たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 48/100城目 松山城 【平成27年1月11日】

「松山城へようおいでたなもし!」の看板を持つよしあきくん

 だいぶ(まさかこんなにも更新しなくなるとは自分でも思わなんだ)間を空けてしまいましたが、1月に行った二泊三日の四国(とちょっとだけ広島)旅行最終日。この旅の最後に立ち寄った、この旅7つめのお城は、愛媛県松山市に聳え立つ、松山城です。


松山城について

 松山城は、愛媛県松山市にある連郭式の平山城。現存12天守のうちの1つです。

 その築城は比較的新しく、関ヶ原の戦いの後、江戸時代に入ってから。もともと豊臣秀吉恩顧の武将であり、(後世には)賤ヶ岳七本槍の一人と称されることになる加藤嘉明は、文禄4年(1595年)、伊予国の松前(「まさき」と読む。正木とも。)に領地を得、松前城主となりました。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に付いた嘉明は、戦後、その戦功によって20万石に加増され、松前に加えて温泉郡を領することになったのですが、それに際して、温泉郡の勝山に新たな城を築くことを決めました。それで慶長6年(1601年)、家康に築城の許可を得て、翌年より城の普請と城下町の整備を開始。慶長8年(1603年)には本丸及び五重の天守が完成し、嘉明は本拠を正木から勝山に移したのですが、その際、地名を松山と改め、松山藩が立藩しました。

 それで嘉明が本拠を移した後も城の普請は続けられていたのですが、城の完成前の寛永4年(1627年)、嘉明は会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が新たな藩主に。同年には二の丸も完成し、更に普請は続けられたのですが、忠知は寛永11年(1634年)、若くして突然病没。跡継ぎがいなかったため蒲生は断絶し、松山城は一時的に大洲藩主の加藤泰興が在番として預かることとなりました。そして翌寛永12年(1635年)、松平定行が徳川家光の命によって伊勢桑名藩より入封し、以降、幕末まで松平氏(久松松平氏)が城主となりますが、ちなみにこの松平定行。後に長崎探題も兼務することとなり、その際、ポルトガル船よりふるまわれた南蛮菓子の味に感動し、それをアレンジして松山に伝えたのが、現在松山銘菓となっている『タルト』だそうです。

 と、話がそれましたが、寛永19年(1642年)、定行は当初五重だった天守を三重に改築すると同時に、位置も移動させたようです。その後、(久松松平氏)4代藩主の定直時代の貞享4年(1687年)、三之丸邸が完成して藩庁をこれまでの二之丸邸から移したり、元禄7年(1694年)年には西之丸邸が完成したりしました。また、(久松松平氏)9代藩主定国時代の安永8年(1779年)に天守及び本丸の主な建物は落雷によって焼失してしまうのですが、(久松松平氏)11代藩主定通が天守の再建を開始。定通は若くして亡くなったのですが、(久松松平氏)12代藩主の勝善時代の安政元年(1854年)に復興され、翌々年にはそれを記念する式典まで行われたそうです。

 そして迎えた明治時代。これ以降、失火や放火など度重なる火災によって、城内の建物は失われてしまうことに。明治3年(1870年)に失火により三之丸を、明治5年(1872年)には同じく失火により二之丸を、昭和8年(1933年)には松山城放火事件によって小天守、南北隅櫓、多聞櫓など本壇にあった大天守以外の建物が、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)の松山空襲によって天神櫓や乾門など11棟の建物が、戦後の昭和24年(1949年)には放火により筒井門とその東続櫓、西続櫓の3棟を焼失してしまいました。

 その間、大正12年(1923年)には本丸が久松家(明治政府の命により松平家より旧姓のの久松家に戻された。)に払い下げられ、久松家は松山市に寄付したので、以降、松山城は市の所有となったのですが、昭和10年(1935年)には天守など35棟の建物が国宝保存法に基づく旧国宝に指定(その後火災によって失われた建物は指定解除。)、昭和25年(1950年)には大天守など21棟の建物について、重要文化財保護法により改めて国の重要文化財に指定。また、昭和27年(1952年)には、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定されました。

 また、公園としての整備や失われた建物の復興復元や遺構の保存も行われ、明治7年(1874年)に本丸部分が「松山公園」(当時は聚楽園と呼ばれたようで)となり、途中一時廃止されたものの、明治43年(1910年)に再開。昭和23年(1948年)に現在の名称となる「城山公園」として改めて告示されました。そして昭和33年(1958年)に馬具櫓を鉄筋で復興されたのですが、昭和43年(1968年)に小天守、南北隅櫓、多聞櫓、十間廊下など本壇の建物群を木造で復元して以降は全て木造での復元となり、昭和46年(1971年)に筒井門、昭和47年(1972年)に太鼓門、昭和48年(1973年)に太鼓櫓、昭和54年(1979年)に天神櫓、昭和57年(1982年)に乾門同東続櫓、昭和59年(1984年)に艮門同東続櫓、昭和61年(1986年)に巽櫓、平成2年(1990年)に太鼓門西塀が復元されました。それと、昭和62年(1987年)からは二之丸跡遺構保護工事が開始され、平成4年(1992年)には松山城二之丸史跡庭園として開園しました。

実際に行ってみた

【松山城ロープウェイ乗り場】
松山城ロープウェイ乗り場
 こちらの前に立ち寄った湯築城から松山城へは、同じ松山市内でさほど離れておらず、市内を走る伊予鉄の路面電車だと5つめの大街道停留所で下車して城山の方へ少し歩くと、ロープウェイ乗り場に到着します。また、周辺には有料駐車場も多数ありました。

【リフトで上へ】
リフトで上へ
 実は私、松山城に登城するのは、これで2度目。前回は麓からロープウェイで長者ヶ平まで一気に登り、そこから本丸、そして天守を往復しただけという極めて観光客的ルートで見たのですが、お城にさほど興味が無かった当時の自分でも色々と凄かった記憶があります。それで今回、再び松山城を訪れるに当たって、どのようなルートで見て回るか考えたものの、結局はロープウェイと同じルートのリフトで長者ヶ平まで登って、後は現地の案内看板を見てという感じに。

【二の丸へと降りる県庁裏登城道】
二の丸へと降りる県庁裏登城道
【登り石垣】
登り石垣
 で結局、前回見ていない二の丸へ行く為に、県庁裏登城道を通ってまた麓へ降りるという…。ちなみに、県庁裏登城道は明治に入ってから造られた、新しい登城道だそうで。でも、ただ二の丸へ行きたかったから県庁裏登城道を通ったというわけではなく、一応、この道(の二の丸寄り)沿いにある登り石垣も見たかったんですがね。で、この登り石垣。かなり立派というか、松山城のある城山がデカいので、これもダイナミックに見えます。

【二之丸史跡庭園】
二之丸史跡庭園
【勝山亭付近から見た二ノ丸庭園】
勝山亭付近から見た二ノ丸庭園
 二の丸にはかつて御殿があったのですが、前述のとおり明治5年の火災により焼失してしまいました。で、その後平成元年から4年にかけて整備を行い、二之丸史跡庭園としてオープン。周囲の多門櫓や門が復元されたほか、かつての御殿跡は、表御殿については柑橘類と草花で、奥御殿については水と砂で間取りが再現されているのですが、城山側にある茶室『勝山亭』付近からはそれが一望でき、往時の姿を偲ぶことができます。

【大井戸遺構】
大井戸遺構
 それともう一つ、二之丸史跡庭園での見所が、井戸では日本最大と言われる大井戸遺構。防火用に使われていたそうで、有事の際は建物床下の通路を通って二の丸の各所に消火用の水を運ぶことが出来たそうです。それにしても、この大きさ、ハンパないですね。

【黒門口登城道入口付近】
黒門口登城道入口付近
【槻(けやき)門付近の立派な石垣】
槻(けやき)門付近の立派な石垣
【黒門口登城道】
黒門口登城道
 二の丸を堪能したので、お次は本丸なのですが、今度は先程の県庁裏登城道ではなく、慶長年間(1596~1615年)に造られた黒門口登城道で登ることに。ちなみに、歴代のお殿様も登られたという由緒正しき道だそうです。で、入ってちょっと行ったところにある槻(けやき)門付近には大層立派な石垣があったのですが、そこを過ぎ、更に前述の二之丸史跡庭園脇を過ぎれば、その後は城山の林の中をひたすら登っていくという感じで。

【大手門跡】
大手門跡
【戸無門】
大天守  
【筒井門】
筒井門
 そんなこんなで本丸に到着。この日というか松山に来て以来、雨こそ降らずとも微妙な空模様だったのですが、丁度夕日が差して綺麗でした。それで早速、国重文の戸無門、そしてその先の筒井門を潜って本丸の内部へ。ここから先はこの戸無門もそうなのですが、往時の建造物が国の重要文化財に指定されていて、その数なんと21棟。ちなみに、筒井門(復元)にくっついて(写真だと奥方向)隠門という国重文があったのですが、写真を撮るのを忘れてしまいました。

【本丸】
本丸
 そんな時、聞こえてきたのが「天守の営業時間は午後4時30分まで、天守への入場は午後4時まで」というアナウンス。で、ふと腕時計を見ると、午後3時57分!松山城の日本100名城スタンプラリースタンプは天守入口のチケット売り場に置いてあるのでまだ押してないし、またせめて天守は見たかったので、慌てて本丸を突っ切ってチケット売り場へと急ぎました。

【一ノ門】
一ノ門
【二ノ門】 
二ノ門
【仕切門】
仕切門
【大天守】
大天守
 それで何とか間に合って、無事スタンプをゲット後、天守に入ることができました。ちなみに、松山城の天守は連立式といって、大天守や小天守、それに隅櫓などを渡櫓で繋げたものなのですが、この連立式天守を初めとする建物群がある場所を松山城では本壇と呼んでいて、そこは往事の建築物=国重文のオンパレード。写真のものも含め、大天守、三ノ門南櫓、二ノ門南櫓、一ノ門南櫓、仕切門、三ノ門、二ノ門、一ノ門、紫竹門、仕切門内塀、三ノ門東塀、筋鉄門東塀、二ノ門東塀、一ノ門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀と、本壇だけで16もの重要文化財があります。また、正確に往事の姿を再現した復元建築物も良い感じに馴染んでます。ですが正直、時間に追われるように見て回ったので、それらを堪能出来なかったのが残念。まぁ、営業時間とペース配分考えないで見て回った自分が悪いんですがね。

【天守入口のチケット売り場】
天守入口のチケット売り場
 先程入る時は慌てていたので写真を撮るのを忘れていた、天守入口のチケット売り場。前述のとおり、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに置いてあります。

【艮門と艮門東続櫓】
艮門と艮門東続櫓
【乾門、乾門東続櫓と乾櫓】
乾門、乾門東続櫓と乾櫓
【野原櫓】
野原櫓
 天守から出た後、今度は乗ってきたリフト(あとロープウェイも)の営業時間終了(午後5時)が迫っていたのであまり余裕はなかったのですが、本壇以外にある建築物も一通り見学。この中では乾櫓(写真右手)と野原櫓が現存建築物で国重文に指定されているのですが、中でも野原櫓は、日本で唯一現存する望楼型二重櫓だそうです。

【本丸南側の石垣】
本丸南側の石垣
 本丸内も何とか一通り見て回ったので、最後にこれまた立派な本丸の石垣を眺めつつ長者ヶ平に戻り、そこからリフトに乗って下山しました。

感想とかまとめとか

 というわけで松山城だったのですが、一言で言うと、とにかく、その物量に圧倒されました。城山の面積もさることながら、そこに点在する遺構の数々。また、大天守をはじめとする現存建築物と、それらと違和感なく一体化した復元建築物の数々。今回、お城をちゃんと見るのは2回目だったので、それほど時間はかからないと踏んでいたのですが、いざ見始めると今回初めて訪れた二之丸以外にも新たな発見が色々とあったりしてキリがないというか。さかも今回は時間配分を間違え、最後はバタバタになってしまったのですが、それが無くともいくら時間があっても足りないんじゃないかなぁ、なんて。いやぁ、ほんと、凄かったです。

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