たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

探訪!日本100名城』 64/100城目 高岡城 【平成28年4月29日】

県定 高岡古城公園 の石碑

 自宅から途中で朝食を挟みつつ向かった、今回の北陸旅行における最初の目的地は、富山県高岡市にある、日本100名城のひとつとなっているこちらのお城です。


高岡城について

 高岡城は、富山県高岡市にある梯郭式の平城で、国の史跡に指定されています。 それでまず初めに、お城についてさわりだけ。

 その築城は、慶長14年(1609年)。加賀藩の初代藩主である前田利長の隠居城として造られました。

 元々富山城に隠居していた利長ですが、火災により大部分を消失してしまい一時的に魚津城に移ることに。その時に将軍徳川秀忠と健在であった大御所徳川家康に築城の許可をもらって、当時、関野と呼ばれていた地に新たな隠居城を作ることになったのがその始まりだそうで。

 ちなみに、その縄張りを担当したと言われていたのが、色々あって当時加賀藩に身を寄せていた(元)キリシタン大名の高山右近。ただ、後年の研究によって、右近が縄張りを行ったとされる他の城との類似性や、築城や城下町の整備に関して利長が直接指示した多数の文書が残されていたことによって、利長自らが縄張りを行ったとされる説もあるようで。

 それで利長は、築城開始から5カ月程で、まだ城が完成してない状態だったのですが入城。また当地の名前を、関野から高岡と名を改めました。で、その後も引き続き築城や城下町の整備などを行っていたのですが、慶長19年(1614年)に病のため逝去。隠居城としての高岡城は役目を終え、その翌年の元和元年(1915年)、廃城となりました。(ただし、廃城時期については寬英15年(1638年)とする説もあるそうで。)

 ですが廃城になったものの、加賀藩の二代目藩主である前田利常は、堀をそのままにするなど、密かに高岡城の(軍事拠点としての)機能を維持。(ちなみに米蔵などは幕末まで置かれていたとのこと。)更には人々の転出を規制して商業都市への転換を図るという政策によって、廃城後に寂れるどころか商都としての高岡の発展に大いに寄与したそうで。

 そんな高岡城ですが、明治3年(1870年)、金沢藩は城跡を民間に払い下げることを決定。落札者なども決まっていたのですが、長年高岡町民の誇りであった城跡が失われてはならないと、服部嘉十郎ら地元有志らが公園指定の請願書を県に提出。その結果、明治8年(1875年)、城跡は「高岡公園」として残りました。

実際に行ってみた

【北陸道小杉IC】
北陸道小杉IC
【古城公園前交差点】
古城公園前交差点
 その高岡城に今回お伺いすることになったのですが、自宅最寄りのICから東北道に乗り、北関東道、信越道を経由し、北陸道へ。その小杉ICで高速を降り、そこから20分弱で高岡城のある高岡古城公園付近へと。

【大手口からクルマで進入】
大手口からクルマで進入
 それでまず、日本100名城スタンプラリーのスタンプを貰うべく、公園内のというか城内の高岡市立博物館へと行きたいのですが、そこまではクルマで入れるようですね。で、公園西側にある大手口から入るのですが、そこにあった高山右近像の写真を撮り忘れてしまったという。

【高岡市立博物館】
高岡市立博物館
 こちらが、その高岡市立博物館で、鍛冶丸という曲輪に建っています。ちなみに、写真左手の古い建物は、昭和26年(1951年)に開催された『高岡大博覧会』の時のものらしいです。で、ここが結構見応えがあったというか、展示物を一通り見て回っているうちに1時間ほど経っていました。

【小竹藪駐車場入り口】
小竹藪駐車場入り口
 高岡市立博物館を辞した後は、大手口から一度出たのち、公園を半周して東側にある小竹藪駐車場へ。ここから改めて、時計回りに城跡を見て回ります。

【小竹藪広場】
小竹藪広場
 小竹藪駐車場から場内に入ったところにあるのが、小竹藪広場。高岡古城模式図では「御城外」と書かれているところです。

【朝陽橋】
朝陽橋
【朝陽橋から見た内堀(北内濠)】
朝陽橋から見た内堀(北内濠)
【朝陽橋から見た内濠】
朝陽橋から見た内濠
 小竹藪広場の隣には梅林があり、そこと本丸の間は水濠(内堀)で隔てられているのですが、朱塗りの朝陽橋という橋が架けられています。で、この橋の北西側の内堀は北内堀となっている案内図もあるのですが、南東側はただの内堀なっていたりして。ちなみにこちらの高岡城。築城当時の濠がほぼそっくり残っていて(ちなみに、高岡古城公園の面積約22万平方メートルのうち三分の一を占めるそうです。)、それがお城の見所のひとつになっています。

【三の丸にある市民体育館など】
三の丸にある市民体育館など
【三の丸に静態保存されたSL】
三の丸に静態保存されたSL
 三の丸には市民体育館などが。で、このあたりで通り雨に降られ、SLのところで雨宿りさせてもらいました。

【三の丸と明丸の間の枡形濠(塵不溜)】
三の丸と明丸の間の枡形濠(塵不溜)
【明丸にある高岡古城公園動物園】
明丸にある高岡古城公園動物園
 三の丸の隣は明丸という郭があるのですが、その周りを取り囲むようにあるのが塵不溜(ちりたまらず)とも書かれた枡形濠という濠。また明丸は、高岡古城公園動物園となっています。(動物園については明日公開予定の別記事にて)

【明丸と鍛冶丸の間の枡形濠】
明丸と鍛冶丸の間の枡形濠
 明丸の隣は、最初に訪れた市立博物館がある鍛冶丸で、その間にも立派な水壕が。 

【二の丸にある護国神社】
二の丸にある護国神社
【二の丸にある市民会館】
二の丸にある市民会館
 鍛冶丸の隣が二の丸。ここには、護国神社と市民会館があります。

【本丸と二の丸の間の石垣】
本丸と二の丸の間の石垣
 高岡城の見所のひとつが、本丸と二の丸の間の土橋を固める石垣。これが、城内に残る唯一の石垣じゃないでしょうか。(他にあったら申し訳ない)

【射水神社】
射水神社
【本丸広場】
本丸広場
 かなり広く感じる本丸には、明治8年(1875年)に遷座した射水神社のほか、現在は本丸広場と呼ばれる結構広めの広場があります。

【本丸土塁?】
本丸土塁?
【池の端濠(西外堀)へと続く小径】
池の端濠(西外堀)へと続く小径
【池の端濠(西外堀)】
池の端濠(西外堀)
 ここで一度、本丸広場西側から本丸を囲む土塁?を越え、小径を下って西外堀とも呼ばれる池の端濠へ。ここには、本丸橋と呼ばれる橋が架かっています。で、高岡城の構造的に、この本丸西側だけ濠が一重になっているのですが、それは築城当時、本丸の北から北西側にあった沼沢地を濠代わりとしたためとのこと。(だから池の端濠なんですかね。)で、ここから中の島方面を往復する遊覧船があって、ちょっと乗ってみたかったのですが、時間の都合であきらめたのは勿体なかったなぁ、と。

【前田利長公銅像】
前田利長公銅像
【朝陽の滝】
朝陽の滝
【本丸から見た中の島】
本丸から見た中の島
 再び本丸に戻って、本丸広場の北端には、高岡城を築城した前田利長公の銅像が。また、その東側の裏手は児童公園で、更にそのまま東に進むと進むと北内濠にぶつかるのですが、そこには朝陽の滝という人工の滝がしつらえられ、また濠越しに中の島と呼ばれる島が見渡せます。で、これで城跡をほぼひとまわりしたので、駐車場へと戻りました。

感想とかまとめとか

 というわけで高岡城だったのですが、グーグルマップなどを見て事前に調べた時は、さほど規模も大きくないので短時間で見られるかなと思っていたものの、実際に行ってみると、日本100名城のスタンプを貰いがてらに訪れた高岡市立博物館や、その後実際にお城や、併設された動物園を見て回るだけでも結構なボリュームで、かなりの時間を費やしました。で、正直なところあまりお城を見たという感じはなかったのですが、何故か妙に楽しかったですね。それにしても、江戸初期に廃城となったにもかかわらず、ほぼそっくり残っている濠や縄張りは、この城を残そうとした前田利常公をはじめとする歴代の藩主、そして地元の方々のお陰なんだなぁ、と、改めて感じ入った次第でございます。ありがとうございました。

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