たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

土方歳三最期の地碑 【平成25年8月26日】

八幡通り沿いにある案内看板

 五稜郭を訪れた後は、本日最後の目的地ということで訪れたのがこちら。五稜郭同様、実はこちらにお伺いするのって、個人的に二度目だったりします。


土方歳三最期の地碑について

 戊辰戦争の最終局面である箱館戦争。前の年に箱館から青森に一時退却した新政府軍は、明治2年の春を待って再び津軽海峡を渡り、その第一陣が4月9日(新暦1869年5月20日)早朝、江差の北にある乙部に上陸。そして進軍を開始し、松前や木古内で激しい戦闘を繰り広げつつ箱館へと迫っていきました。一方、二股口では、土方歳三率いる一隊が、2度に渡る新政府軍の攻撃を退けたのですが、松前、木古内を抜かれ、更には4月29日(1869年6月9日)に矢不来まで抜かれたため、背後を取られる事を懸念した土方らは五稜郭へ撤退。ここにいたって、旧幕府軍は五稜郭及び箱館市中に追い詰められました。そして5月6日には、旧幕府軍が箱館湾に敷設していた索鋼を撤去。軍艦を箱館湾内に入れ、箱館総攻撃の準備が整いました。

 そして5月11日(1869年6月20日)未明。新政府軍が箱館総攻撃を開始。五稜郭の北方と北西方から進軍してきた新政府軍本隊と、亀田新道や桔梗野、四稜郭などで激しい戦闘が繰り広げられる一方、南方では闇夜に紛れて海から船で進軍して来た奇襲隊が箱館山と箱館市中と制圧。五稜郭から箱館市中を挟んで南にある弁天台場は孤立してしまいました。そこで土方は手勢を率い、孤立した味方を救うべく出陣。途中の一本木関門で新政府軍と戦闘になり、その際、腹部を銃弾に貫かれ、34年余りの激動の生涯を閉じました。

 というのが、色んなところを見て書いた土方歳三の最期なのですが、これはあくまでも一説というか、亡くなったのは、異国橋付近という話もあり、また、土方が撃たれた原因は、敵の狙撃とも、流れ弾に当たったとも、はたまた、徹底抗戦を唱える土方を疎ましく思った味方に撃たれたとも。それで、土方が戦死したとされる一本木関門があった現在の函館市若松町に、昭和33年、有志の方たちが建立したのが、この土方歳三最期の地碑です。

実際に行ってみた

 最初に書いたとおり、こちらにお伺いしたのは今回が二度目。で、今回も、前回同様に五稜郭の後でお伺いすることにしたのですが、前回同様に途中でミスコースしたりして、それでも何とか到着したというか。ちなみに、目標物は函館市総合福祉センターで、それに隣接する若松緑地という公園内に、土方歳三最期の地碑があるという具合です。

【土方歳三最期の地碑】
土方歳三最期の地碑
 というわけでこれがその土方歳三最期の地碑。碑自体は大きな物ではありませんが、このあたりで土方さんが壮絶な最期を遂げたと思うと、とても感慨深いものが。また、碑の脇には一本木関門が復元?されているのですが、その一本木関門というのは、旧幕府軍が、箱館の入口で街道が交わる要衝だったこの地に設けた、通行税を徴収するための関所だったらしいです。

感想とかまとめとか

 そんなわけで、個人的に二度目の土方歳三最期の地碑だったのですが、幕末、そして明治維新は本当に過酷な時代というか、個人的には救いが無い時代に感じるんですよね。で、ここに来ると殊更そんな思いに囚われるというか。ですが、それでもまた、次に函館を訪れる機会があるのなら、必ず此処に立ち寄ると思います。だって、自らの信念に従って散っていった、個人的にとても尊敬すべき土方さんに向かって手を合わせるのは、なんとなく此処が一番ふさわしいような気がするので。

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