たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 37/100城目 首里城 【平成26年8月27日】

甦る首里城之碑

 (2つめの記事にして)前の記事からちょっと間が開いてしまいましたが、8月末のANAのギャラクシーフライトで沖縄旅行に行った時の話。それで、深夜というか未明に那覇空港に着いた後はタクシーでホテルに向かったのですが、そこで暫し仮眠の後、朝イチで予約していたレンタカーを借り、沖縄に着いてから最初に最初に向かったのが、今回の旅の目的のひとつである首里城です。


首里城について

 首里城は、沖縄県那覇市にある、旧琉球國(琉球王国)の王宮そして政庁。で、毎度のごとく首里城についてネットでお手軽に調べたことの覚え書きを以下に列挙しようと思うのですが、これまで訪れてきた本土というか内地(大和)の城とはいささか勝手が違うというか、本土(大和)とは異なるその文化や歴史に関わる部分が多数出てきますので、まずはそれらについてさらっと。

  • 現在の沖縄県に人が住み着いた時期は不明らしいのですが、那覇市の山下洞人という今から約3万2千年前の人骨が見つかっているそう。また、昭和42年(1967年)に現在の八重瀬町で見つかった『港川人骨』は、およそ1万8千年前のもので、日本で初めて見つかったほぼ完全な形での旧石器時代人骨だそうで。また、遺伝子研究の成果として、現在の沖縄県人は本土人と琉球人は同じ祖先を持つらしいのですが、文化的にはどうなんですかね。
  • 沖縄県(琉球國)の歴史区分は、本土(大和)のそれとは大きく違うのですが、本土の縄文から平安時代にあたる先史時代及び古代については貝塚時代と呼ばれ、早期から中期貝塚時代が縄文自体の途中まで、後期貝塚時代がそれ以降と区分されるそうで。また沖縄本島付近では、本土の縄文文化の影響が見られる土器などが出土しているのですが、宮古や八重山など先島諸島においては土器に台湾先史時代の土器との共通点があったり、その後の無土器時代には東南アジアの文化的特徴と同じものが見られるとのこと。あと、推古天皇24年(616年)に著された日本書紀に掖久・夜勾・掖玖(当時の九州より南の島々の呼び名)から渡来した人が日本に住み着いた記録があったり、その後の舒明天皇の時代には日本からの死者が派遣されたりと、7~8世紀にかけては、日本本土及び朝廷と何らかの交流があったことが記録として残っているそうです。
  • 当地において農耕文化が一般化したのは12世紀頃になってからなのですが、当時はまた、中国大陸や日本本土と交易が盛んで、それらで力を付けた有力者が周辺の農民などを束ねる『按司(あじ)』と呼ばれる豪族となり、また按司は周囲を石垣で囲ったグスクを作り、それらが各地に誕生する後にグスク時代と呼ばれる時代に突入。按司たちは勢力争いを繰り広げますが、やがて14世紀に入ると各地の按司は承察度が治める南部の南山(山南)、察度が治める中部の中山、怕尼芝が治める北部の北山(山北)という3つの国に分かれていったのですが、これを三山時代と呼び、約100年間続いたそうです。
  • やがて三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志(しょうはし)が急速に勢力を拡大。まずは1406年に中山王武寧を滅ぼし、その後1416年に山北(北山)王の攀安知を滅ぼし、更には1422年頃には山南(南山)王の他魯毎を滅ぼして、琉球を統一。琉球國(琉球王国)が成立し、尚氏による王統が始まりました。ちなみに、のちに政変で変わった王も尚氏を名乗った為、区別の為にこちらは第一尚氏と呼ばれます。
  • 1469年、第一尚氏王統の第6代国王であった尚泰久王の側近であった金丸が、泰久の子である第7代国王の尚徳王にかわって王位に就き、尚円王と名乗ります。この政変以降の王家は第二尚氏と呼ばれ、中央集権化をすすめ支配体制を強化。そして1609年に起きた薩摩藩の琉球侵攻(大和側は呼称は「琉球征伐」、琉球側の呼称は「己酉の乱」)を経ても存続しましたが、1871年の明治政府による琉球処分において王統の支配は終わり、琉球國は琉球藩となったあと、沖縄県になりました。

 と、本当にさわりだけなのですが、この中で、第一尚氏、そして第二尚氏王統を通じて王宮、そして王国統治のための「首里王府」として使われたのが首里城で、それについてを以下に。

  • その創建時期は不明だが、近年の発掘調査による最古の遺跡は14世紀末のものと推定されているので、三山時代には既に中山のグスクとして使われていたとのこと。更にそれ以前のグスク時代である13世紀末から14世紀にかけて当地に造られたという話もあるみたいで。
  • 15世紀前半(首里城公式サイトによれば1429年)の尚巴志による琉球統一及び尚氏王朝成立後は王宮、そして王府として使用されるように。それでこの頃、内郭(内側城郭)が完成。また、龍潭及び庭園や、中山門、美福門が創建されました。
  • 1453年、第5代尚金福王の死後、王位継承をめぐる志魯・布里の乱によって消失。ちなみにその際、争った王世子の志魯と王弟の布里は両方とも斃れ、金福王と布里の弟にあたる泰久が第6代王となりました。
  • 1469年、泰久王の側近であった金丸が政変によって王位に就き、尚円王に。首里城は引き続き王宮、王府として使用されることに。そしてこの頃から16世紀初頭にかけ、瑞泉門、歓会門、久慶門らが創建されたり、王家の菩提寺である円覚寺や王家の墓所である玉陵(たまうどぅん)が造営されたりしました。また、1508年頃、北殿が創建されました。
  • 16世紀中頃、外郭(外側城郭)が完成。南東側の城壁を二重化して継世門を築造。また、守礼門(首里門)が創建されたのもこの頃だそうで。
  • 1609年、薩摩藩による琉球侵攻。また17世紀前半には南殿が創建されました。
  • 1660年、失火により全焼。1672年に再建された際、正殿の屋根がそれまでの板葺きから瓦葺きになりました。その後、1709年にも失火により全焼し、1715年に再建されました。で、これら再建の際の木材の調達が大変だったようで、薩摩藩から用立ててたり、将来を見越して本島北部の山原に植林したりしたそうで。ちなみに、現在復元された首里城の元ネタとなったのは、1715年に再建後、1768年及び1846年の正殿大修理を経て昭和20年(1945年)まで現存した姿だそうです。
  • 明治12年(1879年)、明治政府の琉球処分による首里城明け渡しによって廃城に。城跡は一時日本陸軍駐屯地となったあと、首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用されました。
  • 大正12年(1923年)、首里市会が首里城正殿の解体を決議。しかし関係者の奔走によって保存が決定され、昭和3年(1928年)から8年(1933年)にかけて正殿が修理される。また、旧国宝にも指定されました。
  • 太平洋戦争中の昭和19年(1944年)、首里城に地下壕を設け第32軍司令部が設置されました。その結果、昭和20年(1945年)の沖縄戦の際には3日間に渡って艦砲射撃を受けるなどして、首里城は壊滅してしまいました。 更に戦後の昭和25年(1950年)、城跡に琉球大学が建設された際にも遺構が撤去されたり埋め立てられたりしたそうで。
  • 昭和33年(1958年)、守礼門が再建されたのを皮切りに復元が進められることに。そして昭和47年(1972年)の沖縄本土復帰後には国史跡に指定され歓会門と付近の城壁を再建。更に、昭和54年(1979年)に琉球大学が移転すると国及び県によって首里城再建計画が策定され、発掘調査の成果や昭和初期に行われた改修の際の図面、それに古写真などに基づいて、平成元年(1989年)より正殿や門、城壁などの再建を開始。平成4年(1992年)には主要部分が完成し、首里城公園として開園しました。

 そして、平成12年(2000年)には他のグスクと共に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されて現在に至るのですが、なんていうか、公式サイトにも書いてあるとおり、首里城の歴史=琉球國、そして沖縄県の歴史そのものですね。

実際に行ってみた

 そんな首里城ですが、個人的にお伺いするのは2回目。もっとも、前回は日本100名城スタンプラリーを始める前でしたし、また、団体旅行で主要部分にのみ慌ただしく立ち寄っただけだったので、いつかまたゆっくりと見てみたいと思っていたのですが。なので今回、沖縄での最初の目的地としてお伺いすることにしました。で、最初にお願いがあるのですが、今回というかこの旅行の初日、デジカメのレンズが汚れているのに気が付かずに写真を撮りまくってしまい、そのお陰で中心からやや右の部分がもやっとしています。なにとぞご容赦いただければ、と。

 それで冒頭に書いたとおり朝イチでレンタカーを借り、混雑する那覇市内を抜けて首里城へ。首里杜館(首里城公園レストセンター)地下駐車場には午前8時30分頃到着したのですが、平日にもかかわらず、既に駐車するクルマで埋まり始めていました。

【守礼門】
守礼門
 首里杜館から地上に出て最初に現れるのが、札幌の時計台同じく当地のシンボルのわりに「ガッカリ観光地」と言われた守礼門。もっとも、それって、平成4年の首里城本殿修復前の話だとは思うというか、現在は首里城の入口としての役割をしっかり果たしていると思います。ちなみに、首里城は中国様式に多大な影響を受けてで建立されているのですが、こういった門の形式は牌楼(ぱいろう)と言うそうで。あと、これは某サイトで知ったコネタなのですが「守禮之邦(しゅれいのくに)」と書かれている中央の扁額は、台風襲来時には一時的に取り外されるそうです。

【園比屋武御嶽石門】
園比屋武御嶽石門
 守礼門から続く坂道の途中にあるのが、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。「門」と付いていますが御嶽(ウタキ)の入口ですかね。で、沖縄のグスクには、このようなウタキと呼ばれる礼拝所がいくつも内包されていて、グスクが廃されてもウタキだけは地元の信仰の場として残されているものがいくつもあるそうです。ちなみに、首里城公園内の遺構で明確に「世界遺産」と謳っているのは、たしかここだけだったかと。

【歓会門】
歓会門
 更に坂を登ると現れるのが、城郭内へ入る第一の正門である歓会門(かんかいもん)。中国皇帝の使者である「冊封使(さっぽうし)」など、城に招かれたを人を歓迎するという意味でこの名が付けられたそう。また、門の両側には、魔除けである一対のシーサーが置かれています。

【瑞泉門と冊封七碑(の一部)】
瑞泉門と冊封七碑(の一部)
【龍樋】
龍樋
 歓会門を抜けると、そのちょっと先から第二の門である瑞泉門(ずいせんもん)まで石造りの階段が続き、その両脇に7つの石碑が建てられています。で、その石碑が冊封七碑(さっぽうしちひ)。瑞泉門の近くには龍樋(りゅうひ)と呼ばれる王宮の飲料水としても使われる水源があるのですが、琉球国王の即位を宣言するために遣わされた歴代の冊封使たちが、龍樋の水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残したものを石碑にしたものだそうで。また、冊封使が滞在中は、宿泊していた那覇港近くの「天使館(てんしかん)」まで、毎日、龍樋の水を運んだそうです。

【漏刻門】
漏刻門
 瑞泉門を抜けてすぐのところにあるのが、第三の門である漏刻門(ろうこくもん)。門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったためにその名が付いたそう。また、駕籠に乗って登城した身分の高い役人が、国王に敬意を表してこの場所で駕籠を降りたことから、「かご居せ御門(うじょう)」とも呼ばれたそうです。

【漏刻門付近からの眺め】
漏刻門付近からの眺め
【万国津梁の鐘と共屋】
万国津梁の鐘と共屋
 漏刻門を抜けるとちょっとした郭があるのですが、そこからの眺めは、とても素晴らしいです。また、郭には共屋(ともや)という建物があり、その中には万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)という鐘(のレプリカ)が吊されています。ちなみに万国津梁とは、「琉球國は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨で、その銘文が鐘に刻まれています。で、実はこの鐘、1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているのですが、具体的な設置場所が不明なため、「当面ここに設置している」そうで、また鐘の吊された「共屋」についても、往時の具体的な使い道はわかっていないそうです。

【広福門】
広福門
 正殿に向かうと次に現れるのが、門全体が建物になっている広福門(こうふくもん)。ちなみに広福とは、福を行き渡らせるという意味だそうで。また内部は現在、正殿付近の有料エリアに入城する為の券売所になっていますが、往時は神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていたそうで。

【首里森御嶽】
首里森御嶽
 広福門を抜けると下之御庭(しちゃぬうなー)という広場になるのですが、そこにあるのが首里森御嶽(すいむいうたき)というウタキで、琉球開闢の神話によると、神が造られた精緻だそうで。また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったそうです。

【奉神門】
奉神門
【奉神門と門番】
奉神門と門番
 正殿への最後の門で、この先からが有料区域となる奉神門(ほうしんもん)。広福門と同じく門自体が大きな建物になっていますが、こちらは入口が3つ並んでます。で、そのうち門番の立つ中央の大きな入口は、国王や冊封使など限られた身分の高い人だけが通れたそうで。また、奉神門の前では、毎日午前8時30分の開門時刻に御開門式(うけーじょー)と呼ばれるイベントをやっているのですが、タッチの差で見逃したのは残念だったというか。

【正殿】
正殿
【正殿の正面入口付近と龍柱】
正殿の正面入口付近と龍柱
 奉神門を抜けると、年中、様々な行事が行われた御庭(うなー)と呼ばれる広間を囲むように正殿、そして南殿と北殿が建っています。で、その中で、ひときわ豪華なのが王宮である正殿。二層三階建てと往時は琉球國最大の木造建築で、その正面入口付近には豪奢な装飾が施され、またその両脇には大きな龍柱(名前のとおり龍を象った柱)が聳え立っているのですが、これらの特徴は中国でも大和でもない琉球独特のものだそうで。

【南殿と番所】
南殿と番所
 正殿に向かって右手にあるのが南殿(なんでん・左手の2階建ての部分)と番所(ばんどころ・右手の平屋の部分)と呼ばれる建物で、番所は登城者の取り次ぎなど、南殿は日本風の儀式が行われたそうで。で、現在内部は資料展示スペースになっているのですが、ここから入場して本殿や書院、鎖之間(さすのま)、庭園などを見て回ることが出来ます。で、これが以前来たときよりも見られるところが増えていたこともあって、見応えたっぷりだったというか。

【北殿】
北殿
 正殿に向かって左手にあるのが北殿(ほくでん)。往時は王府の行政施設として使われていたそうなのですが、現在は資料の展示スペースと、ミュージアムショップが入っています。で、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらでいただきました。(他にも、クルマを停めた首里杜館(首里城公園レストセンター)にもあったかと。)

【淑順門】
淑順門
 有料エリアから出たところにあるのが淑順門(しゅくじゅんもん)。国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門だったそうで。

【石垣】
石垣
 淑順門から出口となっている久慶門までの間は城郭の石垣に沿って進むのですが、その石垣には写真のとおり(っていうか解像度の関係で解りづらくなっちゃってますが…。)移行部分と復元部分の境目に金属製のプレートが貼られて境目が判るようになっています。もっとも、復元部分も急速に馴染んで、よく見ないと境目が解らなくなっていますが。

【久慶門】
久慶門
 順路だと城郭の出口になっている久慶門(きゅうけいもん)ですが、本来は首里城の通用門だったそうで、門周辺の石垣のカーブの具合が、なんとも大陸的ですねぇ。また、門の左手には「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」と呼ばれる湧水があり、瑞泉門のところの龍樋と並んで首里城の水源として使われていたとのこと。それにしても、城内の高いところに降った雨水が一度地中に染みこんだ後で再び湧き出すところに門を設けたというか、水源と門を至近に配置しているのが珍しく感じました。

【円覚寺跡】
円覚寺跡
【放生池と放生橋】
放生池と放生橋
 久慶門を出て北東方向なににあるのが、第二尚氏の菩提寺であった円覚寺跡。現在では総門とその両側の石垣、右脇門に、放生池(ほうじょうち)が復元されました。また、放生池にかかる橋(放生橋)はなんと往時のもので、国重文に指定されています。

【円鑑池と弁財天堂】
円鑑池と弁財天堂
 円覚寺の向かい側にあるのが、人口池である円鑑池(えんかんち)で、首里城や円覚寺からの湧水や雨水が集まる仕組みになっているそうですが、外来種っぽい魚が沢山群れていました。また、池の中にあるのは弁財天堂(べざいてんどう)で、名前のとおり弁財天を祀っているのですが、なんていうか、沖縄で弁天様というのは珍しく感じました。(もっとも、元々は16世紀初頭に朝鮮から贈られた方冊蔵経(ほうさつぞうきょう)を納めるために建立されのですが。)そして、そこに架かる橋は「天女橋(てんにょばし)」と呼ばれ、中国南部の駝背橋(だはいきょう)の特徴をもっているそう。なんていうか、色々ハイブリッドですね。

【龍潭】
龍潭
 円鑑池から流れた水が流れ込むのが、この龍潭(りゅうたん)。もっとも、造られたのは円鑑池より古い15世紀前半で、沖縄最古の碑文「安国山樹華木記(あんこくざんじゅかぼくき)」によれば、国相懐機が中国におもむき、造園技術を学んでこれを造ったとされているそう。で、それによれば庶民の憩いの場だったらしいのですが、冊封使を歓待する船遊びの宴も行われたそうです。ちなみに、先程の円鑑池同様、ここも外来種っぽい魚が沢山群れていました。

【陸軍第32軍総司令部跡】
陸軍第32軍総司令部跡
 龍潭から守礼門方向に戻る途中にひっそりと佇むのが、日本帝国陸軍第32軍総司令部があった壕の入口跡。壕の延長は1キロにも及び、1t爆弾にも耐えられるよう設計されていたのですが、結果的に日本軍はここを放棄し、沖縄戦最後の激戦地となった本島南部の摩文仁(まぶに)に撤退することとなります。

感想とかまとめとか

 というわけで、個人的には二度目の首里城だったのですが、そのほとんどが復元されたものとはいえ、その独特な建築様式に加え、明らかに本土(大和)の城とは違う郭の形状や石垣の微妙なカーブなど、何度訪れても興味は尽きません。っていうか、小難しい理屈を並べ立てるより、単純に、沖縄の深い青空とベンガラ色の建物の対比を見ているだけで、なんともワクワクしてくるんですよね。(ちなみに前回は1月に訪れたので、空模様がはっきりしなかったんです…。)かつての侵略や戦争のことなどを考えると、単純に「いいね!」とは言えないお城ですが、沖縄、というか琉球國の象徴として、これからもその立派な姿を見せ続けて欲しいですし、また、今後も続く復元整備計画の行く末も見てみたいと思います。

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