たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

名胡桃城 【平成26年4月27日】

名胡桃城址之碑

 4月下旬に行った長野、新潟、群馬の城めぐりのラストは、先程訪れた沼田城から程近いところにある、名胡桃城。かの有名な秀吉の小田原征伐のきっかけとなったお城です。


名胡桃城について

 名胡桃城は、群馬県利根郡みなかみ町にある連郭式の山城。で、例によって、名胡桃城についてウィキペディアや群馬県のウェブサイトで調べたことをおぼえがきがてら以下に。

  • ウィキペディアによると、伝承によれば築城は室町時代の明応元年(1492年)とあるのですが、これは元々沼田氏の一族であった沼田景久の子、景冬が当地に館を築いて名胡桃氏と称したことを指しているのでしょうか?
  • その後、戦国時代が進むと、当地を含む沼田領は、当時関東の上野国など関東の覇権を争っていた上杉氏、後北条氏の争いの舞台となり、まずは後北条氏の支配となった後、永禄3年(1560)に上杉謙信が奪い、謙信死後の天正6年(1578年)に起きた御館の乱の最中、後北条が再び奪うと、沼田城の城代に猪俣邦憲らを置いた。
  • 名胡桃城が歴史の表舞台に出てくるのは、天正7年(1579年)、甲越同盟により上杉景勝より東上野を割譲された武田勝頼が、当時後北条氏の城であった沼田城を奪取する拠点とすべく、名胡桃氏の館跡に築城したのがはじまりか。
  • 武田氏滅亡後、天正10年(1582年)に起きた天正壬午の乱の最中、戦国大名となった真田氏(真田昌幸)はその地理的重要性から沼田領にこだわり、沼田城を支配し続けたが、名胡桃城はその支城として働き、沼田領に侵攻する後北条氏の軍勢を退けた。
  • 天正17年(1589年)、天下統一を進める豊臣秀吉の裁定により、沼田領及び沼田城は後北条氏のものとなったが、真田昌幸は名胡桃を「先祖の墓がある大切な土地」と少々アレな理由を付け「名胡桃は譲れん!」と言い張ったお陰か、真田領として残すことに成功。そして名胡桃城の城代に鈴木重則を置いた。
  • 同じく天正17年、後北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は、何を思ったのか(というか、誰の差し金か?)名胡桃城に謀略を仕掛けて家臣を寝返らせ、城代の鈴木重則を嘘の手紙で城からおびき出した隙に城を奪取。これを不覚とした重則は切腹する(一説には立ったまま切腹したとも。)という、いわゆる名胡桃城事件が発生。これを惣無事令違反として豊臣秀吉は後北条氏に対して宣戦を布告し、翌年の小田原征伐を経て天下統一へと繋がった。
  • 豊臣秀吉による天下統一後、沼田領は真田氏のものとなったが、天下が定まったため沼田城の支城としての役割を終えた名胡桃城は廃城となった。
  • 廃城後、郭の周囲を囲んでいた土塁は壊され、その後長らく郭は畑として利用されてきたが、大正13年(1924年)に名胡桃城保存会が地元有志によって設立され、本丸に石碑が建立されるなど整備された。
  • 昭和24年(1949年)、群馬県の史跡に指定される。
  • 平成4年(1992年)に始まった発掘調査によって、郭の周囲には高さ約2mの土塁があった事などがわかる。

 と、いわゆる名胡桃城事件に関しての話ばかりになってしまったのですが、元々沼田城を攻略するために真田昌幸が拠点として館跡を作り替えただけあって、沼田城を攻めるにしろ守るにしろ重要な位置にあったからこそ、そんな事件も起きたという感じもします。

実際に行ってみた

 実はこの名胡桃城。今年の3月に石垣山一夜城小田原城を訪れた際、こちらにも一度是非とも行ってみたいと思っていたお城でした。

【国道17号月夜野バイパスを行く】
国道17号月夜野バイパスを行く
 それで、前の記事で訪れた沼田城の後、だいぶ日も傾いてきた中、国道17号月夜野バイパスをちょとだけ北上。それで、「名胡桃城址前」という信号のある交差点のところが丁度駐車場の入口になっていました。また、駐車場と城跡の間には元レストランとおぼしき案内所があったのですが、丁度閉めてボランティアの方々?が帰られるところでした。

【般若郭】
般若郭
【郭のふちの段差】
郭のふちの段差
 それで駐車場になっているのか般若郭と呼ばれるところ。ここには、掘っ建て柱跡が20箇所確認されたそうで、名胡桃氏の館があったと推定されています。また、その周囲というかふちのところなどには、明らかに人の手による段差が付けられていますが、後世になって作られたものでしょうか?

【城跡の入口付近】
城跡の入口付近
【入口付近の案内図】
入口付近の案内図
 般若郭とその周囲の断崖だけでご飯一杯くらいは軽くイケルのですが、だいぶ日も傾いていることだしさっさと城跡へ。で、その前に入口付近にある案内板なのですが、これが写実的で解りやすかったです。

【馬出郭】
馬出郭
 月夜野バイパスに隣接してあるのが馬出郭。一段高くなっている部分もあるのですが、それがどういった意味かはわかりませんでした。あと、こちらには「丸馬出」との石碑が建っていたのですが、現状では四角っぽい形状。ということは、武田勝頼の命で築城された時は武田流築城術の特徴である丸馬出が築かれたが、後北条氏が奪取した際に角馬出に改修されたんですかね。(もっとも、その後畑として使われていた時にそうなったのかもしれませんが。)

【三の丸堀】
三の丸堀
【三の丸】
三の丸
 だいぶ浅くなってしまったかもしれませんが、郭と郭の間の堀はしっかりと残っていて、その間は土橋で結ばれています。で、その先の三の丸は菜の花畑になっているのですが、菜の花って、結構刺激の強い匂いがしません?

【二の丸堀と土橋】
二の丸堀と土橋
【二の丸堀】
二の丸堀
【二の丸】
二の丸
 当たり前っちゃ当たり前ですが、三の丸の先は二の丸。で、この二の丸の入口はかつて、土塁による食い違い虎口があったらしいです。

【本丸堀と土橋】
本丸堀と土橋
【本丸堀】
本丸堀
【本丸虎口跡】
本丸虎口跡
【本丸】
本丸
 更に進んで本丸へ。入口の案内板では本郭となっていました。それでさすがに本丸だけあって整備されてます。ですが、面積的にはかなり小さく感じ、そんなところからもここは一般的な城では無く、砦というか前線基地っぽい感じが伝わってきます。

【本丸から見た袖郭と土橋】
本丸から見た袖郭と土橋
【袖郭の土囲】
袖郭の土囲
【袖郭】
袖郭
【袖郭からの景色】
袖郭からの景色
【物見郭】
物見郭
 本丸の先には袖郭が。入口の案内板ではささ郭となっていましたが、笹の葉みたいに細長い形状だからなんですかね?それで、ここには低い土塁も残っていました。そしてその先には物見郭が有ったのですが、ここ二日間の旅の疲れが足腰に来ていたためその間の土橋を渡る自信が無く断念。もし事故でも起こしたら、現在わりと自由に見られるこの城跡が、そうでなくなってしまうかもしれないので。

感想とかまとめとか

 というわけで、名胡桃城だったのですが、急峻な地形を削って築いた連なる曲輪の形状がはっきりと残っているのが素晴らしかったというか。個人的には土の城が大好きなので、これには相当感動しました。正直、先程の沼田城ではモヤっとしてしまったのですが、これでスッキリ。本当に、立ち寄って良かったです。でも、こういう城跡って、一般的にはウケないんですよねぇ…。

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