たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 28/100城目 岐阜城 【平成25年10月20,21日】

斎藤道三織田信長ゆかりの岐阜城の看板

 10月下旬に三重、滋賀、岐阜へとクルマで旅して来た時の記事その11は、前の記事の彦根城の次にお伺いした、日本100名城のひとつ、岐阜城です。


岐阜城について

 岐阜城は、岐阜県岐阜市にある山城で、国指定の史跡(平成23年指定)。

 伝承によれば、元々は鎌倉時代の建仁元年(1201年)、二階堂行政が現在の金華山に砦を築き、その後二階堂氏は稲葉氏と改称したことから山の名前も稲葉山となったのですが、その後は後継者の死亡により廃城になってしまいました。その後室町時代に入り、15世紀の中頃に、美濃守護代であった斎藤利永が、砦の遺構を用いて稲葉山城を築城。もっとも、この頃は山頂部に城は築かれなかったという話もあるのですが。(尾根筋の利用が中心だったらしいのですが。)ともあれ、それ以降稲葉山城は、斎藤氏の居城となりました。

 そして戦国時代に入り、美濃国は守護の土岐氏の弱体化や、守護代の斎藤氏が土岐氏を上回る力を得るも家中が不安になるなどだいぶきな臭い感じになっているのですが、それを背景に長井新左衛門尉と新九郎規秀の親子が美濃の国盗りをスタート。ちなみに、当時の美濃は、街道の交わる交通の要衝であり、また、濃尾平野の肥沃な土地によって農業生産力も高いなど、地政学的に重要な地位を占めていたようです。それでまずは大永5年(1525年)、斎藤氏家臣の長井長弘と共に新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃して奪取。その後は色々とあって、新左衛門尉の没後は息子である新九郎規が跡を継いだのですが、秀天文7年(1538年)に守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政を名乗るようになりました。そしてその翌年の天文8年(1539年)、稲葉山城を大改修。山頂に城が築かれたのはこの時という話もあるようで。その後、利政が追放した美濃国守護土岐頼芸が、追放先であった尾張の織田信秀の協力を得、天文16年(1547年)に城下まで攻め込みますが、稲葉山城に籠城した利政がこれを撃退。その後利政は信秀と和睦。娘の帰蝶を信秀の嫡子信長に嫁がせました。で、それによって織田の援軍が得られるようになると、利政は美濃国内の反抗勢力を一掃し平定。ここに美濃の国盗りが完了しました。

 その後の天文23年(1554年)、利政は稲葉山城と家督を嫡子の義龍に譲り、本人は剃髪入道して道三と号したのですが、その後何があったのか義龍を嫌うようになり、結局は弘治2年(1556年)に親子で戦に。しかし信長の援軍も間に合わず道三は討ち取られ、義龍が勝利しますが、道三の死を境に信長が美濃にちょいちょいちょっかいを出すようになります。(道三が信長に「美濃はやる」なんて遺言を残したという話も。)で、その義龍は永禄4年(1561年)に急死。嫡男の龍興が13歳で家督を継ぎ城主となりました。ですがその龍興。若輩だった事などもあって家臣の信頼を得られず、その間にも相変わらず信長は度々攻めてくるという状況。それを、当時は斎藤家に仕えていた竹中重治(半兵衛)らの活躍により退けていたのですが、龍興は酒色に耽るなど余計駄目まってきており、永禄7年(1564年)、それにブチ切れた重治らが挙兵。稲葉山城を1日で攻め落としてしまいました。それで重治らはその後半年にわたって城を占拠。それを知った信長は城を譲って頂戴とお願いしたのですが、重治らは龍興に城を返すことに。ですが結局は永禄10年(1567年)、信長が再び攻め入り、稲葉山城は落城。龍興は逃亡しました。

 と、だいぶ引っ張ってしまったのですが、ここまではまだ稲葉山城のお話。前述のとおり稲葉山城を攻め取った信長は、それまでの縄張りを破却し、新たに城を築いて自らの居城としました。その際、中国の故事にちなんで城とその城下町の名前を改めたのですが、それが「岐阜」。(これでやっと岐阜城になりましたなぁ。)で、この頃から信長は「天下布武」の印を用いるようになったため、ここから本格的に天下統一を目指すようになったとされています。その後、天正4年(1576年)に信長は、嫡子の信忠に岐阜城と美濃・尾張2国を譲渡。信忠は岐阜城を更に整備改修したそうで。ちなみに、この頃の岐阜城は、麓に「天主(てんしゅ)」と呼ばれる御殿があり、その更に上段の「千畳敷」と呼ばれる部分に4層の南蛮様式を取り入れた御殿が。そして山頂にも「天守」が置かれていたそうです。

 しかし天正10年(1582年)。本能寺の変で信忠は死亡。その際、織田家家臣にして斎藤道三の忘れ形見である斎藤利堯が城を占拠しましたが、本能寺の変を起こした明智光秀が織田信孝を総大将とした軍勢に破れると、利堯は信孝に降伏。その後開かれた清洲会議により、美濃国と岐阜城は信忠の嫡子である三法師の後見となった信孝のものとなりました。ですが、同年12月に羽柴秀吉らが突如挙兵。丹羽長秀や池田恒興の嫡男である元助らと城を包囲すると信孝は降伏。三法師は秀吉に引き渡されることになりました。で、その翌年の天正11年(1583年)。賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵。しかし今度は兄の信雄によって岐阜城を包囲され、また柴田勝家も北ノ庄城で自害すると、信孝は岐阜城を開城して秀吉に降伏、そしてその後切腹させられました。(この時、まことに壮絶な最期だったようで。)

 この戦の後、美濃国は池田恒興に、そして岐阜城はその嫡子である元助に与えられますが、天正12年(1584年)に起こった小牧・長久手の戦いで二人とも戦死したため、美濃国、そしてその後岐阜城も家督を相続した恒興の次男である輝政のものとなりました。それで輝政が城主の頃、天守が改修されたりしたそうですね。ですが天正18年(1590年)の小田原征伐と奥州仕置の後、輝政は三河国の吉田城に転封。替わって翌天正19年(1591年)に、秀吉の養子である豊臣秀勝が城主となります。しかし、その秀勝は文禄元年(1592年)の文禄の役の際、戦地で病没。替わってかつての三法師である織田秀信が城主となりました。

 そして迎えた慶長5年(1600年)。天下分け目の関ヶ原で秀信は西軍に付くことになるのですが、前哨戦で攻められ落城。落としたのは、かつての城主である池田輝政(と、福島正則)でした。それでその翌年。関ヶ原に勝った徳川家康は、岐阜城の廃城を決定。これは岐阜城が不便な山城であった事に加え、信長が名付けた「岐阜」という名前を忌み嫌ってという理由もあったようです。それで家康は、岐阜城の替わりに加納城を築城を決定。その際、岐阜城の天守などが移築されたそうです。(ですが、享保13年(1728年)に、落雷による大火で焼失してしまったそうで。)

 あとは、明治に入って復興天守の再建が始まり同43年(1910年)に完成。昭和18年(1943年)に失火により焼失しますが、戦後の昭和31年(1956年)、市民や財界の寄付により、鉄筋コンクリート造り3層4階構造となる現在の天守が再建されました。また昭和59年には、隅櫓を模した岐阜城資料館が完成。同年から信長居館跡の発掘調査が開始され、それは現在でも続けられています。

実際に行ってみた

平成25年10月20日

 実は岐阜城には平成23年に一度お伺いしているのですが、当時は日本100名城スタンプラリーをやっていなかったので、スタンプを貰うためにもう一度お伺いする必要があったというか。なので、今回の旅行に合わせてもう一度お伺いしようと計画していたところでした。

【雨の名神高速】
雨の名神高速
 それで彦根城にお伺いした後、相変わらず雨の降り続く名神高速をとって返して、更には一宮JCTから東海北陸道へ入って岐阜各務ヶ原ICへ。

【金華山と復興天守】
金華山と復興天守
 それで市内を抜け、前回もクルマを停めた市営の岐阜公園堤外駐車場に到着。で、実は今回お伺いするにあたって、2つ程勘違いしていたことが。

【岐阜市歴史博物館】
岐阜市歴史博物館
 まず1つは、日本100名城スタンプラリーの設置場所。置いてあるのは、金華山山頂付近にある岐阜城資料館のみで、麓の岐阜公園内にある岐阜市歴史博物館には置いていなかったというか。(受付のお姉さんも「よく間違う方がいらっしゃるんですが」と申しておりました。)

【金華山ロープウェー乗り場】
金華山ロープウェー乗り場
【金華山ロープウェーと岐阜城の営業時間等】
金華山ロープウェーと岐阜城の営業時間等
 そしてもう1つは、岐阜城資料館というか岐阜城の営業時間。もとより今回は天守まで回ろうと思っていたのですが、ロープウェイ乗り場に到着したのが午後4時を少し回ったところ。で、券売所で「この時間、岐阜城へは入れませんが」と言われよく見たら、岐阜城の営業時間って午後4時30分まで(更に入場は午後4時15分まで)だったんですね…。

【織田信長居館跡入口】
織田信長居館跡入口
【信長公入城以前の石積み】
信長公入城以前の石積み
【居館跡発掘調査現場】
居館跡発掘調査現場
 というわけでこの日はスタンプは諦め、先述の岐阜市歴史博物館と、織田信長公居館跡を観て引き上げることに。ちなみに居館跡の発掘調査現場も、もっと早い時間に来れば観られたようですね。

平成25年10月21日

【再び岐阜城へ】
再び岐阜城へ
 そして翌日。この日は既に予定が決まっていたのですが、その前に昨日貰いそびれたスタンプを貰おうと、営業時間に間に合うよう再び岐阜城へ。

【天下第一の門】
天下第一の門
 始発のロープウェイに乗り、山頂の天守近くにある岐阜城資料館を目指しますで、ロープウェイを降りてすぐのところに、なにやらいわくありげな冠木門がありますが、ここは信長公の天下統一の大志を讃え、後生に建てられたもののようで…。

【上格子門跡】
上格子門跡
 そのまま暫く進むと、今度は本当の門跡が。で、ここは関ヶ原の前哨戦である岐阜城の戦いで、籠城する織田信秀側の軍勢と攻め手の池田輝政、福島正則の軍勢がこの門を巡って激しく戦ったそうで。

【二ノ丸門跡】
二ノ丸門跡
 岐阜城の天守のあった天守台の一段下には二ノ丸が築かれ、その入口に当たるのがこの門。岐阜城の戦いの際には二の丸が激戦地となり、その際、門内にあった硝煙倉に引火して大爆発を起こしたそうです。で、この門のところとかにある狭間付きの白壁なのですが、在りし日の岐阜城には本当にあったんですかね?

【二ノ丸から見た復興天守】
二ノ丸から見た復興天守
 二ノ丸の途中、木が途切れて天守が良く見える場所があります。(もっとも、この写真はズーム使って撮ってますが。)

【岐阜城資料館】
岐阜城資料館
 ロープウェイを降りてから結構急いだせいか、スタンプの置いてある開館時間の15分前には到着。で、時間になったのでスタンプをいただこうと思ったのですが、その為には天守で入場券を買ってくれとのこと。なので急いで天守に行き入場券を買い、ようやくスタンプを貰うことができました。

【本丸井戸跡】
本丸井戸跡
 本当は資料館内の展示物や天守内も観たかったのですが、次の予定が気になったので断念(前回に続いて今回も観なかったというか…。)し、急いで山を下りることに。それでその途中にあったのがこの井戸跡。湧き水が無い稲葉山では、雨水と岩の間から僅かに染み出る水を集めるためのものを井戸と称したそうで、二ノ丸の両脇に4箇所あったとのこと。

 あとは、またロープウェイに乗って下山。急いで次の目的地に向かいました。

感想とかまとめとか

 というわけで岐阜城だったのですが、このとおり何ともアレな訪問になってしまいました。前回来た時、「何とも昭和チックな観光地だなぁ」程度の印象だったので、今回も最初からスタンプだけ貰えばいいやと正直言ってナメていたのがその最大の原因なのですが、この記事を書くに当たって岐阜城及び金華山についてちゃんと調べたところ、根本から間違っていたというか。岐阜城の最大の見所は、廃城以降は尾張藩直轄の御用地として入山が禁止され、また明治以降は皇室御料林となった為、廃城時の遺構がとても良く残っている金華山というか稲葉山そのものだったんですね。なので、七曲口をはじめとする登山道を登りつつそれを堪能するのが、個人的には一番良い楽しみ方だったなんて、今更気付いたりしたというか…。お陰で宿題が出来たというか、今度行く時は必ず登山道で登り、前回と今回観なかった天守及び資料館もちゃんと観たいと思います。それにしても、この岐阜城がある岐阜市って何度か来ているのですが、そのたび何か微妙に合わないというか、あまり良い思い出を作ることが出来ない場所なんだよなぁ…。

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