たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

開陽丸 (えさし海の駅 開陽丸) 【平成25年8月26日】

隣接するマリーナの建物外壁に掲げられた看板  

 道の駅北前船松前で昼食後、次の目的地に向け国道228号『追分ソーランライン』を走っていたのですが、JR江差駅を過ぎてちょっと行ったところの左手海方向に、突如3本のマストを持つ大型の帆船が見えました。で、この日は行程的に余裕があったので、早速その船の方向に向かってみると…。


開陽丸について

 開陽丸は、幕末に江戸幕府によって建造された軍艦。船型はシップ型3本マスト(補助エンジンとして400馬力蒸気機関1基付)、メインマスト高は45m、最 大長72.80m、最大幅13.04m。帆の面積は2097.80平方メートルで、乗組員規模は350~500人。また武装は大砲が16cmクルップ砲18門と16cmライク滑腔砲6門など26門に、後に9inダールグレン砲9門が追加。他に小型ブロンズ・ホーウィツェル砲など付属砲8門を備えていました。

 嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、「開国してくーださいよー。ね~、いーじゃない。減るもんじゃなしー。」(by 宮崎吐夢さんのネタ)と言いつつ日本に来た、いわゆる『黒船来航』以来、彼我の海軍力の差を見せつけられた江戸幕府は、天保の改革に失敗したり、一揆が頻発したり、桜田門外の変が起きたりと国内的にも大変な中、幕府海軍を創設(それ以前は海岸防禦御用掛)したり、海外から(不用となった)軍艦を中古で購入したりしていたのですが、外国船に劣らない強力な主力艦の必要性は明らかであったので、新たに建造することに。それで最初はアメリカ公使タウンゼント・ハリスに掛け合ったのですが、折しもアメリカは南北戦争真っ最中であり、それを理由に断られてしまいました。しからばオランダ(元々幕府海軍はオランダの協力により作られたのに、何故セカンド・チョイスだったんですかね?)にと、文久2年(1862年)、 長崎駐在オランダ総領事を通じ、オランダ貿易会社に発注。また、同時に軍艦の引き受けを兼ね、船具運用や砲術の他、測量や国際法、財政学などを学ばせるべく15名の留学生がオランダへ派遣されることとなりましたのですが、この中には、後に開陽丸艦長(軍艦頭)、幕府海軍副総裁、そして蝦夷島総裁となる榎本武揚や戊辰戦争の際に開陽丸の艦長(軍艦頭)を務めることになる澤太郎左衛門も含まれていました。

 で、その翌年の文久3年(1863年)に設計が完了し、同年、ドルトレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船会社(ヒップス造船所)にて建造開始。文久4年(1864年)には幕府の指示で船名を決めよとなったのですが、その際、榎本が提案したとされる『開陽丸』に決まりました。そして慶応元年(1865年)には進水式を迎え、無事成功。その後艤装や武装工事を終え、慶応2年(1866年) に完成し、オランダ海軍大尉ディノーの指揮のもと、留学生と共に日本へ向け出航。翌慶応3年(1867年)に横浜へと到着しました。またその際、榎本は軍艦頭並、澤は軍艦役並に任命され、今後も開陽丸に乗艦することとなりました

 そんなわけで幕府海軍の軍艦としての運用が開始されたのですが、その年の暮れ、江戸の薩摩藩邸・佐土原藩邸焼討を扇動した薩摩藩士が乗って逃げた薩摩藩船を僚船と共に追って大坂へ。その際、初めての実戦を経験しました。大坂湾到着後はそのままに大坂の警備に就いたのですが、その時の薩摩藩船との小競り合いがきっかけの一つとなり、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発。その際開陽丸は阿波沖海戦で薩摩藩船に勝利(といっても砲撃で直接撃沈したのでは無く、薩摩藩船が逃げる最中、うち1隻が座礁、自焼した。)したものの、鳥羽・伏見の戦いに敗れたのを知った榎本が将軍徳川慶喜に謁見すべく降船したのと入れ替わりに乗船した徳川慶喜らの指示により、榎本を大坂に残したまま江戸へと戻りました。その後榎本は別の船で江戸に帰還したのですが、その後海軍副総裁に就任した榎本は、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し、8月19日に開陽丸ら旧幕府海軍艦隊は品川沖を脱走。この際、榎本は総司令官となり、開陽丸艦長は(一度隠居届けを出したがこの時復帰した)澤が任命されました。途中暴風雨に遭い僚船を2隻失いましたが、8月末には仙台に到着。修繕が行われると共に、土方歳三などの旧幕府軍敗残兵を収容し、10月12日に蝦夷地に向け出航しました。

 そして10月20日、蝦夷地内浦湾の鷲の木村(現在の森町)に到着。土方など陸兵が上陸し、箱舘に向けて進撃を開始。箱館および五稜郭を占領すると箱館港に入港して祝砲を撃ったそうで。その後旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始したのですが、その援護のために開陽丸も江差へ向け出航。15日(14日とする史料も有り。)に江差沖に到着し、陸地に艦砲射撃を加えたものの、実はすでに松前兵は撤退した後で、旧幕府軍は江差の無血占領に成功しました。ところが、15日夜、天候が急変。江差沖に停泊したままの開陽丸は風浪に押されて座礁。その約10日後(数日後という史料もあり。)、榎本や、陸路を進軍し遅れて到着した土方らが見守る中、開陽丸は沈没してしまいました。

 その後、沈没直後から調査や遺物の回収は幾度かに渡って行われましたが、ごく一部を持ち帰ったのみで、いつしかそれも行われなくなっていたそうで。しかし、沈没から100年以上経った昭和49年(1974年)、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見。文化庁の協力の下引揚げ作業が本格的に行われることなになり、昭和59年までの間に遺品3万2905点が引揚げられました。また、開陽丸の船体および遺物は、昭和50年(1975年)に、日本初の海底遺跡として登録。平成2年(1990年)、江差町に史料館として開陽丸が復元されました。

実際に行ってみた

 何かわかったふうに前述の『開陽丸について』なんて書いたのですが、実は冒頭に書いたとおり、今回の旅行で実は全くノーマークだった上、現地に着いて「開陽丸って何?」なんて相方に聞く始末。そこで「幕末の幕府の軍艦で、榎本武揚や土方歳三と共に蝦夷に来た船。」と教えて貰い、ようやく「ああ!その船か!」と言いつつも何となくボヤ~っと思い出した次第でして…。

【えさし海の駅開陽丸の建物】
えさし海の駅開陽丸の建物
【えさし海の駅開陽丸横から見た復元された開陽丸など】
えさし海の駅開陽丸横から見た復元された開陽丸など
 とりうえずは駐車場にクルマを停め、えさし海の駅開陽丸と書かれた建物へ。とりあえず開陽丸(史料館)の入場券を券売機で購入後、中に入っていた土産物屋とか、飲食店とかは(申し訳ないけれど)スルーして建物の外へ。

【開陽丸のプロペラシャフトなど】
開陽丸のプロペラシャフトなど
【開陽丸の船体の一部】
開陽丸の船体の一部
 建物を出ると、これらの品々が展示してありました。

【復元された開陽丸】
復元された開陽丸
 そして、資料館となっている開陽丸の中へ。内部には、引き上げられた遺品の一部(といっても実際に見るとかなり大量)が展示されているほか、船の歴史や当時の船内の様子などの展示はかなり興味をそそられたというか。また、大砲を撃つ(音だけですが)体験、砲弾を持ち上げてその重さを体感できるなど、文字にしちゃうとアレなのですが、実際には結構楽しかったというか。

感想とかまとめとか

 というわけで、当日はほとんど予備知識もないままお伺いしてしまったのですが、かなり楽しめました。これは本当に、立ち寄って良かったなぁ。あと、歴史にIF言っても仕方ないのですが、この開陽丸がもし江差沖で座礁しなかったのなら、箱館戦争およびその後の歴史は、だいぶ違ったものになったという妄想が止まらなくなったというか。(でもあまりこのあたりの歴史に感情移入しすぎると、救いが無さすぎてどうしようもなくなるので程々に。)

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