たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

三陸鉄道とIGRいわて銀河鉄道と、東北地方太平洋側のJRローカル線 ~鉄印帳の旅(2) 【令和2年7月23日~25日】 その3

釜石駅に停車中の久慈行き普通列車

 三陸鉄道とIGRいわて銀河鉄道の鉄印をもらいつつ、東北地方太平洋側のJRローカル線にのってしまおうという旅の記録第三弾は、旅の2日日の前半について。


令和2年7月24日(金・祝)

 旅の二日目。この日は、行程が一般的な視点で見ると少々おかしいというか、まずは三陸鉄道リアス線の初列車でスタートし宮古駅まで往復した後、釜石駅からJR釜石線経由の盛岡行き快速列車に乗車。盛岡駅からは、JR山田線経由の快速列車に乗って再び宮古駅まで来た後、三陸鉄道リアス線、久慈駅からJR八戸線に乗り換えて八戸駅まで。

 そのため、朝5時に起床。30分ほどで支度を済ませ、チェックアウトしようとしたのですが、昨日チェックインの際、朝早く出ていくことを伝えていなかったため、フロントは無人。何度か呼んだけど出てくる気配がなかったので、カウンターに鍵を置いて出発させてもらうことに。Go To トラベルキャンペーンの事後申告に使う宿泊証明が欲しかったんですけど、仕方ないですね。(後日、郵送でいただくことができました。ありがとうございます。)

【早朝の釜石市内】
早朝の釜石市内

 ホテルをチェックアウトして、傘をさすまでもないくらいの雨が降る中、甲子川を渡って釜石駅へ。その途中に見える、いつも煙を出してる煙突を見ると、前回同様「四六時中、煙突から煙を吐いて製鉄するさまは、なんとも「鉄の街」釜石っぽいな」と思うのですが、実は既に製鉄のための高炉は運転されておらず、この煙突、製鉄所の中の火力発電所だそうで。

三陸鉄道リアス線(2)

 今日最初に乗るのは、釜石駅6時2分発の三陸鉄道リアス線久慈行き普通列車。前述のとおり、この列車で宮古駅まで行ってから、釜石駅に戻って来ます。往復今回の行程を考える際、三陸鉄道に加えて、JRの、東北本線から三陸海岸沿岸へと至る路線も全て乗ってしまおうと企んだのですが、どうしてもダブる(2度乗る必要がある)路線が出てくるというわけで。で、どうせダブるのなら、三陸鉄道のこの区間を2度乗るのがよかろうと。

【釜石駅の駅舎】
釜石駅の駅舎

 それで列車に乗る前に、昨日もちょっとだけ書きましたが、三陸鉄道とそのリアス線について改めて。

 三陸鉄道は、盛駅を起点におおむね三陸海岸に沿って終点の久慈駅までの間163.0kmを、起点駅と終点駅を含む駅数41駅、全線非電化単線で結んでいるリアス線を擁する第3セクター鉄道で、営業距離163.0kmは日本の第3セクター鉄道最長を誇ります。で、元々は廃止となる国鉄の赤字路線と建設中だった路線を引き継ぐため、昭和56年(1981年)に設立され昭和59年(1984年)4月から運行を開始しました。

 三陸海岸沿岸を走る鉄道路線については、大正11年(1922年)4月に制定された改正鉄道敷設法において、岩手県久慈から小本を経て宮古に至る鉄道と、岩手県山田より釜石を経て大船渡に至る鉄道というのが規定され、国鉄末期の昭和50年中頃までに、盛駅以北、久慈駅以南に限ると、盛線の盛駅-吉浜駅間21.6km、山田線の一部である釜石駅-宮古駅間55.4km、宮古線の宮古駅-田老駅間12.8km、久慈線の普代駅-久慈駅間26.0kmが開業しており、また開業に向けて吉浜駅-釜石駅間15.2km、田老駅-普代駅間32.2kmが鉄道建設公団によって建設工事中でした。

 しかし、国鉄の財政悪化により、路盤工事が終わりレール敷設も概ね完了していた建設中の路線が工事凍結となり、更には昭和56年(1981年)9月、国鉄再建法に基づく特定地方交通線、しかも、最も早期に廃止すべき第1次廃止対象路線に、盛線、宮古線、久慈線が指定されてしまいました。

 それに対して鉄道廃止を望まなかった沿線自治体と岩手県が、同年11月、第3セクターの三陸鉄道株式会社を設立して廃止路線を引き受けると共に、翌年から吉浜駅-釜石駅、田老駅-普代駅間の未開業区間の建設工事を進め、昭和59年(1984年)4月、盛駅-釜石駅間36.6kmの南リアス線、宮古駅-久慈駅間71.0kmの北リアス線が同時に開業。これは国鉄再建法によって廃止された路線の第3セクター鉄道転換第1号となりました。また開業当初から経営が順調だったこともあり、結果的にその後、廃止された国鉄路線を引き継いだ第3セクター鉄道が多数誕生するきっかけともなったようで。

 そして開業から10年間は黒字経営を続けた三陸鉄道ですが、平成4年(1992年)から輸送人員は減少に転じ、平成6年(1994年)からはとうとう赤字経営に。それに対して平成15年(2003年)には経営改善計画を策定。合理化のさらなる推進と観光客誘致などによって経営の建て直しを図ることになったのですが、その途中の平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災が発生。三陸鉄道は未曾有の被害を受けました。

 ですが震災から5日後の3月16日、JRに先んじて久慈駅-陸中野田駅間で運行を再開。他の被害が軽微だった区間でも順次運転を再開させ、また不通区間についても国及び県から災害復旧費用の交付を受けるなどして順次復旧工事を進め、平成26年(2014年)4月6日、震災から約3年で全線復旧を果たしました。

 一方、南リアス線と北リアス線の間にあったJR山田線ですが、こちらも東日本大震災で甚大な被害を受けたため、JRは沿線自治体に対してBRT方式での復旧を2度に渡って打診。しかし沿線自治体はあくまで鉄道での復旧を求めたため、最終的にJRは被災箇所の費用の2/3にあたる140億円を負担して復旧工事を行うと共に、それとは別に被災しなかった箇所のレールを高規格のものに交換するなどの追加負担、更には今後発生する赤字補填分や災害対応費用として30億円を拠出し、復旧工事完了後は三陸鉄道へ移管することに。

 これにより、復旧工事完了後の平成31年(2019年)3月、従来の南リアス線、北リアス線に、移管された釜石駅-宮古駅間を加えた全長163.0kmの「リアス線」が誕生したのもつかの間、同年10月、日本列島に多大な被害をもたらした台風10号によって再び被災し、一部区間で土砂流入や路盤流出が発生。一時は全線運休になったものの徐々に復旧区間を拡大させ、令和2年3月、最後に残っていた釜石駅-陸中山田駅間で営業運転を再開し、再び全線復旧を果たしました。

 それで今回乗る釜石駅-宮古駅の区間ですが、国鉄山田線として大正12年(1923年)の盛岡駅-上米内駅間9.9kmから小刻みに延伸してきたものが、昭和9年(1934年)に宮古駅まで到達。昭和10年(1935年)11月に陸中山田駅間までの26.5km(余談ですが、「山田線」の路線名はこの山田が由来です。)、昭和11年(1936年)11月に岩手船越駅までの5.0km、昭和13年(1938年)4月に大鎚駅までの11.6km、そして昭和14年(1939年)9月に釜石駅までの12.3kmが延伸して(山田線の)全通となったものです。

【駅構内にあったラグビーのモニュメント】
駅構内にあったラグビーのモニュメント

 駅構内にあったラグビーのモニュメントを眺めたのち、券売機で切符を購入。無人の改札口を通って入場して今度乗る列車が発車する4番線ホームへ。それにしてもこの釜石駅、三陸鉄道とJRで駅舎は別にもかかわらず、一部ホームは共用という、脱衣所だけ男女別の浴場みたくなっているんですね。

【釜石駅に停車中の久慈行き普通列車】
釜石駅に停車中の久慈行き普通列車
【36-700形(36-715)のボックスシート】
36-700形(36-715)のボックスシート

 地下道を通ってホームに上ると、久慈行きの列車は既にホームに停車していました。昨日の列車同様のワンマン運転のようで、その車両は、昨日、盛駅から乗ってきのと同形式の36-700形。車番は36-715で、この形式の車両としては最も新しい、平成31年(2019年)2月に製造、3月に導入されたもの。

【釜石駅発車直後の車内の様子】
釜石駅発車直後の車内の様子

 乗り込んだ時、車内に先客はほとんどいなかったものの、その後三々五々という感じで乗ってきて、発車までに8人の乗客が。昨日、どこかで見かけたような人もおり、中には余り好ましからざると言うか、昨日非常に落ち着かない挙動を見せていた白髪頭の壮年男性も。今日もホーム、そして車内をせわしなくチョロチョロしています。それと、私の前のボックスに座った一人旅っぽいお姉さんからは、私の苦手なお化粧の匂いが強く漂って……。

【釜石駅-両石駅間(テレトラック釜石)】
釜石駅-両石駅間(テレトラック釜石)
【釜石駅-両石駅間(両石湾)】
釜石駅-両石駅間(両石湾)

 そんな人達を乗せ、どんよりした雲が空を覆う中、定刻に釜石駅を発車。そういえば、前回三陸鉄道に乗ったときも、天気が悪かったことを思い出しました。それで列車は、甲子川を渡ると右にカーブしてJR釜石線と分かれ、元はJR(国鉄)山田線だった区間へと。
最初の停車駅である両石駅までの間に、複数のトンネルと橋梁を通過。結構な長さに感じるのですが、その途中、進行方向右手に有るのが、岩手競馬の場外馬券場であるテレトラック釜石。東日本大震災で大きな被害を受けた岩手競馬ですが、このテレトラック釜石は津波によって全壊。しかし3年半後の平成26年(2014年)9月に新築のうえ再開したニュースを見て、復興が進んできたことを勝手に実感したものです。

【大鎚駅-吉里吉里駅間】
大鎚駅-吉里吉里駅間
【吉里吉里駅-浪板海岸駅】
吉里吉里駅-浪板海岸駅

 その後は、リアス式海岸の半島基部をエンジンをふかしてアップダウンしつつ、森を抜ければ海と集落と駅という、昨日もBRTや三陸鉄道の車中などで見たリアス式海岸の景色。ただ、この区間は前述のとおり建設年次が古いせいか、昨日乗った盛駅-釜石駅までの区間と違って、線路を迂回させて極力トンネルを短くしているような印象を受けます。そして、昨日もそうだったのですが、海沿いのいたるところで、各地で防潮堤など建設中。また建物も、震災以降に建てられた真新しい物が多いのですが、よく見ると、震災による被害を免れたものも僅かながらあるようですね。そんな中、大鎚駅で最初の列車交換。

【浪板海岸駅-岩手船越駅間】
浪板海岸駅-岩手船越駅間

 釜石駅から約35分で到着した岩手船越駅では、高校生が数人乗車。乗客が増えるのは釜石駅以来でした。ですが、そこからはずっと駅ごとに乗車があり、2度目の列車交換のために約5分停車した陸中山田駅では、まとまった乗車が。その殆どが部活っぽい格好をした高校生で、ボックスシートの先客が1人でも決して相席せず、車両後部に仲間同士で溜まるという感じ。ただ、相席になるかならないかは別として、こういう時、荷物は網棚もしくは膝の上においておくべきだと思うのですが、残念ながらそうでない人もいるようで。

【津軽石駅-八木沢・宮古短大駅間】
津軽石駅-八木沢・宮古短大駅間

 陸中山田駅を出た列車は、三陸のリアス式海岸最大の半島、重茂(おもえ)半島の基部へ。ちなみに東日本大震災の際、最も津波が高くまで駆け上がったのはこの重茂半島にある重茂姉吉地区で、遡上高40.5mが記録されたそう。それでやはりこの区間も、盛駅-釜石駅間のように直線的ではなく、エンジンを震わせながら左右にカーブを切りつつ進み、駅ごとに乗客を増やしつつ半島基部の横断が終わると、津軽石駅に停車。約3分停車する間に乗客の乗り降りがあり、3度めの列車交換を行ってから発車。すると宮古湾の最奥部に注ぐ津軽石川に建設された巨大な防潮堤が目に入りました。

【磯鶏駅-宮古駅間】
磯鶏駅-宮古駅間

 その後また海から遠ざかった列車はここでも乗客を増やした八木沢・宮古短大駅あたりから宮古市の市街地に入り、更に女子高生を1人追加した、難読な磯鶏(そけい)駅を過ぎると閉伊(へい)川を渡って定刻の7時33分、釜石駅から1時間半ちょいで宮古駅へと到着しました。

【駅そば 店舗外観(※この日の午後撮影)】
駅そば 店舗外観

 宮古駅で列車を降りた後は、12分後に発車する盛行きの普通列車で折り返すのですが、それまでに切符の購入と駅舎の写真でもと一度改札口を出たところ、立ち食いそば店を発見。宮古駅には少なくとも過去一度は来たことがあったにもかかわらず、このお店の存在は全く記憶になし。もっとも、見つけたからには是が非でもいただかないと気が済まない性分なので、とりあえず切符を買った後にお店へ。

【いただいたいか天そば+生たまご(450円+50円)】
いただいたいか天そば+生たまご(450円+50円)

 急ぎ食券を買って店員のお姉さんに渡し、出来たものを急ぎいただいたのですが、ツユは珍しい煮干出汁に、しっかり目に効かされた濃口醤油、そして甘さ控えめで硬派な味付けが印象的。そばは一般的な茹で麺ですが、しっかりイカが主張するイカ天と共に、サイズの大きい生卵で温度を下げつつ急ぎいただきました。で、そば自体十分満足できる味だったのですが、他にも「店長イチオシ!」と書かれた「宮コロッケそば」(残念ながら品切れだった)やラーメン、ご当地メニューのあずきばっとうやすすり団子も(一部はお土産品でしたが)あったので、これはまた是非とも来たくなりました。

【宮古駅に停車中の盛行き普通列車】
宮古駅に停車中の盛行き普通列車

 そばをいただいた後は再び改札口を通ってホームへ。幸いなことに、盛行きの普通列車は改札口から一番近い1番線ホームに停車中。おかげで発車まで若干余裕ができたので、先頭部の写真を撮ってから車内へ。1両編成の車両はこれまで同様、36-700形ですが、クウェート国の支援を受けて平成25年(2013年)2月に製造・投入されたトップナンバーの36-701、しかもラッピング広告車になっていました。

 各ボックスシートに概ね1名づつ(正確には1つだけ2名1つは空き)とロングシートに数名の客を乗せ、定刻の7時45分、宮古駅を発車。先程は海側の席に座っていたので、今度は山側のボックスシート座ったのですが、ちょうど差してきた日が当たらないこちら側の方が結果的に良かったかもしれません。

【磯鶏駅発車直後】
磯鶏駅発車直後

 宮古駅の次の磯鶏駅では、駅近くに蒸気機関車が静態保存されているのを発見。よく見ると9600形という大正時代から昭和初期にかけて製造された機関車。更に調べたところ、ここに保存されているのは9625という車両で、大正3年(1914年)に製造され、東北本線などで使用。昭和47年(1972年)に青森機関区で廃車(休車?)になった後、昭和51年(1976年)に国鉄から寄贈を受けた宮古市が、当地に展示したものだそうで。それにしても、100年以上前に製造されたものがまだ残っている(しかも、遠目からだと比較的綺麗に見えた。)のって、すごいことですねぇ。

【豊間根駅-陸中山田駅間】
豊間根駅-陸中山田駅間

 先程の列車でも津軽石駅では、校名入りジャージ着た高校生が下車。7分停車して交換した車両の側面先頭付近には、「クウェート国からの支援に感謝します」と書かれたステッカーが貼られていました。その後は、おおむね駅ごとに乗客を増やしながら釜石駅へと。途中で乗ってきた乗客の中には、昨日の道中で見かけた人も混ざっていました。それで私はというと、山側の景色を何となく眺めながら、耳にはめたイヤホンからお気に入りの懐かし音楽を流していたら、ついウトウトと。駅に停車すると目が覚めるのですが、そんな中、陸中山田駅や鵜住居駅で交換した反対方向の列車は混んでいるようでした。

JR釜石線 快速はまゆり4号

 9時27分に釜石駅まで戻ったあと、今度は、JR釜石線の盛岡行き快速はまゆり4号に乗り換える予定。ですが、待ち時間が50分近くあるので、とりあえずJR駅の待合室に。ここには「そば処釜石駅店」というお店が、事前に調べた時に見つけていたので、(約2時間前に1杯いただいていたにもかかわらず)1杯いただくことに。

【いただいたたぬきそば350円+単品帆立160円+単品玉子70円】
いただいたたぬきそば350円+単品帆立160円+単品玉子70円

 たぬきそばをベースに、心の赴くままに単品を追加したら、結果的に訳わからない品が誕生したのですが、とりあえずつゆからいってみると、出汁感はあまりなく、それよりも醤油っ気が強いタイプ。甘味もあるけど塩気もある味の濃さが印象的でした。そこに、歯切れは良い方の茹で麺と、帆立はベビーホタテ数個。あとメカブに玉子にたっぷりの天玉という組み合わせは悪くなかったものの、一考の余地ありだったかなぁ、と。

【待合室に展示されていた釜石線全通当時の新聞と放映されていたニュース】
待合室に展示されていた釜石線全通当時の新聞と放映されていたニュース

 その後は改札が始まるまで少々時間があったので、待合室で待つことに。で、待合室には、ちょうど70年前の昭和25年(1950年)、釜石線が全通した当時の新聞が展示され、液晶ディスプレイで当時のニュース映像が放映れていました。で、そのニュース映像を見ていると、鉄道開通で人の往来が無くなるであろう峠(仙人峠?)を挟んで接する釜石市長と隣の自治体の首長が峠道の頂上付近で名残の酒盛りをした様子や、開通した時の釜石市内のお祭り騒ぎの様子などが映し出され、とても興味深かったです。

 と、そんな歴史的な映像を見たついでに、これから乗る釜石線についてと、その歴史について少々。

 釜石線は、花巻駅を起点に、終点の釜石駅との間90.2kmを、北上山地を横断して結ぶ路線で、起点駅と終点駅を含む駅数は24駅。全線単線、非電化の路線です。

 釜石の鉄道は、国鉄、厳密には当時鉄道省路線だった山田線が昭和14年(1939年)に乗り入れる以前、国が明治13年(1880年)に釜石の桟橋や官営製鉄所と、大橋(現在の陸中大橋駅付近)にあった官営鉱山を結ぶ工部省釜石鉄道を作ったものの僅か3年で廃止となったり、その後その施設の一部を使用して岩手県化初の民営鉄道である釜石鉱山馬車鉄道、後の釜石鉱山鉄道が、釜石駅-大橋駅の間に存在していました。

 それで現在の釜石線ですが、結果的に成り立ちの違う2つの路線を繋げたもので、まず起点である花巻駅側は、岩手軽便鉄道が、大正2年(1913年)10月から大正4年(1915年)11月にかけて花巻駅-仙人峠駅を開通。名前のとおり、開通当初は軌間(2本のレールの間隔)762mmでした。それを昭和11年(1936年)8月に国が買収して釜石線とし、昭和18年(1943年)から軌間を他の国鉄1067mmとする改軌工事に着手すると共に国鉄花巻駅に乗り入れるため花巻駅-似内駅間のルートを変更。昭和19年(1944年)10月に後述する釜石東線の開通に伴い釜石西線と改称しました。

 一方釜石駅側は、昭和19年(1944年)10月、釜石東線として釜石駅-陸中大橋駅間が貨物線として開通。翌年の昭和20年(1945年)6月、旅客営業を開始しました。

 そしてこれら、釜石西線と釜石東線の間ですが、仙人峠を挟んでとても高低差があったため鉄道の敷設が容易ではなく、釜石軽便鉄道が大正3年(1914年)索道(ロープウェイ)を設置して貨物輸送に使用。旅客は徒歩か駕籠で、つづら折れの仙人峠を超えていくしかない状態でした。(ちなみにこの索道は釜石軽便鉄道と一緒に国に買収され、国鉄唯一の索道路線となったそうで。)

 ですが国による釜石鉄道の買収直前である昭和11年(1936年)6月から、仙人峠を超える鉄道の建設が開始に。そのルートは仙人峠駅の2つ手前の足ヶ瀬駅から分岐して東進したのちΩ状というかヘアピンカーブで北上して陸中大橋駅に繋がるというものでした。しかし太平洋戦争の激化によって工事が中止に。戦後を迎えますが、昭和21年(1946年)から昭和23年(1948年)のにかけて、釜石へ直通する山田線が風水害、台風(カスリーン台風とアイオン台風)による土砂災害によって被災して長期運休に。その際GHQが、釜石への代替路線として急ぎ未成区間の建設及び既成区間の改築を指示。その結果、昭和25年(1950年)10月、釜石駅までの90.2kmが全通しました。

 それと釜石線は、起点の花巻出身の宮沢賢治と縁があり、一説にはその前身の岩手軽便鉄道が「銀河鉄道の夜」の車窓風景のモチーフになったとか。なのでJRもそれにちなみ、平成7年(1995年)3月、線名に「銀河ドリームライン釜石線」、駅名に宮沢賢治作品によく出てくるエスペラント語の愛称を付けました。また平成元年(1989年)から不定期に「ロマン銀河鉄道SL」、「SL銀河ドリーム号」というSL列車を運行させたことがありましたが、平成26年(2014年)からは専用の蒸気機関車と客車を用意した「SL銀河」が運行されています。

【釜石駅に留め置かれているSL銀河用ディーゼルカー】
釜石駅に留め置かれているSL銀河用ディーゼルカー
【機関庫に入っていたC58 239】
機関庫に入っていたC58 239

 それで映像を見ながら待つこと少々。改札が開始されたので、改札口から地下道へ。これから乗る快速はまゆり4号が発車するのは3番線なのですが、まずは1・2番線ホームへ上り、1番線に留め置かれていた、釜石線を走る臨時列車「SL銀河号」の客車に使われているディーゼルカー(っていうか、余剰となった北海道用の客車にJR北海道がディーゼルエンジンを付けて気動車化した車両を再改造したもの。)を見学。ちなみにその車両を牽引する蒸気機関車C58 239は、ちょっと離れた車庫で休んでいるようでした。

【釜石駅に停車中の快速はまゆり4号(先頭方)】
釜石駅に停車中の快速はまゆり4号(先頭方)
【釜石駅に停車中の快速はまゆり4号(後部方)】
釜石駅に停車中の快速はまゆり4号(後部方)

 そしていよいよはまゆり4号が停車している3番線へ。列車は3両で、昨日何度か乗ったキハ110系100番台を先頭に、後部2両がリクライニングシートを持つキハ110系0番台という編成になっていて、前寄り2両が自由席、後寄り1両が指定席。で、その最後尾の指定席車、キハ110-3が今回乗る車両です。(ちなみに指定席券は「えきねっと」で購入済み。)実は今から21年前、このはまゆりの前身にあたる急行陸中に乗ったことがあり、キハ110系0番台はそれ以来になりますね。

【キハ110系(キハ110-3)0番台の車内】
キハ110系(キハ110-3)0番台の車内
【キハ110系(キハ110-3)0番台のシート】
キハ110系(キハ110-3)0番台のシート

 そのキハ110系0番台ですが、当時まだ走っていた急行列車用として、平成2年(1990年)に試作車であるキハ110-1~3を、平成3年(1991年)に量産車であるキハ110-4,5、キハ111-1~3、キハ112-1~3を製造。車体は片側片開き2扉の20m級で、キハ110形がトイレ付き両運転台車、キハ111形がトイレ付き片運転台車、キハ112形がトイレ無し片運転台車となっていて、登場以来、盛岡駅-釜石駅(一部は宮古駅)間の急行陸中で使用していましたが、平成14年(2002年)の急行陸中廃止後は、後継の快速はまゆりの他、釜石線、東北本線の普通列車でも使用。またうち3両が八戸線で運用されるジョイフルトレイン「TOHOKU EMOTION」用に改造されました。

 一通り写真を撮ったあとキハ110-3に乗り込み、指定された進行方向左側の席に着席。ちょっと落ち着いたところで定刻の10時14分になると、ホームからは発車ベルや音楽など聞こえず、その代わりに床下のエンジンが唸りを上げて発車しました。先ほど写真を撮ったときに見た限りでは、自由席車はそれなりに乗っているようでしたが、この指定席車の乗客は私を入れて3人。前の席に座ったお姉さんは、乗り込むと缶ビール2本をテーブルに並べ、発車するとうち1本をプシュっと。その音にこちらもつい飲みたくなります。

【釜石駅-小佐野駅間】
釜石駅-小佐野駅間

 釜石駅を出て最初の停車駅は、次の小佐野駅。指定席車には、都会的な感じで垢抜けた、私の同年代と思われるお姉さんが乗ってきました。そして小佐野駅を発車すると、次の停車駅である遠野駅まで40.5km、約44分もの間、時刻表上ではノンストップ運転となり、この間に、北上山地を走り抜けます。それで小佐野駅を発車して早々に、車内改札がありました。

【洞泉駅-陸中大橋駅間】
洞泉駅-陸中大橋駅間
【陸中大橋駅運転停車】
陸中大橋駅運転停車

 小佐野駅の次の次の洞泉駅を通過すると、列車はこれまでの西から北北西へと進路を換え、甲子川が作った渓谷を登り始めます。洞泉駅から先、そのまま西に進むと高低差があり過ぎるため、それをクリアすべく次の陸中大橋駅を経てその次の上有住駅までの途中、線路がΩ状というかヘアピンカーブのように引かれており、Google Mapと国土地理院の国土電子Webで調べたところ、洞泉駅と上有住駅の高低差は約280m、直線距離は約6.8kmのところ営業距離14.2kmと、大分遠回りしています。で、登り始めて程なく、進行方向左手の高いところには、ヘアピンカーブをクリアあとで渡ることになる真っ赤なアンダートラス橋、鬼ヶ沢橋梁が。ほんと、この区間の高低差を実感しますね。そしてそれが過ぎると、陸中大橋駅に列車行き違いのため運転停車。「時刻表上ノンストップ」と書いたのはこれがあるからで、盛岡駅からの快速はまゆり1号と交換してから発車しました。

【陸中大橋駅-上有住駅間】
陸中大橋駅-上有住駅間

 陸中大橋駅を発車した列車は、先ほどまでよりもエンジンを震わせ(るような気がし)て更に上り勾配を上りつつ全長1280mの第2大橋トンネルに突入。同時に左に大きくカーブして、進路が南南東へと変わります。そしてトンネルを抜け、もう一つ短いトンネルを抜けると、先程走ってきた線路が遙か下に見えました。

【足ヶ瀬駅-平倉駅間】
足ヶ瀬駅-平倉駅間

 そんなダイナミックな車窓風景を堪能していると、携帯電話に職場の中ボスからの着信が。今日は旗日で職場も公休。にもかかわらず、しかも担当者だけではなく管理職の私に直接電話寄越すなんて相当深刻なトラブルが出たと思って青くなったものの、生憎電波の状態が悪くて、つながったと思ったらすぐ切れてしまったという。その後も、列車は全長2975mの土倉トンネルや、上有住駅を通過したあと全長1831mの足ヶ瀬トンネルという、北上山地を超えるべく連続での峠越えに入るところ。当然電波も入らず、大変落ち着かない心持ちのままそれらを抜けていきます。そして、列車が北上山地を抜けて遠野市内に入った足ヶ瀬駅のあたりでようやく連絡が付いたのですが、聞けば全く以て緊急を要さない案件だった事が判明……。なので安堵とともに若干の憤り(まぁ、こっちが旅行しているなんて知らないから仕方ないんだけどさ。)を覚えつつほっと一息ついたあたりで、進行方向左手の車窓には、ひまわり畑が過ぎていきました。

 その後程なくして街に入ると、釜石駅を出てから50分弱、定刻の11時3分に遠野駅到着。自由席車両に出入りはあったのが見えたものの、指定席車両は乗降なし。3分停車する間に釜石行きの普通列車と交換しました。

【綾織駅-岩手二日市駅間】
綾織駅-岩手二日市駅間

 遠野駅を発車した列車は間もなく鉄橋へと差し掛かり、猿ヶ石川を渡ります。「遠野物語」の中で河童が住むとされた川で、ここから先、釜石線はその川と付かず離れつという感じで進むことに。それで川が流れれば平地もできるというわけで、川の近くの少ない平野部は水田が広がり、そこに山が迫るという、農業系のお役所言葉だと「中山間(ちゅうさんかん)地域」的風景が続きますが、ほ場整備されたところが多いのか、水田がきれいな四角形になっている箇所が多いですね。で、そんなありきたりな風景の中に、見慣れぬものが。農業用水の水利施設でしょうか、他のほ場整備された地域ではあまりみかけない、わりと大きいコンクリートの建物がところどころに建てられています。

【柏木平駅-宮守駅間】
柏木平駅-宮守駅間
【岩根橋駅-晴山駅間(東和発電所)】
岩根橋駅-晴山駅間(東和発電所)

 そんな景色の中を進んできた列車ですが、やがて線路と川の間の面積が狭くなり、更に進むと山っぽい景色の中に。遠くで猿ヶ石川が蛇行しているのが見えるのですが、この先猿ヶ石川は多目的ダムの田瀬ダムに注ぎます。ちなみに、先ほど釜石線の建設が急がれた理由として出てきたカスリーン・アイオン台風がもたらした北上川水系の被害が、田瀬ダムを建設する理由の一つだったそうですね。で、猿ヶ石川から離れた列車は山の中を進み、宮守駅に停車。指定席は乗降客なしで発車し、駅の周りの僅かな平地を過ぎると、車窓には再び山が迫ってきます。で、しばらくすると先程別れた猿ヶ石川が再び進行方向左手に現れ、更に進むと、猿ヶ石川に発電所が。日本電源開発の東和発電所で、田瀬ダムの水利を使った水力発電が行われています。

【小山田駅-新花巻駅間】
小山田駅-新花巻駅間

 その後列車は再び平地に出ますが、今度は先程までと違って、広々とした感じ。そして猿ヶ石川と別れると街へと入り、土沢駅に停車します。ここも指定席車は乗降客なしで発車すると、広い水田の中を進み、その中に新幹線の巨大な構造物が見えると新花巻駅に停車。誰か降りる人がいるかなと思ったのですがまた指定席は乗降客なしでした。

【新花巻駅-似内駅間】
新花巻駅-似内駅間

 新花巻駅を発車した列車は北上川を渡ると、いわて花巻空港の北側を通って花巻市の市街地へ入り、車窓には、広い道路やその道路沿いの量販店が。個人的に馴染み深い地方部特有の景色ですが、この列車がこれまで走ってきたところを考えると都会的に感じます。そして釜石線を全線踏破した列車は、釜石駅を出てから約1時間44分、定刻の11時58分に花巻駅に到着。

【仙北町駅-盛岡駅間】
仙北町駅-盛岡駅間

 花巻駅では、約5分停車してから、進行方向を替えて発車。それを知っていたので停車中に座席を回転させておきましたが、指定席だと他の乗客1人が同じように回転。それで指定席は、ここで初めての降車客が出た代わりに、男女2人連れが2組乗車しましたが、この4人は指定席券を持っていなかったようで、車内改札に来た車掌さんがちゃんと自由席車両に移動させていました。その後列車は、先程の釜石線とは打って変わって東北本線の高規格な線路上を快走。日詰駅では、普通列車を待たせて追い越します。そして最後の停車駅である矢幅駅を出た列車は岩手の県都、盛岡の市街地へと入り、釜石駅を出てから2時間18分、定刻の12時32分に、終点の盛岡駅へと到着しました。

【盛岡駅に到着した快速はまゆり4号】
盛岡駅に到着した快速はまゆり4号

(つづく)

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