たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

三陸鉄道とIGRいわて銀河鉄道と、東北地方太平洋側のJRローカル線 ~鉄印帳の旅(2) 【令和2年7月23日~25日】 その4

盛岡駅に入ってくる宮古行き快速リアス

 三陸鉄道とIGRいわて銀河鉄道の鉄印をもらいつつ、東北地方太平洋側のJRローカル線にのってしまおうという旅の記録第四弾は、旅の2日目の後半について。


JR山田線

 盛岡駅からは、13時51分発のJR山田線宮古行き快速リアスに乗る予定。待ち時間が1時間以上有りますが、山田線自体、盛岡発宮古行きの定期列車は11時台から19時台の間に1日4本、運転間隔が最大3時間59分も開くとあっては、無いに等しい時間かと。

【回転寿司清次郎フェザン店 店舗外観】
回転寿司清次郎フェザン店 店舗外観
【いただいた寿司いろいろ(税別250円~520円)】
いただいた寿司いろいろ(税別250円~520円)

 それでも、絶対的に時間が有ることには間違いないので、列車を降りた後、まずは盛岡期の駅ビル「フェザン」1階にある土産物屋に行き、そこで購入した土産物を、同フロア内にある宅配便カウンターで送付依頼。手づから持ち帰ってこそのお土産だとは思うのですが、最終日は土産物を買うチャンスがなさそうなのと、クルマならともかく公共交通機関を使った旅で荷物を増やすのは行動の自由度に大きく関わってくるので。そして次は、昼食。盛岡駅の近くには当地名物のじゃじゃ麺や冷麺の有名なお店もあり、それらも惹かれたのですが、結局選んだのは、フェザンの地下1階にあった回転寿司清次郎というお店。昨晩三陸の魚介類を食べそこなったことがお店を決めた一番の理由ですが、その昨晩の欠を補って十分な昼食となりました。

【盛岡駅の改札口付近】
盛岡駅の改札口付近

 ちょいと豪華な昼食を食べ終わったのは、午後1時を20分近く過ぎた頃。乗る列車の発車までまだ30分ほどあったのですが、すぐに改札口を通って早めにホームで待つことに。というのも、先程乗った快速はまゆりの盛岡駅到着前、乗換案内のアナウンスで、山田線の快速リアスは1両編成だと教えてくれてたんですよね。しかもこの後の山田線の列車は17時50分発までないので、ひょっとしたら混んでるのではないかな、と。で、果たして列車が発車するホームに降りたところ既に幾人かが列車の入線を待っており、その中には、昨日、柳津駅からBRTを2本乗り継いだ親子連れや、他にも昨日今日のどこかで見かけたような人もいたりして。

 それで列車が入ってくるまでにもう少しばかり時間があるので、ここでこれから乗るJR山田線について少々。

 山田線は、盛岡駅を起点に、終点の宮古駅までの間102.1kmを結ぶ路線で、起点駅と終点駅を含む駅数は16駅。全線単線非電化となっています。

 その歴史ですが、このブログの鉄道ネタで何回か書いた事がある明治25年(1892年)交付の「鉄道敷設法」によって盛岡から宮古もしくは山田へと至る路線が規定されたもののなかなか建設できず、岩手県出身の原敬が首相だった大正9年(1920年)に建設が決定。その国会審議の際、建設に反対する野党議員から「こんなところに線路を敷いて山猿でも乗せる気か」という質問に対して原首相が「営業規則により猿は乗せないことになっております」と言い放ったとされる、古くからの鉄道ファンにはよく知られたネタがあるのですが、どうやら本当にそんな質疑があったかは不明らしいです。で、個人的には、地方路線が大量に建設予定線となった大正9年(1920年)の改正鉄道敷設法交付以前から建設が開始されていたので、盛岡から太平洋側に至るルートとしてそれなりに重要視されていた路線だった気がするのですが。(このあたり、ちゃんと資料をあたってないから適当なんですがね。)

 それはさておき山田線は、大正12年(1923年)9月の盛岡駅-上米内駅間を皮切りに、昭和3年(1928年)9月には最大の難所とされた区界峠を超えて区界駅まで、昭和5年(1930年)10月に松草駅まで、昭和6年(1931年)10月に平津戸駅まで、昭和8年(1933年)11月に陸中川井駅まで、昭和9年(1934年)11月に宮古駅まで、そして昭和10年(1935年)11月に当初規定された陸中山田駅までが開通。しかしその後も改正鉄道敷設法による、山田より釜石を経て大船渡へと至る鉄道に基づいて建設が進められ、昭和11年(1936年)11月に岩手船越駅まで、昭和13年(1938年)4月に大鎚駅まで、そして昭和14年(1939年)9月、釜石駅まで開通。この盛岡駅-釜石駅間157.5kmが山田線とされました。ちなみに、「山猿でも乗せるのか」と言われもおかしくない程の、人跡稀な北上山地を通る山田線ですが、当時は製鉄所と鉱山で栄えた釜石までの、盛岡から唯一の直通ルートとして、人、そして貨物輸送で大変賑わったそうです。

 しかし釜石線のところで述べたように、太平洋戦争後、昭和21年(1946年)の風水害、昭和22年(1947年)のカスリーン台風による土砂災害、昭和23年(1948年)のアイオン台風による土砂災害と立て続けに自然災害に見舞われ、長期運休することに。その際、釜石駅までの代替ルートとして、当時日本を統治していたGHQは、山田線の復旧ではなく、改軌及び建設中だった釜石線の工事完成を急ぐよう指示。その結果、釜石線は昭和25年(1950年)10月に全線開業を迎えたものの、山田線の全線復旧は、昭和29年(1954年)11まで待つことに。さらにその後も、自然災害で不通になることが幾度かありました。

 そして国鉄末期の昭和55年(1980年)に成立した国鉄再建法に基づき、旅客輸送密度が基準(1日あたり4000人)を満たさない、第3次廃止対象の特定地方交通線に指定されたものの、代替輸送に使う道路が未整備という理由で除外となり、廃止を免れています。

 ですが平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災によって、太平洋沿岸部を中心に壊滅的被害を受け運休に。そのうち盛岡駅-宮古駅間については3月26日に復旧(その後4月に余震による運休はあったものの4月中に復旧)したものの、宮古駅-釜石駅間の55.4kmについては、これも三陸鉄道リアス線のところで述べたように、JRは当初、鉄道での復旧は無理としてBRT方式での復旧を沿線自治体に打診することに。しかしあくまで鉄道での復旧を望む沿線自治体との折り合いがつかず、結果的に平成31年(2019年)3月、鉄道による復旧完成と共に、三陸鉄道に移管されました。

【盛岡駅に停車中の宮古行き快速リアス】
盛岡駅に停車中の宮古行き快速リアス

 そんな山田線の全線を走る快速リアスは13時33分頃、2番線ホームに入線。車両は昨日、石巻線などで乗ったキハ110系100番台です。

 ドアが開くと同時に、待っていた人たちと共に乗り込み、進行方向左側のボックスシートを確保。進行方向右側の2人掛けボックスの方が一人旅には良いのかもしれないのですが、乗車前、スマートフォンの地図アプリで調べたところ、進行方向左側の方が川に沿う距離が長い=視界が開けているので景色が良く見えそうというわけで。ちなみに山田線には、間違いなく過去一度乗ったことが有るのですが、どんな景色だったか全くと言っていいほど覚えていないんですよね。そしてその後、更に発車までに乗客が増え、私の斜向かいの通路側にも、ちょっと高そうで上品な服を着た、少し気難しそうなお兄さんが座りました。で、他のボックスシートも1~2名、ロングシートもかなり埋まり、立っている人2名という状態で定刻の13時51分、盛岡駅を後に。この列車、1両しかなくともワンマン運転ではなく、JR東日本では多く見かける女性の車掌さんが乗務されています。

【盛岡駅-上盛岡駅間】
盛岡駅-上盛岡駅間
【山岸駅発車直後】
山岸駅発車直後
【山岸駅-上米内駅間】
山岸駅-上米内駅間

 盛岡駅を出た列車は右にカーブして北上川を渡り、まずは盛岡の市街地を走行して上盛岡駅に停車。そこを出ると今度は市街地というよりも住宅地になって山岸駅に停車。どちらの駅も、停まる列車が1日上下各6本しか無いというのがにわかに信じられないような場所にありますね。そして山岸駅出ると程なくして家並みは途切れ、車窓には採石場や、水田などの農地が現れ、そして山が迫ると上米内駅に到着。ここで何人かが下車しました。

【上米内駅発車直後】
上米内駅発車直後

 上米内駅を出た列車は、次の停車駅である陸中川井駅まで約1時間16分、距離にして63.6kmものあいだ時刻表上ではノンストップ運転となり、その間に、盛岡市と宮古市を隔てる区界峠を超えていくことに。それにしてもこの山田線、路線延長が102.1kmもあるのに通過する自治体は(いわゆる平成の大合併のおかげで)盛岡市と宮古市の2つだけだし、上米内駅と隣の区界駅(この列車は通過)の駅間距離はJR東日本管内在来線最長の25.7kmもあるしと、いろいろスケール感がおかしいです。で、このノンストップ区間に入って早々に車内改札があったのですが、車掌が女性だからでしょうか、その際、ある年かさの男性客が知識をひけらかすようにいろいろと話しかけています。ですが、そんな乗客もにちゃんと対応されていて、男性客も満足したのか、車掌さんはようやく次のお客さんのところへ。ほんと、大変ですね。

【上米内駅-区界駅間】
上米内駅-区界駅間

 一方列車は、エンジンを震わせて人跡稀な山中に分け入っていきのす。そこにいつの間にか寄り添ってくるのが、北上川水系の米内川。列車は勾配を抑えるためカーブを繰り返し、この米内川と幾度となく交差しながら列車は高度を上げていきます。そして短いトンネルをいくつか抜け、峠越えもいよいよという雰囲気になったところで、車窓には、白い樹皮の木々とはクマザサが茂る林が現れました。クマザサ自体はわりと見かける植物ですが、林の下草として生えている様は、厳しい自然を連想させますね。そしてそんな中、列車は廃止となった大志田駅、浅岸駅の後を通過した筈なのですが、正直良くわからず。ですが、浅岸駅跡を通過した後、全長2236mの山田線最長となる第一飛鳥トンネル手前に建てられていた慰霊碑(のような構造物)には気付くことが。気になって後で調べたところ、そこには、トンネル建設工事の際に殉職された8名の名前が刻まれているそうで。

【区界駅通過】
区界駅通過
【区界駅通過直後】
区界駅通過直後
【区界駅-松草駅間(盛岡宮古横断道路建設中)】
区界駅-松草駅間(盛岡宮古横断道路建設中)

 やがて車窓の視界が広がると、列車は宮古市に入って区界駅を通過。ホームに立っていたのは、保線作業員の方でしょうか。で、区界駅あたりから山田線と並走する立派な道路が現れるのですが、これが古くは宮古街道、閉伊(へい)街道などと呼ばれた国道106号。ここを走る岩手県北バスの106急行バスが、現在、盛岡市と宮古市を直結させるメインの公共交通機関になっていて、山田線とは所要時間が10分くらいしか違わず、更にこのコロナ下の暫定ダイヤでも平日12往復、土日9往復もの本数が走っています。それにしても、山田線の全通で一度は廃止になった盛岡-宮古間のバスが復活したきっかけの一つが、アイオン台風による長期運休というのが何とも。しかも、国道106号自体も、盛岡宮古横断道路という地域高規格道路として整備が行われており、完成後はどうなっちゃうんですかね。

【区界駅-松草駅間(閉伊川)】
区界駅-松草駅間
【松草駅-平津戸駅間】
松草駅-平津戸駅間

 それと区界駅を通過するともう一つ山田線と並走するのが、閉伊川水系の閉伊川。っていうか、山田線はここから先、この閉伊川が造った谷におおむね沿うかたちで線路が引かれています。しかしこの閉伊川、先に乗った釜石線の猿ヶ石川と違って平地はあまり造ってくれなかったようで、川沿いの農地も、釜石線沿線はほ場整備された水田が多かったのですが、こっちは小規模な水田で、中には耕作放棄地もありました。それでそれらを眺めつつ列車は相変わらずノンストップ区間を走行中、川内駅で派手な塗装の列車と交換。コロナ禍によって7月はじめまで運休を余儀なくされた臨時列車の快速さんりくトレイン宮古で、「リゾートあすなろ」という車両が使われています。

【箱石駅-陸中川井駅間】
箱石駅-陸中川井駅間
【陸中川井駅-腹帯駅間】
陸中川井駅-腹帯駅間

 やがて列車は、盛岡駅を出てから約1時間30分経った15時21分、本当にお久しぶりという感じで、陸中川井駅に停車。この列車の乗車時間的に、7割ほど進んだことになります。それでここから先も、列車は閉伊川と一緒に宮古へと向かっていくことになるのですが、先程よりも閉伊川の川幅はだんだん広がってきたのがわかります。

【茂市駅停車】
茂市駅停車

 そんな中、列車は茂市駅に停車。かつてこの駅から北に向かって38.4km先の岩泉駅まで、岩泉線という山田線以上(全線走破する列車が1日往復3本、途中折り返しが1日1往復)のローカル線が分岐しており、確か平成11年(1999年)頃に乗りに来た覚えがあり、山深い中を走っていた記憶があります。その後、平成22年(2010年)7月に、大雨による土砂崩れが発生。以降、代行バスでの運転となりましたが、平成26年(2014年)4月1日を以て、廃止となってしまいました

【茂市駅-蟇目駅間】
茂市駅-蟇目駅間
【千徳駅-宮古駅間】
千徳駅-宮古駅間

 茂市駅を出た列車は、軽快にスピードを上げ(るような気がして)、宮古を目指します。先程までよりも明らかに駅周辺の民家が増え、閉伊川は更に川幅広がってきたような。最後の途中停車駅である千徳駅の手前にはパチンコ屋が現れ、その後宮古駅に近づくにつれ、自動車のディーラー、コンビニエンスストア、焼肉店と、現在の「街」を構成する店舗が次々と。そして列車は、盛岡駅を出てから約2時間7分経った15時58分の定刻に、今日2度目となる宮古駅へと到着しました。

三陸鉄道リアス線(3)

【宮古駅で買った三陸鉄道の硬券切符】
宮古駅で買った三陸鉄道の硬券切符
【三陸鉄道の鉄印】
三陸鉄道の鉄印

 宮古駅に到着して列車を降りたらすぐ、一度改札口を出て三陸鉄道の切符売場に。そこで久慈駅までの切符を買うと同時に、朝来た時に貰わなかった三陸鉄道の鉄印を。ここの窓口で買うと、硬券が出てくるんですね。で、鉄印を貰い終える頃、私の後ろは行列になっていました。そして次に乗る、16時32分発の三陸鉄道リアス線久慈行普通列車はまだ改札が始まっていなかったので、改札口付近に何となく出来ていた行列に、朝いただいた時とは別の品を試してみたい気もした駅そばを蹴って並ぶことに。というのも、これから乗る区間は、盛駅から宮古駅までのリアス式海岸と違う海岸段丘の上を列車は走るようになり、是非とも海側の窓側に座ってそこからの景色を眺めたいと思っていたからでして。

 で、改札が始まるのを待つ間に、これから乗る三陸鉄道リアス線の久慈駅-宮古駅についてちょっとだけ。

 元々この区間は、昭和59年(1984年)4月の三陸鉄道開業時に「北リアス線」と呼ばれていたというのは、今朝乗った釜石駅-宮古駅のところに書いたとおりで、当時の起点駅は宮古駅、終点駅は久慈駅。営業距離は71.0kmで、起点駅と終点駅を含む駅数は17駅の、全線単線非電化の路線でした。

 その北リアス線を更に遡ると、大正11年(1922年)に制定された改正鉄道敷設法で、久慈より小本を経て宮古に至る鉄道が規定されたことがはじまり。しかし工事着工が遅れに遅れ、そこから50年後の昭和47年(1972年)2月、宮古駅-田老駅間12.8kmが国鉄久慈線として開業。更に昭和50年(1975年)7月には、久慈駅-普代駅間26.0kmが国鉄久慈線として開業しました。

 しかし国鉄再建法によって両線とも第1次廃止対象路線となったものの、建設中だった田老駅-普代駅間32.2kmと合わせて三陸鉄道北リアス線として開業したのは先に述べたとおり。更に東日本大震災による被害からの復旧を経て、平成31年(2019年)3月、JR東日本から移管となった山田線の宮古駅-釜石駅間と、従来の三陸鉄道南リアス線、北リアス線が合わさって、三陸鉄道リアス線が誕生したのもつかの間、同年10月に台風19号の被害を受け、一時はリアス線全線で運行を停止。ですが徐々に復旧を果たし、今年(令和2年)3月、全線で運転を再開しました。

【宮古駅に停車中の久慈行き普通列車】
宮古駅に停車中の久慈行き普通列車

 やがて発車時刻の約10分前である16時20分過ぎ、改札が開始に。並んでいた列の2番めからホームに入ると、1両編成で停まっていたのは塗装こそ某スーパーセンターの電子マネー犬が描かれているものの、車両そのものは36-100形(36-105)という、昭和59年(1984年)に三陸鉄道が開業した当時に導入された車両。今回の旅で是非乗りたいと思っていた車両が当たってそれを喜んだのも束の間、列車に乗り込むと、始発列車にもかかわらず海側のボックスシートの、一番景色が堪能できるであろう前に向かって座る窓側の席は、ほぼほぼ埋まっている状態。先に到着していた釜石駅からの三陸鉄道の列車から乗り継いだ人たちでしょうかね?で、先程私の前に並んでいた人が、残っていた最後の1席に着席。ここで心が折れ、運転席横の最前部に立って景色を眺める選択もあったものの、空いていた山側のボックスシートに座ることに。まぁ、景色が見たければもう一度来れば済むことだし、今回は昭和59年(1984年)製造だけど、その後様々な改良工事が施された36-100形の乗り味を堪能することにしましょう。でもこんなことになるのがわかっていたら、宮古駅の駅そばに寄っても良かったよなぁ……。

【佐羽根駅-新田老駅間】
佐羽根駅-新田老駅間

 その後も続々と乗り込んで、私の座ったボックスも斜め前に1人座るなど、ボックスシートには2,3人、ロングシートにもそれなりに乗客を乗せて定刻の16時32分、列車は宮古駅を発車。シートは適度にへたっていて座り心地がよく、また台車も空気ばね式のものに替えられているため、高規格な線路と相まって、車両の古さは感じるけど悪くない乗り心地ですね。で、最初は山側の景色を眺めていたものの、宮古駅を出て3つめの佐羽根駅のあたりで、人いきれで窓が曇ってしまいました。このコロナのご時世、車両の消毒はしてくれているとはいえ曇った窓ガラスを拭くのもはばかられたので、カバンから窓を拭くティッシュではなくノートパソコンを取り出し、溜まっているブログの記事を書くことに。この車両のボックスシートには、大きなテーブルが置かれていたのが有難かったです。

【堀内駅-野田玉川駅間】
堀内駅-野田玉川駅間

 列車はトンネルをいくつも抜け、それにより窓も曇ったり(長大トンネルに入るとだいたい曇る)曇りが取れたりを繰り返しつつ進みます。途中、堀内(ほりない)駅の前後にある大沢橋梁、安家川(あっかがわ)橋梁といった景色の良いところでは一時停止して案内放送が入るサービスもありました。もっとも、進行方向左側は、その恩恵はあまりなく、基本的に山と、それが途切れた谷と、駅周辺の民家と、時には建設中の三陸沿岸道路が見えるという感じの景色が続きます。

【陸中野田駅-陸中宇部駅間】
陸中野田駅-陸中宇部駅間

 合間合間にわりと景色を眺めていたにもかかわらず、自宅で書くよりも格段に集中出来、ラーメン関係の記事を5,6本仕上げたところで、列車は野田玉川駅に停車。既に沿岸部から内陸部に入ったようで、ここから先はマメに駅があり、車窓には水田が広がります。そして18時11分の定刻、列車は宮古駅から約99分で、終点の久慈駅に到着。早めにドア付近に移動していたので、先頭で運転手さんに宮古駅で買った硬券を手渡し下車。

【久慈駅の跨線橋内】
久慈駅の跨線橋内
【久慈駅に停車中の折り返し宮古行きとなった普通列車】
久慈駅に停車中の折り返し宮古行きとなった普通列車

 久慈駅では、三陸鉄道のホームからJRのホームまで跨線橋で移動して、JR八戸線に乗り換え。その跨線橋には大漁旗や、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」に関連したヘッドマークがディスプレイされていました。

JR八戸線

【久慈駅の駅名標(JR)】
久慈駅の駅名標(JR)

 それで本日乗る最後の路線である八戸線ですが、ここで例によってその路線について簡単に。

 八戸線は、八戸駅を起点に、終点の久慈駅までの64.9kmを結ぶ、全線非電化単線の路線。起点駅と終点駅を含む駅数は25駅となっています。

 その歴史ですが、明治27年(1894年)1月、後の国鉄(JR)東北本線を敷設した日本鉄道が、尻内駅(現在の八戸駅)-八ノ戸駅(現在の本八戸駅)間を開業。というのも尻内駅は八戸の街はずれに駅が有ったため、市の中心部や八戸港まで通じる支線を建設するという意味合いだったそうで。そしてその支線は、同年10月に湊駅(後に貨物支線となり昭和60年(1985年)廃止。)まで延伸されました。

 それが明治39年(1906年)11月、国有鉄道法に基づき国が買収。翌明治40年(1907年)に八ノ戸駅を八戸駅に改称し、明治42年(1909年)には路線名称が八ノ戸線に定められました。更に大正13年(1924年)11月、八戸駅-種市駅間を延伸し、路線名称を現在と同じ八戸線に改称。翌大正14年(1925年)11月には陸中八木駅まで延伸し、昭和5年(1930年)3月、久慈駅まで全通。その後昭和46年(1971年)2月、八戸駅を本八戸駅に改称し、同年4月、尻内駅を八戸駅に改称しました。

 また、昭和43年(1968年)には、途中の鮫駅から末端の久慈駅まで区間が、気仙沼線のところで書いた(鉄道路線としての使命を終えたので廃止した方が良いとされる)「赤字83線」に指定されたものの廃止を免れ、更に、これも気仙沼線や三陸鉄道のところなどで書いた、昭和55年(1980年)の国鉄再建法に基づく第3次廃止対象路線に八戸線が指定されましたが、ピーク時の乗客が一方向1時間あたり1000人を越すという除外規定に該当したため廃止を免れたという経緯があります。

【久慈駅に停車中の八戸行き普通列車】
久慈駅に停車中の八戸行き普通列車

 そんな八戸線をこれから走るのが、既にホームに停車していた、18時18分発の八戸行き普通列車。その車両は、現在、線内を走る定期列車(全て普通列車)の全列車に使われている、キハE130系500番台気動車です。

 ちなみにこのキハE130系、最初に投入された0番台が水戸駅と郡山駅(正確には安積永盛駅)を結ぶ水郡線で、その際に余剰となったキハ110系100番台気動車が、先に乗った山田線の旧型車両置き換えに使われました。それで今回乗る500番台は、平成29年(2017年)より八戸線の旧型車両置き換え用として運転を開始した形式。両運転台のキハE130形、片運転台で2両1ユニットを組むキハE131形(トイレ付き)とキハE132形の3形式があり、車体はキハ110系と比較して全長は同じ20m級ですが、全幅は約2.8mに対して約2.9mと広く、扉配置も片開き2扉に対して両開き3扉とラッシュ時の収容人員や乗降性を重視しています。また(500番台の)車内は、ドア付近がロングシート、ドア間はボックスシートのセミクロスシート配置ですが、ボックスシートは片側が4人掛け、片側が2人掛けとなっています。

 それで先程までの列車からそこそこの人数が跨線橋を渡って乗り換えましたが、列車を降りる際に先頭だったので、席は余裕で確保することが。乗車したのは2両編成の先頭車、キハE131-504で、車内のボックスシートは海側が4人掛け、山側が2人掛けとなっていましたが、先程の列車で海側に座れなかったため、その反動で4人掛け席に。やがて各ボックスシートやロングシートに1〜2人くらいの乗車率となり、久慈駅を定刻に発車ました。

【久慈駅-陸中夏井駅間】
久慈駅-陸中夏井駅間

 久慈駅を出た列車は、まず久慈川を渡り、久慈の市街地を走行。陸中夏井駅に停車し、夏井川を渡ると市街地が終わり、森の中を走って侍浜駅に停車。駅名に浜と付きますが、海岸線からはかなり離れており、また侍浜自体も、浜と付きますがダイナミックな岩場の海岸線が続くそうで。

【陸中中野駅-有家駅間】
陸中中野駅-有家駅間
【陸中八木駅-宿戸駅間】
陸中八木駅-宿戸駅間

 侍浜駅を発車した後も森の中を進む感じですが、次の陸中中野駅の手前で海沿いに。ですがすでに夕方遅くというか夜の手前という空の具合で、急速に暗くなる中、何故か必死になって海を眺めました。ですがとうとう夜の帳が下りてしまい、18時50分に発車した陸中八木駅を過ぎたあたりで外を見るのは終了。あとは、先程の続きと思ってノートパソコンを取り出したものの今回は筆が進まず、膝の上にパソコンを広げたまま、何となく過ごすことに。

 一方車内は久慈駅を出て以来、乗客に余り動きがないというか、地元の人っぽい乗客がわずかに乗り降りするのみ。反対方向の列車と行き違いをした階上駅でも出入りがほとんどなかったものの、久慈駅を出て約1時間10分の種差海岸駅でようやく、部活帰りと思しき女子高生がまとまって乗車。席はまばらにしか空いていなかったので、私の座っていたボックスの真横にまとめて立ったのですが、ちょうど靴を脱ごうと思っていたところだったので、慌てて履き直しました。(だって、ただでさえ見た目的にアウトなオッサンに、足の臭いまで加わったら、ねぇ……。)

【八戸駅進入】
八戸駅進入
【八戸駅に到着した普通列車】
八戸駅に到着した普通列車

 その後の駅でもおおむね、降りる人より乗る人のほうが多くなり、個人的に意外に思ったのが、八戸市の中心部である本八戸駅でも乗る方が多かったのですが、なので最後まで立つ人を出すくらいの混み具合で、列車は定刻の20時5分、八戸駅に到着。昼の盛岡駅以来の新幹線接続駅は、不夜城のように眩しく見えました。

【いただいたいかめしせんべい汁定食(1100円)】
いただいたいかめしせんべい汁定食(1100円)

 この日の予定をつつがなく終えることができ、八戸で一泊。その宿は、八戸駅に直結するJR東日本グループのホテルで、改札口から出ると直ぐにホテルに入ることが。それでチェックイン前に、ホテル内にあるいかめしや烹鱗という郷土料理などがいただけるレストランで、三陸産のサバを使ったというしめ鯖や、八戸名部のせんべい汁と、そのお店自慢のイカ飯などで夕食兼晩酌を。

【ホテルの部屋から見た八戸駅】
ホテルの部屋から見た八戸駅

 その後チェックインして部屋に落ち着いたものの、まだ飲みたい気分だったので、駅前のコンビニで酒を少々。それにしてもこのホテル、眼下に八戸駅のホームが広がるため、青い森鉄道やJRの列車が入る度に、それがとっても気になるというか。もっとも、ホテルり名誉のために言えば、窓を締め切ってしまえば静かなものなのですが、個人的には列車の音を聞きたくて、窓をできるだけ開け、列車が入ってくるたびに買ってきた缶チューハイを飲みながら、終電まで駅を眺めていました。

この日の旅程

釜  石 
 06:02
  |三陸鉄道リアス線
  |1003D
  |普通
 07:33
宮  古
 07:45
  |三陸鉄道リアス線
  |5010D
  |普通
 09:27
釜  石
 10:14
  |JR釜石線・東北本線
  |3624D
  |快速はまゆり4号
 12:32
盛  岡
 13:51
  |JR山田線
  |3643D
  |快速リアス
 15:58
宮  古
 16:32
  |三陸鉄道リアス線
  |117D
  |普通
 18:11
久  慈
 18:18
  |JR八戸線
  |454D
  |普通
 20:05
八  戸

(つづく)

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栃木県のちょいと北の方に住んでいるアラフィフのオッサン。
ラーメン・そば・うどんなどの食べ歩き、乗り鉄、競馬の旅打ち、モータースポーツ観戦、PC自作など嗜んでいます。

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