たひお備忘録

とりとめのない趣味の、とりとめのない活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 46/100城目 今治城 【平成27年1月11日】

「指定史跡 今治城跡」の石碑

 1月に行った二泊三日の四国(とちょっとだけ広島)旅行の三日目にして最終日なのですが、この日は、宿泊地の広島県福山市からしまなみ海道で瀬戸内海を渡って愛媛県へと入り、県内の日本100名城のうち未踏の3城を攻略しようかと。それでその手始めは、しまなみ海道の四国側終点となる今治市にある、今治城です。


今治城について

 今治城は、愛媛県今治市にある輪郭式の平城(海城)で、日本三大水城のひとつ(ちなみに残りは、大分県中津市の中津城、香川県高松市の高松城です。)にも数えられます。

 その築城ですが、元々当地には、現在の今治城の南東約4.6kmのところにある唐子山山頂に国分城(国府城とも)という山城があったのですが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績による加増で藤堂高虎が当地を領した際、領国経営には不向きとして慶長7年(1602年)から築城を開始。9箇所の城門、20基の櫓を有する非常に広大な造りだったことに加えて、海水を引き入れた広大な三重の堀や、海から堀へ直接大型の船で入れるようにするなど海に面した城という特性を十二分に生かした、当時としてはとても独創的な造りだったそうです。それで慶長9年(1604年)に今治城が完成し、慶長13年(1603年)頃になって城内の他の建物類も全て完成したらしいのですが、それと同時期に高虎は伊勢国に加増移封に。その際、天守は丹波国の亀山城に移築されたいう伝承があるそうです。(ただし、今治城に天守があったについては、天守台や天守そのものの遺構が確認できていないことにより、その存在については議論が分かれるそうで…。)

高虎移封後も、今治は飛び地として高虎が領し、今治城には養子の藤堂高吉が城代として居城して、城下町の発展に努めたそうなのですが、高吉も寛永12年(1635年)に伊勢国へ転封となり、替わって松平(久松)定房が入城。以後、明治維新まで今治藩主を務めた久松松平家が代々城主を務めました。

 やがて明治に入ると、廃城令が施行される前の明治2年(1869年)に廃城となり、城内のほとんどの建築物が破却されてしまいました。で、この時、二の丸北隅の武具櫓だけは収蔵物とともに残されたのですが、明治4年(1871年)に火災が発生した際、内部の火薬に引火して爆発炎上てしまいました。その後、昭和28年(1953年)には愛媛県の史跡に指定。昭和55年(1980年)には5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられたのですが、これはここから移築したとの伝承のある丹波国亀山城(明治初期に撮影された天守の古写真は残っていた)の形状からかなりアレンジしてしまったようで。また、昭和60年(1985年)に東隅櫓(御金櫓)として再建(外観復元)。平成2年(1990年)には二の丸西隅に山里櫓が再建されました。そして平成19年(2007年)には鉄(くろがね)御門が多聞櫓などと共に復元されると同時に、二の丸に藤堂高虎の像が建立されました。

実際に行ってみた

【しまなみ海道で四国へ】
しまなみ海道で四国へ
【今治市内走行中】
今治市内走行中
【今治城第1駐車場】
今治城第1駐車場
 午前7時過ぎに福山市の宿を出発。早朝のしまなみ海道を渡って、途中朝食をいただきつつ、2時間弱のドライブで、今治城の水堀に沿ったところにある第1駐車場(有料)に到着。まだ午前9時前とあって、駐車場は空いていました。

【北方向から見た堀と今治城】
おおむね北方向から見た堀と今治城
 それでいきなりですが、これが今治城のハイライトと言っても過言ではない、海水を引き入れた広大な水堀。ちなみに、堀の広さはGoogleマップで測ったところ、60~70メートルもありました。で、それ越しに見える今治城は二の丸と本丸部分なのですが、そのぐるりを塀が廻されていて、これが外観上結構効いていますね。

【鉄御門へと続く土橋】
鉄御門へと続く土橋
【土橋から見た堀】
土橋から見た堀
 このまま、堀の周りを1周しても良かったのですが、とりあえずは日本100名城のスタンプをということで、土橋を渡ってお城の中へ。それにしても、橋を渡っている最中は、堀がもの凄い広さというのを実感しますね。

【鉄御門】
鉄御門
【高麗門跡】
高麗門跡
【勘兵衛石】
勘兵衛石
 土橋を渡ったところにあるのが、平成19年(2007年)に再建された鉄御門。高虎時代の復元ではなく(それだと地盤高が低すぎて無理だった由。)久松時代の復元なのですが、さすがは木造での復元だけあって、良い雰囲気ですね。で、元々は、鉄御門の手前には高麗門があったとのこと。(地面にグレーでペイントされた部分)また、復元された石垣には、(お約束の)巨大な石が嵌まっていたのですが、こちにのは城の普請奉行と伝わる渡辺勘兵衛さんなちなみ「勘兵衛石」と(江戸時代から)呼ばれているそうです。

【三の丸から二の丸方向】
三の丸から二の丸方向
【三の丸にある藤堂高虎公像】
三の丸にある藤堂高虎公像
【蒼吹の井】
蒼吹の井
【二の丸内側の石垣】
二の丸内側の石垣
 鉄御門をくぐったところが今治城の三の丸。藤堂高虎公の立派な銅像が鎮座しています。で、現在明確な境界は無いのですが、奥方向が二の丸となっています。それでここには、先程の鉄御門と一緒に木造で復元された武具櫓と多門櫓や、他にも外観復元で再建され、その中には色々と展示してある櫓もあるのですが、それは後回しにして、途中、井戸や石垣のみを眺めつつ奥へ奥へと。

【吹揚神社と模擬天守】
吹揚神社と模擬天守
【天守からの眺め(北方向)】
天守からの眺め(北方向)
【天守からの眺め(東方向)】
天守からの眺め(東方向)
【天守からの眺め(西方向)】
天守からの眺め(西方向)
 それで、入って奥右手方向は現在、吹揚神社となっているのですが、元々はこちらがお城の本丸だったそうです。で、まずはこちらに来場のご挨拶を。あとその隣には、昭和55年(1980年)建築の鉄筋コンクリート造模擬天守が聳え立っているのですが、これは元々、本丸の北隅櫓跡に建てられたそう。内部は博物館、そして最上階は展望室となっているのですが、そこからの眺めは絶景だったのと同時に、堀の広大さと、この今治城が海城であることを感じさせてくれるものとなっています。ちなみに、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。

【御金櫓】
御金櫓
 天守を観たあとは、二の丸の各櫓を廻ります。それでまずは、二の丸跡の東隅に立つ御金櫓へ。昭和60年(1985年)に再建され、内部は郷土出身作家による現代美術館になっていました。

【山里櫓】
山里櫓
 で、お次は、二の丸北西隅に立つ山里櫓。平成2年(1990年)に再建され、内部は武具や古美術品が展示されているのですが、中でも、地元の篤志家の方が寄付してくださった品々は、かなりの見応えが。

【武具櫓】
武具櫓
 櫓巡りの最後は、武具櫓から多門櫓を抜け、鉄御門の内部を見学。現在、色々なところで木造復元のこのような建物を観ることが出来ますが、復元建物単体ではなくお城の遺構と組み合わさることによって、どれもそれぞれに興味深い箇所というのが存在しますね。あと、お伺いした時にたまたま、今治城内で天守と櫓を巡るスタンプラリーをやっていたのですが、こちらでそれが完了。景品に、ステキなポストカードをいただけました。
 
【東方向から見た堀と今治城】
東方向から見た堀と今治城
【西方向から見た堀と今治城】
西方向から見た堀と今治城
 そしてオーラス。今治城から立ち去る前に、もう一度堀とお城の組み合わせを、しかと目に焼き付けました。

感想とかまとめとか

 というわけで今治城だったのですが、海辺のけっして強固とは言えない地盤の上に、(天守が有ったかどうだかは別として)当時の工法でこれほどの城を築いた藤堂高虎公って、改めてすごいなぁ、と。また、こういうお城で(内堀より中の)主郭しか残っていないと案外寂しいものなのですが、異例の広さを誇る水堀など、現存する部分だけでも見応えは十分にありました。それにしても今回、宇和島城、大洲城、そしてこの今治城と、高虎公が関わった3つのお城を巡ったのですが、その印象は三者三様というか、高虎公以外の城主の影響が大きいのもあるとは思うのですが、高虎公自身もその場にある地形などの条件を柔軟に、そして巧みに利用して城を築いたり改修したりしたのかな、と。高虎公、マジリスペクトだなぁ。

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