たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

沼田城 【平成26年4月27日】

沼田城址の石碑

 4月下旬に行った長野、新潟、群馬の城めぐりもようやく佳境に入ってきたのですが、前の記事の春日山城の後、上杉謙信ばりに清水峠を抜けて(と言っても通ったのは関越自動車道関越トンネルですが。)上州に入り向かったのが、沼田城。昨日見た上田城や松代城同様、真田氏と深い繋がりがあるお城ですね。


沼田城について

 沼田城は、群馬県沼田市にある丘城(崖城)。で、例によってウィキペディアや沼田市のウェブサイトなどで調べたことを、個人的おぼえがきがてら以下なのですが、それがかなり長くなってしまった(それだけ沼田城を舞台にしたイベントが豊富なのですが…。)ので、そこら辺どうでも良い方は、鬼のようにスクロールしまくっていただければ。

  • 築城は天文元年(1532年)。当時の沼田氏当主である沼田顕泰(ぬまたあきやす)が、幕岩城に代わる新たな居城として築く。築城当時は蔵内城(倉内城)とも呼ばれた。ちなみに、沼田顕泰は万鬼斎(ばんきさい)顕泰という名もあったのですが、何それ、無茶苦茶格好良いんですけど。
  • 天文21年(1552年)、北条との、関東の覇権争いに敗れた関東管領の上杉憲政が、越後の長尾氏のところに逃げ込む(永禄元年(1558年)という説が有力らしい。)前、沼田城に滞在していたとの話も。で、永禄元年(1558年)頃、上杉側に付きたい沼田顕泰(当時隠居)と、後北条氏と繋がりのある当時の沼田氏当主で顕泰の子である沼田左衛門尉三郎(憲泰)の間でお家騒動が勃発。憲泰は殺害されるも結局顕泰は破れ、越後に逃亡。北条氏秀が沼田康元と称して城主になるも、永禄3年(1560年)、上杉謙信(当時は長尾景虎)が上杉憲政を奉じて関東へ侵攻した際、沼田城も攻略され顕泰も復権。しかし、当地を重要視した上杉氏は永禄5年(1562年)頃より当地の支配を強化すべく城代を送り込む。
  • 一方、他の史料(『加沢記』)によると、永禄9年(1566年)、沼田顕泰は当主、そして城主の座を三男である沼田弥七郎朝憲に譲り隠居城である天神城へ移ったが、永禄12年(1569年)にお家騒動が勃発。顕泰は溺愛していた側室の子である平八郎景義を後継にすべく弥七郎朝憲らを誅殺するも朝憲の遺臣らの反発を招き、結果的に顕泰と平八郎景義は破れて会津に逃亡。
  • と、これら2つは整合が取れなかったりするのですが、私も一次資料を当たったわけではないので、どれが正しいかとは…。ただしこれら色々あった後、結果的に沼田顕泰の庶子である平八郎景義が沼田を追われ、沼田城は上杉方の城に。ちなみに後北条氏は越相同盟によって一時だけ沼田の上杉氏領有を認めたものの、それ以外の期間はその領有を巡り、上杉氏と後北条氏で争っていたそうで。
  • 天正6年(1578年)、上杉謙信の急死による後継者争いである御館の乱の最中、上杉景虎を推す後北条氏の手に落ち、城代に猪俣邦憲らがなる。その後、御館の乱は上杉景勝の勝利に終わり、景勝と甲斐の武田勝頼との間に甲越同盟が成立。
  • 天正7年(1579年)、武田勝頼の命により真田昌幸が沼田領侵攻を開始。調略による切り崩しや近隣の名胡桃城などを手中にするも北条氏邦の出陣により一時撤退。しかし天正8年(1580年)、改めて沼田城を攻め、攻略。そして開城させ、武田方の城となった。
  • 天正9年(1581年)、かつての城主である沼田顕泰の庶子、沼田平八郎景義が沼田城奪回を計画。それを知った真田昌幸が策略を仕掛け、旧沼田家家臣で景義の伯父である金子美濃守が景義を沼田城に招き入れたところ、首を刎ねて殺害したとのこと。また同年、沼田城代海野能登守輝幸父子が謀反の疑いをかけられ、昌幸の弟である真田信尹により攻められ自刃。  
  • 天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって武田勝頼が討たれると真田昌幸は城を明け渡して、甲州征伐の功績によって上野国を与えられた滝川一益の重臣、滝川益重の居城に。ちなみに昌幸は織田の家臣となり一益の与力武将となった。しかし、同年に起きた本能寺の変により信長が横死。それを知った元城代で現在は一益の家臣となっていた藤田信吉が上杉景勝に通じて反乱を起こし、水曲輪の一つを奪取するも、益重は一益の援軍を得てこれを撃退した。
  • しかし同年(天正10年)、信長の死に乗じて後北条氏が上野国へ侵攻。その際、神流川の戦いにおいて滝川一益は敗れ、家臣共々本拠の伊勢長島に帰還。真田昌幸は後北条氏に帰属を決めると同時期に沼田城を奪回した。その後、昌幸は天正壬午の乱のなか、この時に争った後北条氏、徳川氏、上杉氏の間を立ち回り、最終的には沼田の領有が決め手となって上杉氏に付いたため、沼田城は真田昌幸の所有となった。
  • 天正17年(1589年)、天下統一を進める豊臣秀吉の裁定により、沼田領及び沼田城は後北条氏の所有となり、猪俣邦憲が城代となった。また同年、真田昌幸の長男である真田信幸のもとに、徳川家康の重臣である本多忠勝の娘小松姫が、家康の養女として嫁いだ。
  • 天正18年(1590年)、沼田城代である猪俣邦憲が、前年の豊臣秀吉の裁定によって真田氏の所有となった名胡桃城を奪取。これを惣無事令違反として秀吉は小田原征伐を行い、戦国大名としての後北条氏が滅亡。戦後、沼田領及び沼田城は真田昌幸の長男、真田信幸が支配することとなった。そして同年、信幸は領内の検地を実施。
  • 慶長2年(1597年)、真田信幸は間口10間奥行9間、五層の天守を造営。で、天守造営については慶長12年(1607年)説もあるのですが、関ヶ原の戦い(慶長5年)の前後だと、その意味合いがかなり違ってくると個人的には思うのですが。
  • 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで真田信幸は東軍に、信幸の父である真田昌幸と弟の信繁(幸村)は西軍に付くことに。その際、昌幸が上田城へと引き上げる途中で沼田城に立ち寄り、「孫の顔が見たい」というのを口実に城の開門を迫る(更には、沼田城を奪う算段であったとも。)も、留守を預かる小松姫は頑として開門を拒み、昌幸もその態度に感心しつつ諦めたとのエピソードがあるそうで。そしてご存じのとおり、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終了。
  • 関ヶ原の戦いの後、真田信幸は戦前からの旧領に加え、徳川家康から父昌幸の所有していた上田領と合わせて9万5千石(うち沼田領3万石)の大名となると同時に上田藩の初代藩主となったが、上田城は徳川の命により破却されていたためか沼田城を本拠とした。また自らの名前を、信幸から信之に改めた。
  • 真田信之は、慶長7年(1602年)に二の丸と三の丸を、慶長9年(1604年)に城西側の水手門と三階櫓を普請。また慶長19年(1614年)には、これまでの冶町、本町、材木町に加え、新たに荒町、鷹匠町、小人町を割立て、城下町の整備に努めた。
  • 元和2年(1616年)、真田信之は上田に移り、沼田領及び城は、信之の長男である真田信吉に継がれることに。(ただし、あくまで上田藩の一部という扱い。)その後、元和8年(1622年)に信之は松代藩に国替となったが、沼田領は分地され、引き続き信吉が城主を務めた。しかしその信吉。寛永11年(1634年)には真田家と領内の安泰を祈り城鐘を普請するものの、同年に逝去。
  • 寛永12年(1635年)、真田信吉の子である真田熊之助が4歳で城主となるも、 寛永12年(1635年)に7歳で夭逝。替わって翌年、熊之助の叔父(真田信之の次男)である、真田信政が城主に。それでその信政は、寛永20年(1643年)に領内の検地を行ったり、 正保3年(1646年)頃に馬喰町、栄町、原新町を割立て、承応元年(1652年)には用水等を開削するなど領内の開発に努めた。
  • 明暦2年(1656年)、真田信之は隠居し、松代藩主を真田信政に譲った。またそれにより、沼田城主はかつて城主であった真田信吉の子である真田信利がなった。ちなみにこの頃、明暦の大火によって江戸城天守が焼失し、関東で5層の天守は沼田城のみとなった。
  • 万治元年(1568年)、松代藩主真田信政の逝去に伴って後継者争いが勃発。その結果、松代藩主には信政の子である真田幸道が就くこととなり、沼田領は沼田藩として独立。沼田城はその藩庁となり、真田信利が引き続き城主を務めると同時に初代藩主となった。
  • 寛文4年(1664年)、真田信利は城の天守修復、本丸の盛土を行う。また同時期に、用水等を完成させた。しかし、その後実施した総検地で表高3万石(貫高制)だったものを14万6千石(石高制)としてしまった為(一説によると、松代藩を継いだ真田幸道や真田宗家への対抗心がそうさせたとも。)、貫高制から石高制になったとはいえ領民は重税に苦しめられることになった。そして延宝8年(1680年)、信直は幕命により江戸両国橋の架け直しの為の用材を沼田藩から差し出すことを請け負ったが、前述の理由によって領民の協力が得られず、翌年の天和元年(1681年)、用材伐りだし遅延と失政を幕府に咎められ信利は改易、沼田藩も廃藩となり天領となった。更に翌年の天和2年(1682年)、沼田城は全て破却。その際、堀も埋められてしまった。
  • 元禄16年(1703年)、本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興。以降、正武、正矩と3代にわたって城主を務めるも、享保15年(1730年)、田中藩へ国替となる。次に黒田直邦が入封するも、跡を継いだ直純が、寛保2年(1742年)に沼田から久留里藩へ国替に。そして土岐頼稔が入封し、以後明治維新まで12代にわたって城主を務めた。で、これらの間、三の丸に藩邸が普請されたものの、天守など城の本格的復興はなされなかった。
  • 明治維新後、沼田城も2度目の廃城となるが、大正5年(1916年)、旧沼田藩士の子である久米民之助が城地の荒廃を惜しんで私財を投じて購入し、公園として整備。大正15年(1926年)に沼田市へ寄贈され、現在は沼田公園となり、その一部は沼田市指定史跡となっている。

 と、誠に長くなってしまったのですが、それだけ当地に地理的重要性があったということでしょうか。特に真田昌幸は沼田にこだわっていたようで、自らの切り札とすべく常に手中に収めようとしていた様が良く判ります。

実際に行ってみた

 前述のとおり、歴史上様々なエピソードの舞台となった沼田城。今回(といっても行ってきたのはだいぶ前だし、記事あげたのもちょっと前になってしまいましたが…。)、上田城や松代城など真田氏に関係するお城を巡ってきたこともあって、帰るついでにちょっと寄ってみようかということになりました。それで、関越自動車道を(カーナビ代わりのスマホアプリの指示で)月夜野ICで降り、いざ。

【沼田城へと向かう途中】
沼田城へと向かう途中
 今回は沼田ICからではなく月夜野ICから来たので利根川の高さから登っていく感じで向かうのですが、お城が崖の上にあるのが実感できますね。

【沼田城到着】
沼田城到着
 本日は沼田公園で何かイベントが開催されているようで、到着したのは午後3時過ぎだったのですが、駐車場に停めるのもやっとという状態でした。(停められただけラッキーか。)

【沼田公園の案内図】
沼田公園の案内図
 それで、今回は沼田城についてほとんど予習をしていかなかったので、案内図で遺構の見当を付けてから見て回ろうとしたのですが、残念ながら案内図は公園のもので、遺構の位置は…。なのでここから時計回りに敷地内を探索していくことに。

【本丸?】
本丸?
 城跡は公園となっているので、こんなふうに花木が植えられているところも。ちなみに、この辺りが本丸ですかね。

【鐘楼】
鐘楼
 寛永11年(1634年)に領内の安泰を祈願して真田信吉に鋳造された城鐘を保護しようと、明治20年(1887年)年に旧沼田町役場敷地内に建てられたのが鐘楼。昭和39年(1964年)に市庁舎改築のため取り壊されましたが、昭和58年(1983年)に沼田公園内に復元されたそう。ちなみに城鐘は、群馬県の重要文化財となっています。

【西櫓台の石垣と石段その1】
西櫓台の石垣と石段その1
【西櫓台の石垣と石段その2】
西櫓台の石垣と石段その2
【西櫓台の石垣と石段その3】
西櫓台の石垣と石段その3
 前述のとおり、沼田城は17世紀に破却されているのですが、その際、壊されずに地中に埋められた部分が発掘調査で見つかったこちらとのこと。

【平八石】
平八石
 かつての城主である沼田顕泰の庶子、沼田平八郎景義が沼田城奪回を企てたものの、真田昌幸が誅殺した際に、平八郎景義の首実検をした後でその首を置いたと伝わるのがこの平八石。ちなみに現地の説明板では、誅殺の実行犯である金子美濃守がかなりdisられてます。

【天守跡】
天守跡
 かつて五層の天守があった跡は、土盛りされて築山みたくなっていました。っていうか、ここに限らず、園内にはこのように微妙な感じで盛り土してある箇所が至る所にあり、遺構の存在をより一層判りづらくしているというか。

【本丸堀跡】
本丸堀跡
【本丸堀跡の石垣】
本丸堀跡の石垣
 僅かに残る堀と石垣。水面にはびっちりと桜の花びらが浮かんでいました。

【野球場】
野球場
【野球場を取り囲む土塁?】
野球場を取り囲む土塁?
【テニスコート】
テニスコート
 これらはかつての二の丸跡らしいのですが、中でも野球場は、周りを土塁のようなもので囲まれていました。ですがそれが当時のものかは判らず。

感想とかまとめとか

 というわけで沼田城だったのですが、現在の沼田公園には、かつて様々な歴史上の出来事の舞台となった城の面影はほんのわずかに残っている程度(もっともそれは、17世紀に徹底的に破却された影響が大きいとは思いますが。)で、色々な意味でとても難易度が高いお城という印象を受けました。しかも、今回はマトモに予習をしていかなかったせいもあって、広い公園内を、城の遺構を探してあっちふらふらこっちふらふらしたあげく、いくつかの遺構を完全に見逃すという、とても労多くて益少ない探訪となってしまったのは勿体なかったです。(なので、いつかリベンジしようとは思うのですが…。)

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