たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

守谷城 【平成29年5月6日】

守谷城址公園 の石碑

 相方のやっている位置ゲームついでに茨城の城跡巡りをしてきたこの日ですが、ここらあたりで切り上げることに。というわけで、その最後に訪れたのは、守谷市にある守谷城です。


守谷城について

 守谷城は、茨城県守谷市にあった平城。

 その築城についてははっきりしないようで、かの平将門公が築城したという伝説もあるようなのですが、寿永2年(1183年)~文治5年(1189年)の間に、相馬氏初代当主となる千葉(相馬)師常が当地を与えられ支配した際、当地に居館を築いたと考えられているとのこと。ちなみに当時の当地は、霞ヶ浦に連なる湖沼地帯だったそうで、これは現在もグーグルマップなどでわかることなのですが、利根川とそれに合流する鬼怒川、小貝川に挟まれた場所に位置しています。

 その相馬氏(下総相馬氏)ですが、衰退したり再興したりしつつも当地を本拠にし続けていたようで、戦国時代に入ってからの大永5年(1525年)に書かれた『足利高基書状』の中には相馬一族が守谷に居所(居城)を持っていることや、天文6年(1537年)の『関八州古戦録』の中には相馬氏が守谷を本拠としている事が書かれているそうです。で、この頃には、現在残る城の前身としての守谷城が築かれたと考えられているようですね。

 で、天文7年(1538年)の国府台合戦以降、後北条氏が度々下総国にちょっかいを出してくるようになったのですが、最終的には北条氏政と和睦。その条件として、守谷城を古河公方、足利義氏に明け渡す結果となり、永禄9年(1566年)、義氏の母である芳春院が入城。ゆくゆくは義氏の御座所とすべく、永禄11年(1568年)には城の大規模な拡張、改修工事が行われました。しかし状況が変わり(このあたりは関宿合戦とか簗田晴助がからむのですが、上手くまとめられないので割愛。)結局義氏は守谷城を御座所とすることはなく、相馬氏も後北条氏家中に取り込まれることとなりました。そして天正18年(1590年)。豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏は滅亡。その際(5月頃)守谷城は、浅野長政の軍勢によって落城させられたそうです。

 その後の文禄2年(1593年)、元々は徳川家康の家臣であった明智(後に土岐に改称)定政が小田原征伐の軍功などにより当地に一万石を与えられ城持ち大名に。その際、城を近世城郭として改修し、城下町や寺社を整備したそうです。更に江戸時代に入ると一時幕府直轄領になった後、元和2年(1616年)には定政の孫に当たる土岐頼行が城主となるのですが、寛永5年(1628年)移封となった際、守谷城も事実上廃城となりました。そしてその後、守谷は直轄領を挟みつつ堀田正盛や酒井忠挙が領主となりますが、このあたり守谷城に関することは、ちょっと調べたくらいじゃ出てこないという…。ですが、天和元年(1681年)に酒井忠挙が厩橋藩主となって以降、守谷は関宿藩領に組み込まれ、守谷城も完全に廃城となったようです。

実際に行ってみた

【南側駐車場の案内図】
南側駐車場の案内図
 そんな守谷城ですが、古間木城を辞した後、カーナビを頼りに40分程で到着。で、連れてこられたのが、城址公園になっている城跡の南側にある駐車場でした。ですが、この更に南側に守谷市立守谷小学校があり、その付近に守谷城址の石碑が建てられていたとのこと。この時は下調べ不足で、そんなこととはつゆ知らずだったという。(個人的に、「〇〇城」って彫ってある石碑がが大好物なんですがね…。)

【駐車場から見た船着き場跡?】
駐車場から見た船着き場跡?
【駐車場から城の西側方向への小径】
駐車場から城の西側方向への小径
 それでも、この時は駐車場から城跡方向を見るだけで、かなり盛り上がってきたというか。城の在った当時、ここは霞ヶ浦に連なる湖沼地帯で、その中の丘状の部分に城が在ったと思われるのですが、それが現在残る地形からでも見て取れるではありませんか!(後で見た案内板などによると船着き場が在ったらしいです。)この日は遺構がほとんど残っていないお城ばかり回ってきたので、それだけで興奮してしまいます。で、早速、駐車場から城というか曲輪の西側に沿って走る小径へと。

【本丸南側の堀切】
本丸南側の堀切
 そこで巨大な堀切を発見!写真だと伝わりづらいのですが、かなりの深さですね。ちなみに個人的には、石垣も好きですが土塁や堀切は大好きということもあり、更に興奮してまいりました。

【本丸】
本丸 
【案内板】
案内板
【案内板に書かれた略年表 ※クリックで拡大】
案内板に書かれた略年表 ※クリックで拡大
【案内板に書かれた復元図 ※クリックで拡大】
案内板に書かれた復元図 ※クリックで拡大
 ですがこの時、またやらかしてしまったというか、堀切に興奮しすぎて、その近くの枡形虎口から本丸に入った筈が、その記憶が全くないという。(土で出来た虎口も、大好物の筈だったんだけどなぁ…。)また、本丸には立派な案内板もあって、この記事を書く際にも大いに参考とさせていただきました。

【本丸北側の堀跡?】
本丸北側の堀跡?
【本丸の西側】
本丸の西側
 先程の案内図では、本丸の北側に掘切と水堀が在るように書かれていたのですが、本丸から坂を下りていったところ、そのあたりは道のようになっていました。で、その道は、東に行くとすぐに城址公園にぶつかって行き止まりに。そして西に行くと、駐車場から歩いてきた小径に直角にぶつかる感じで。で、本丸の西側(上の写真は、北から南方向に向かって撮っています。)にある本丸よりだいぶ低い土地は、現在、耕作放棄地のようになっていますが、かつてはこちら側も水があったのか、それとも低湿地という感じだったのか。

【船着き場へと降りる虎口?】
船着き場へと降りる虎口?
【虎口脇の土塁?】
虎口脇の土塁?
 再び本丸に戻り、今度は船着き場へと降りる小径を。で、そこには虎口やその両脇に土塁っぽい遺構が残っていました。

【かつての水面から南側駐車場を望む】
かつての水面から南側駐車場を望む
 そして最後に、案内図では芝生広場となっている場所の小径を通って駐車場へと帰ったのですが、やはりかつてここに水が在った事を思わせる、ジメジメ感がありました。

感想とか

 と言うわけで守谷城だったのですが、この日唯一と言っていいはっきりと遺構が残ったお城(しかも個人的に好きな土のお城)だったこともあり、とても楽しく見ることが出来ました。ですが、本文中でもちょいとばかり書いたように、下調べをしなかった事と現地では興奮し過ぎた事が重なり、見るべき遺構をかなり見落としてしまったという感じも…。もっとも、個人的にはこういう時はもう一度来ればいいやと思っているので、いつかまた、今度はゆっくりと見てみたいところです。

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