たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 35/100城目 松代城 【平成26年4月26日】

国史跡 松代城跡石碑附新御殿跡 の石碑

 4月下旬に行った長野、新潟、群馬の城めぐりをしてきた時の話が続いている当ブログですが、上田城を後にして旅の初日の最後に向かったのが、先の上田城同様、真田氏にゆかりのある松代城です。


松代城について

 松代城は、長野県長野市にある輪郭式の平城。で、その松代城について、ウィキペディアや長野市のウェブサイトなどで調べたことを個人的おぼえがきがてらに少々。(このあたりどうでも良いと思われる方は、マウスのホイール、ガンガン回しちゃってください。)

  • 正確な築城時期は不明だが、戦国時代、武田信玄が川中島の戦いの際の拠点として築いたとのこと。ちなみに『甲陽軍鑑』によると、永禄2年(1560年)、武田信玄の命によって山本勘助が築城を開始し、翌年には完成したことに。
  • 背後の千曲川を自然の堀として利用。また、武田氏による築城ということで、曲輪の形状や配置、そして三日月堀や丸馬出など甲州流築城術による特徴が多く見られる。
  • 築城当時は海津城と呼ばれたそう。また、貝津城とも、茅(かや)の生い茂ったところにあったので茅津城とも呼ばれたとのこと。
  • 織田氏の甲州征伐による武田氏滅亡後は、織田家家臣の森長可の居城になったが、本能寺の変の後、長可は撤退。その後、信濃へ侵攻した上杉氏が支配したが、会津への国替後は豊臣氏の蔵入地になり、田丸直昌という人が城主に。
  • ちなみに田丸直昌という人。元々は伊勢国司北畠家の庶流で、織田信長の伊勢侵攻後、あの織田信雄に仕えたが、信雄と豊臣秀吉が対立すると秀吉に付き、蒲生氏郷の姉婿だったので蒲生氏の与力武将に。で、氏郷の死後、氏郷の子、秀幸が宇都宮に国替になると、直正は海津城代に任ぜられたそう。また、城代になった後は色々あって関ヶ原では西軍に付き、助命されるも田丸家は取り潰しに。その後は出家したそうですが、その嫡子は赦され蒲生氏に仕えた後、旗本になったとのことで。
  • 慶長5年(1600年)2月、かつての城主、森長可の弟である森忠政が城主に。(かねてから希望していたそう。)その際、海津城から待城(入場するのを心待ちにしていたからだそう。)へと改名。関ヶ原の戦いの後も、慶長8年(1603年)に美作国津山藩に国替になるまで城主を務める。
  • 慶長8年(1603年)からは、徳川家康の六男である松平忠輝が城主になり、待城から松城に改名。忠照はその後、高田藩主となったが統治も引き続き支配し、城代が置かれることに。しかし、色々あって、元和2年(1616年)に忠輝は改易、そして伊勢国朝熊に流罪に。(某TVドラマの千葉ちゃん演じた忠輝が吉原に隠れ住むのはこの後か?)
  • 元和2年(1616年)からは、結城秀康(徳川家康の次男)の子である松平忠昌が城主となるが、元和5年(1619年)に越後国高田藩へ国替に。代わって譜代の酒井忠勝が城主となるが、元和8年(1622年)に出羽国庄内藩へ国替に。
  • 松代城とは直接関係ないが、松代藩が何時成立したかが、個人的にはちょっと謎。松平忠正や酒井忠勝を松代藩主とする資料もあるけど、その次に城主となった方を藩祖とした方が良いのだろうか。
  • 元和8年(1622年)、真田昌幸の子であり真田信繁(幸村)の兄である真田信之が、上田藩から松代藩に国替となって城主に。以降明治維新まで、松代藩の藩庁として、藩主真田氏が城主を務める。
  • 真田になって3代目の藩主、幸道の頃である1711年(正徳元年)、幕命により松代城に改名。ちなみにそれよりちょっと遡って万治元年(1658年)。幸道が(2歳!で)藩主になるにあたって、お家騒動が勃発。その際、齢90を超えていた信之が、隠居から一時的に復帰。(もっとも、その数ヶ月後に逝去されたようですが。)
  • 近世城郭になって以降の松代城は、3箇所の櫓門に囲まれた本丸に、4基の二重櫓のほか政務・生活の場である御殿があり、その御殿も何度か建て替えられたようで。しかしその後、明和7年(1770年)にそれまでは花木が植えられ茶室が配されるなどしていた(藩主の遊園地らしい)花の丸に御殿が建てられ、それ以降こちらが政務・生活の場に。また幕末の元治元年(1864年)には、城外に新御殿(後の真田邸)が建てられた。
  • 前述のとおり千曲川を自然の堀として築城されたが、その氾濫による水害に度々見舞われ、特に寛保2年(1742年)、 「戌の満水」と呼ばれる水害により被害を受けた時は、時の城主真田信安が船で避難したとのこと。で、これを教訓として信安は千曲川の流れを変える「瀬替え」を行い、旧流路は百間堀として残し、その後新たにその東に接するように新堀を普請。
  • 火災にも度々見舞われ、寛永2年(1625年)に二の丸を焼失。そして享保2年(1717年)の火災では本丸・二の丸・三の丸を焼失(お城全焼らしい)してしまいました。(なので、これ以前の史料があまりないそうで。)また、幕末の嘉永6年には当時御殿のあった花の丸を焼失し、復興までは丁度建てたばかで開港していなかった藩校をその替わりに使用。
  • 地震にも見舞われ、宝暦元年(1751年)の高田地震の際にはその9年前に見舞われた戌の満水と合わせて藩の財政が逼迫する原因となった。また弘化4年(1847年)の善光寺地震の際には櫓などの建築物や石垣の一部が損壊したほか千曲川の支流である犀川に長大な(40km超える)せき止め湖が出現。その決壊時の被害を防ぐべく、時の藩主真田幸貫が家臣の反対を押し切り城に残って土木工事の陣頭指揮を執ったそう。
  • そんな松代城だが、明治維新を迎え明治5年(1872年)に廃城となり、例によって城内の土地や建物は払い下げられ、跡地は桑畑として開墾。また御殿のあった花の丸は、明治6年(1873年)に放火より焼失するという憂き目に。(廃城にまつわる悲話は数有れど、ここはかなり酷い仕打ちだ…。)
  • 明治37年(1904年)に時の真田家当主真田幸正が藩士に分け与えられていた土地を買い取り、本丸跡地を遊園地として解放。その後、昭和26年(1951年)に幸正の次の当主である幸治により本丸が寄付され、公用地に。
  • 昭和39年(1964年)年、本丸付近が県史跡に指定されたあと、昭和56年(1981年)には、本丸付近に加えて新御殿共に国史跡に指定。当時、城の遺構は本丸石垣や新堀、土塁の一部が残るのみだったが、発掘調査や残された史料に基づき平成7年から復元整備工事を実施。享保2年(1717年)の火災から幕末にかけての姿をベースとして、本丸大手の太鼓門と橋、北側の不明門などが復元された。

 と、調べるとかなり長くなってしまった松代城。これの前に立ち寄った上田城もそうだったのですが、「こういう史料がたくさん残っているのが、日本100名城なんだなぁ。」とどうでも良い感想が思い浮かぶというか。

実際に行ってみた

 上田城からラーメン屋さん経由で上田菅平ICから上信越自動車道にライドオン。そのまま北進して長野ICで降り、一般道をちょっと走ってお城へ向かいました。

【松代城北駐車場】
松代城北駐車場
【駐車場の案内看板】
駐車場の案内看板
 それで、今回は少々アテにならなかったカーナビ代わりのスマホアプリに導かれるうち、お城のちょっと北側にある駐車場のあたりに何となく到着。他の駐車場を探すのも面倒だったので、ここからお城へと向かうことにしました。そんな訳で、案内看板に沿って歩いてお城へと向かうのですが、北側から向かうと田畑の中に城跡があるような印象です。

【松代城北側入口】
松代城北側入口
【新堀】
新堀
 こちらが、北側入口の様子。左手の新堀は水をたたえていますが、右手の百間堀もちゃんとその跡が判るようになっていました。

【本丸北側への入口】
本丸北側への入口
【入口付近の土塁】
入口付近の土塁
【本丸北側の様子(花の丸方向を望む)】
本丸北側の様子(花の丸方向を望む)
 そこから土橋?を渡ると現存する城跡内へ。このあたりは低い土塁に取り囲まれていますね。それにしてもこの辺りって、本丸になるのか花の丸になるのか、それとも何か別の名前が付いた曲輪だったのか。

 と、このまま松代城跡を堪能しても良かったのですが、まだ元気なうち(この日は、既にこれまで小諸城や上田城などを見て回ってきていたので、身体的なダメージがわりと蓄積されていた。)に松代城周辺の歴史的建築物や真田宝物館を見た方が良いと思い、とりあえず本丸には入らず、反時計回りにぐるっと迂回して一度二の丸南門から城跡の外へ出て、それらの施設を見て回りました

【二の丸南門】
二の丸南門
【二の丸南門付近にあった再現図】
二の丸南門付近にあった再現図
【二の丸南門の土塁】
二の丸南門の土塁
 色々見て回る打ちにその見応えに思いの外疲れてしまったのですが、再び松代城へ。お城の北側から来た時は、田畑の中の城跡という印象だったのが、こちら側からだと街中の城跡という印象に変わりました。で、先程の北側入口のところにもあったのですが、幕末の松代城に基づいた再現図があるのですが、それに依れば、二の丸南門を出ると丸馬出、そして三日月堀があったのですね。また、この辺りには土塁が復元?されてしました。

【管理棟】
管理棟
 ここで目の前にある橋を渡って本丸へ入りたいという欲望を抑えつつ、まずは日本100名城スタンプラリーのスタンプをゲット。この無人の管理棟、わりとオープンなところに置かれていました。

【内堀と太鼓門】
内堀と太鼓門
【正面から見た太鼓門】
正面から見た太鼓門
【太鼓門の中門(櫓門)】
太鼓門の中門(櫓門)
 その後、満を持してとうとう本丸へGO!。ちなみにこの内堀は発掘調査に基づいて復元されたものですが、この堀があるだけで、お城の魅力が確実にアップしてますね。また、本丸の正門に当たる太鼓門(と続き塀)も復元ですが、当時の様子が伝わってくる良い感じの復元というか。

【本丸の内部】
本丸の内部
【本丸北西隅の櫓台】
本丸北西隅の櫓台
【本丸内にあった海津城趾之碑】
本丸内にあった海津城趾之碑
 太鼓門から入った本丸内は、思ったよりコンパクトな印象。当初こちらにあった御殿を花の丸に移したのって、こちらが手狭になったからですかね?

【北不明門中門】
北不明門中門
【北不明門】
北不明門
 本丸内部を堪能した後は、北門から外へ。こちらの門の復元も、良い感じですね。

【本丸北東の櫓台】
本丸北東の櫓台
【内堀と東不明門】
内堀と東不明門
【二の丸】
二の丸
【東不明門】
東不明門
 北不明門を出た跡は、まだ見ていなかった本丸東側の二ノ丸をぐるっと。ちなみに現在はだだっ広い広場になっている二の丸ですが、元々は御殿があり、それが宝暦年間に土蔵が立ち並ぶようになったそうで。

【二の丸東側の外堀跡】
二の丸東側の外堀跡
 で、三たび二の丸南門付近に戻ったのですが、今度は二の丸東側の外堀跡へ。って、じつはこの辺りに廃止となった長野電鉄屋代線の松代駅が有り、その遺構が見たかったからでして。

【北理門】
北理門
【北理門付近の百間堀跡】
北理門付近の百間堀跡
 それを堪能した後、四たび二の丸南門付近に戻り、また城内を通って北側の理門から松代城を後にしました。

感想とかまとめとか

 というわけで、松代城だったのですが、個人的に川辺の平城はほぼ初めてだったこともあって、そのちょっと独特な雰囲気が面白かったです。で、その雰囲気を味わえたのも、松代城自体も復元の仕方がとても好ましいことも多分に影響しているのではないでしょうか。(これがほとんど遺構が残っていなかった城跡だったとは、正直思えないというか。)まわりの歴史的建築物や真田宝物館を含めてかなりの見応えもありましたし、なんていうか、良いところでした。

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