たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

松代藩文武学校ほか 【平成26年4月26日】

史跡 旧文武学校の石碑

 4月下旬に行った長野、新潟、群馬の城めぐりをしてきた時の話が続いている当ブログですが、上田城を後にして旅の初日の最後に向かったのが、先の上田城同様、真田氏にゆかりのある松代城。で、その松代城をじっくりと見る前に、松代城の周りにある、松代藩文武学校ほか歴史的建築物を見て回りました。


松代藩文武学校について

 松代藩文武学校(以下、文武学校)は、江戸時代後期である安政2年(1855年)に開校した信濃国松代藩の藩校。で、その文武学校について、ウィキペディアや長野市のウェブサイトなどで調べたことを以下に。

  • 松代藩の(藩としての)藩士教育は、第6代藩主真田幸弘が治める宝暦8年(1758年)、江戸から儒者である菊池南陽を招いたことに始まるとのこと。そのだいぶ後の天保7年(1836年)、当藩出身で後に幕末の志士たちにに多大な影響を与えることになる佐久間象山が、藩命により御城附月並講釈助となり、同年12月には教授となったとのこと。
  • 天保8年(1838年)、当時の学問所であった清須町喰違御用屋敷が手狭なため、8代藩主真田幸貫が、新たな学問所の普請を計画。その後、天保12年(1841年)に(仮)開校した水戸藩の藩校である弘道館の諸々を藤田東湖から訊くなどして、建設を決意、そして着手。
  • しかし幸貫は、嘉永5年(1852年)に病没。第9代藩主である真田幸教がその遺志を受け継ぎ、安政元年(1854年)に建物の普請が終わるも、前年、松代城の御殿のあった花の丸が焼失したため、完成したばかりの建物は急遽役所として使用されることに。
  • 安政2年(1855年)、花の丸の御殿の再建に伴い、ようやく開校。
  • 明治元年(1868年)、 第10代藩主である真田幸民のとき、文武学校が手狭だったので藩主真田家の菩提寺である長国寺に兵制士官学校を設ける。その後、明治5年(1872年)に長国寺が火災に見舞われたときに、槍術所の建物を庫裡として移築。
  • 明治2年(1869年)、文武学校から藩学校に改称。その後明治6年(1873年)、藩学校だったところに第54番小学松代学校が設置され、以降、尋常小学校を経て、昭和40年代まで松代小学校として使用。
  • 昭和28年(1953年)には、国の史跡に指定。松代小学校が近隣地に移転後?の昭和48年(1973年)からは復元工事が行われ、昭和53年(1978年)に完成し、一般公開が開始。その後、平成8年(1996年)に長国寺から槍術所が元の位置に移築。また平成25年(2013年)7月から平成27年3月までの予定で、地震や豪雨による被害が確認される建物の保存修理が実施されている。

実際に行ってみた

 文武学校については当初、全く予定していなかったというか、松代城だけ見て終わりにしようと思っていたのですが、松代城の周りにはこちらのような歴史的建築物がいくつかあるということで、せっかくだから文武学校を含むそれらを見て回ることに。で、見て回った順番とは前後するのですが、とりあえず文武学校から。

【表門付近】
表門付近
【表門と番所】
表門と番所
 文武学校は、松代城から少しばかり南に下ったところにあります。で、こちらが、正面玄関である表門。それで表門を入ったところで、こちらとこの後見る予定の真田宝物館、そして真田邸がセットになった入場券(大人400円)を購入して入場しました。それと、門の奥のシートが掛かっている建物が、これがお伺いしたときに丁度修復中だった文学所で、残念ながら今回は見ることが出来ませんでした。

【文武学校の全体図】
文武学校の全体図
 校内の案内看板に書かれた案内図。

【腰掛】
腰掛
 入って左手のところにあるのが、腰掛と呼ばれる建物。こちらで学ばれるやんごとなきお方をお迎えに来たお付きの方が、待っていたところですかね。

【柔術所】
柔術所
 腰掛の左手にあるのが柔術所。中で何かやっていたっぽかったので外観のみ。

【剣術所】剣術所

 腰掛に相対するのが剣術所。こちらも中で何かやっていたっぽかったので外観のみ。それにしても、武道一つにつき建物が一つあるって、現代の感覚からしたらすごいのですが、当時はさらに流派ごとに教えられていたとのことです。

【西序】
西序
 腰掛の奥にあるのが、医学を教えていた西序。こちらでは漢方中心の東洋医学の他、西洋医学も教えられていたそうで。

【東序】東序

 西序に相対するのが、軍学を教えていた東序。また、軍学の中には西洋砲術も含まれていたようなのですが、どこで演習していたんですかね。(まさかこの中では…。)こちらも中で何かやっていたっぽかったというか、中からはお姉様方の話し声が聞こえてきました。

【文学所の工事の様子】
文学所の工事の様子
 前述のとおり、文学所は工事中だったのですが、その現場はこんな感じに。で、こちらでは、漢学を中心とした授業が行われていたのですが、当時としては珍しく儒学は教ておらず、従って範とした弘道館にあった孔子廟も、こちらの敷地内にはありません。

【弓術所】
弓術所
【射垜】
射垜
 表門から入って文学所の正面を左に折れた所の左手方向しというか、西序の裏側が弓術所。で、こちにの文武学校で感心したのが、こちらにある色々な武道場って、今でも大会なんかが開かれている現役の施設ということ。こちらの弓術所も弓道場として使用されているようでした。

【槍術所】
槍術所
【屋根裏の梁など】
屋根裏の梁など
 弓術所に相対するというか、文学所の並びが槍術所。こちらは、縁側?から内部が良く見えたのですが、目を惹いたのが屋根を支える梁。小屋造りと呼ばれるそうなのですが、なかなかテクニカルで見事というか。

【裏門と厠】
裏門と厠
 弓術所と槍術所の間を進むと裏門に突き当たるのですかが、その隣にあるのがこちらの厠。で、建物の裏側は裏門から続く塀と一体になっているのですが、汚物を汲み取るのはその塀の外側からという造りになっているのに関心しました。ちなみに厠は、さすがに今は使用されていないようで。

文武学校周辺の歴史的建築物

 その他、今回見て回った建物はこちら。

【旧白井家表門】
旧白井家表門
 こちらは、文武学校の目の前にある建物で、長野市の指定文化財。弘化3年(1846年)に建てられた松代藩中級武士宅の表門を平成12年に移築した物だそうで。で、中級武士なのに間口20m余り、そして門の続きに居室があるということは、松代藩の「中級」って、どんだけ立派だったんでしょうか。

【旧樋口家住宅】
旧樋口家住宅
【主屋】
主屋
 こちらは、禄高230石の上級武士のお宅で、主屋、長屋、土蔵が長野市の指定文化財になっています。で、主屋は文久2年(1862年)に修繕されたことが判っているので、建築自体はそれ以前らしいです。元々は広い敷地を持つお屋敷ということで、その面影が残っているというか。

【真田邸表門付近】
真田邸表門付近
【表門を入ったところ】
表門を入ったところ
【縁側?からの眺め】
縁側?からの眺め
 こちらは、新御殿とも呼ばれた真田邸。昭和56年に松代城と合わせて国史跡に指定されています。で、元々は元治元年(1864年)に松代藩9代藩主の真田幸教によって義母の居宅として建てられましたが、その後隠居した幸教の居宅となり、明治以降は真田家の私邸として使われたとのこと。それでこの中には35もの主要な部屋があるのですが、来客の出入りする「表」の部分と、生活の場である私的な「裏」の部分に分けられ、去られ用途などによって唐紙や装飾に違いがあるそうです。

【真田宝物館】
真田宝物館
 最後は、歴史的建築物ではうりませんが、真田家に伝わる数々の史料が展示されている、真田宝物館。これは文句なく、かなりの見応えがあったというか。 

感想とかまとめとか

 というわけで、色々と見て回ったのですが、まず、文武学校は当時の藩校がほぼ当時のままで残るというか、その当時の様子がわかる大変貴重なものでしたね。で、何より、今でもちゃんと使われているところが素晴らしく感じたというか。それと真田邸は、さながら迷路のようでした。ですが、一見「表」と「裏」が入り組んでいるように見えて、実はちゃんと分けられるようになっているというあたりが堪能できてくるとと、見て回るのが面白くなってきましたね。他にも中々に貴重な建物やそれが残る町並みも良い雰囲気だし、宝物館では真田家伝来の史料も凄かったし。そんなわけで、これらをちゃんと残してくれた当地の方々に、本当に感謝ですね。

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