どんな物なのかと思って行ったのですが…。


箕輪城について

 箕輪城は、群馬県高崎市にある国の史跡(昭和62年指定)で、榛名白川の河岸段丘に築かれた梯郭式平山城(築城時は山城?)。

 もともとは、関東管領である山内上杉家に使えた、上州西部を支配する豪族長野氏の当主長野業尚(尚業)が、戦国時代中期である永正年間(一説には9年(1512年)とも)築城。ただし、業尚の子で次代当主である憲業(信業とも。ただし別人という説もあり。)が大永6年(1526年)に築いたという説もある様で。

 で、業尚、憲業時代にも箕輪長野氏の居城として強化、改築されていったようなのですが、箕輪城が歴史の表舞台に出てくるのがその次の当主で、後に上州の黄班と称される長野業正(業政)の時代。主君である上杉憲政が天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏に敗れたのを契機に勢力が衰え、天文21年(1552年)の平井城落城によってその後は上杉謙信を頼りに越後に退くいた後も、箕輪衆と呼ばれた当地の豪族・国人を束ね、数度にわたる武田信玄の侵攻に耐え、信玄に「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言わしめたそうです。

 しかし、1561年(永禄4年。前年という説もあり。) 業正が、「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし。」と言い残して(って、凄まじい遺言ですね。)没し、その子である業盛が家督を継いだのですが、業正の死を知った信玄が再び侵攻を開始し、ついには永禄9年(1566年)の総攻撃により落城。業盛は自刃し、箕輪城築城以来約60年に渡る長野氏の支配が終わりを告げました。

 その後は、武田氏の家臣である内藤昌月などが城代になりますが、天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると北条氏邦が侵攻。しかし同年、氏邦は織田信長の家臣である滝川一益により追われ、さらに、この年の6月、信長が本能寺の変で倒れると、再び北条の大軍が侵攻し、氏邦が再度箕輪城に入城。内藤昌月もこれに従ったのですが、天正18年(1590年)の小田原攻略に際し、前田利家ら上野の国を攻めた軍勢の攻撃により開城。そして徳川家康が関東に入封した際、箕輪城は井伊直政に与えられ、直政は12万石をもって箕輪城を近代城郭に改造。城下町も整備したのですが、慶長3年(1598年)、中山道の重要性が増したということで高崎城に移封され、箕輪城はそのまま廃城となってしまいました。

実際に行ってみた

 前エントリの金山城からほど近い北関東自動車道の太田桐生ICから高速に乗り、高崎JCTから関越自動車道へ。前橋ICから一般道へ入り、カーナビの指示どおり進んでいくと、まわりの雰囲気が城下町っぽくなってきたというか。

【高崎市役所箕輪支所】
高崎市役所箕輪支所
 まず向かったのは、日本100名城スタンプラリーのスタンプが置いてあるこちら。ちなみに、役所が閉庁となる土日は、裏手の通用口の所に行けば日直の職員さんが対応してくれます。

【搦手口】
搦手口
 そこで貰ったパンフレットの地図も頼りに進むこと3,4分で、搦手口に到着。元々は大手口がこちらで、搦手口となったのは井伊時代の事らしいです。で、ここから一度二の丸にある駐車場まで進んだのですが、同行者と話した結果やはり大手口から見て回ろうという事になり、城域内の結構細い道路を移動。(クルマが軽で良かったなぁ。)

【稲荷曲輪】
稲荷曲輪
【新曲輪】
新曲輪
 大手口へと向かう道すがらにあった曲輪跡。

【虎韜(ことう)門】
虎韜(ことう)門
 井伊時代の大手口である虎韜門。ここにも駐車場があります。

【大堀切】
大堀切
 で、その駐車場にクルマを停め、降りたところ、いきなり大堀切がドドンと。写真だとスケール感伝わらないのですが、その迫力にかなり圧倒されます。

【白川口埋門】
白川口埋門
 虎韜門から道路を渡ったところにある門跡。で、虎韜門から榛名白川へと抜ける秘密の通路だったそうです。

【案内看板】
案内看板
【入り口】
入り口
 それでは改めて、この看板に従って一週約800mの『中央コース』をアタックすることに。

【鍛冶曲輪の石垣】
鍛冶曲輪の石垣
 上り初めていきなり、古い石垣が出現。苔むしていて良い感じですね。

【三の丸の石垣】
三の丸の石垣
【三の丸】
三の丸
 こちらの石垣が、こちらで現在残る最も大きな石垣との事。

【蔵屋敷】
蔵屋敷
 中央コースのルートは堀の底へと降りていくのですが、その前にコース脇にある蔵屋敷へ。階段状の曲輪が良く残っていますね。

【堀の底へ】
堀の底へ
 コースに戻って堀の底へ。先程の大堀切も凄かったのですが、ここもかなり深いです。

【堀の底にある石垣】
堀の底にある石垣
 城跡の各所には、このような石垣が結構残っていました。

【御前曲輪北堀】
御前曲輪北堀
 ここは3つの曲輪が嘴状に集まり、堀が5つに分かれているところ。で、写真奥は搦手口から虎韜門に来る途中に見た新曲輪です。

【御前曲輪井戸】
御前曲輪井戸
 昭和2年に大雨による地盤沈下で発見された深さ約20mの古井戸で、発掘したところ長野氏累代の墓石が多数発見されたとのこと。ちなみに、この井戸がある御前曲輪は箕輪城の精神的中心地だった様で、業盛が自刃した持仏堂もこの曲輪にあったそうです。また、南西の隅には物見や戦闘指揮用の櫓跡が見つかったそうです。

【本丸】
本丸
 かなりの広く感じる本丸跡。整備される前は畑となっていたらしいです。また、ボランティアガイドさんがいらっしゃって、色々とお話を伺うことが出来ました。

【本丸跡から蔵屋敷へとかかる橋の跡】
本丸跡から蔵屋敷へとかかる橋の跡
 本丸跡から最初の方に見た蔵屋敷の間には、橋が掛かっていたそうで。(堀の底に基礎の跡もあります。)

【二の丸】
二の丸
 最初にクルマで来た二の丸ですが、各方面の門に繋がる通路が集まっていたので、ここが出撃の拠点と考えられているそうです。で、ここから三の丸に戻れば中央コースを一周したことになるのですが、そちらには戻らず別方向へちょっとだけ進んでみます。

【大堀切】
大堀切
 二の丸から郭馬出へと通じる土橋から見た大堀切。やっぱりその大きさに圧倒されますね。

【郭馬出】
郭馬出
 二階建て屋根付きの門があったとのこと。

【木俣から見た赤城山】
木俣から見た赤城山
 通路が「木」の字のように集まっていたからとも、井伊家の重臣である木俣氏の館があったからとも。で、写真では上手く写っていませんでしたが、ここから見える夕暮れの赤城山が見事でした。

感想とかまとめとか

 以上、中央コースだけなら所要約20分と書いてあるところ、何だかんだで1時間以上かけて見てまわったのですが、まず、大堀切をはじめとする堀のダイナミックさに圧倒されました。これだけの土木工事を、鍬ともっこだけで成し遂げたことは、驚嘆に値するといいますか。また、城内各所に残る、苔むした石垣はとても良い味を出していました。そして、廃城になって400年以上経つのに、曲輪の形状がしっかり残っていたのも素晴らしく、そこで色々と想像するのも楽しかったです。そんなわけで、来る前は正直どんな物かと思っていたのですが、実際に見てみると、素直に申し訳ありませんでしたというか、戦国時代屈指と言われる山城のスケール感を実感することが出来ました。(今思い返しても、本当にテンション上がりまくりだったなぁ。個人的には、こういう城跡って、かなり好きかもしれません。)

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