たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

楠公誕生地(楠木氏館跡)と下赤坂城 【平成25年4月27日】

史蹟 赤坂城址の石碑

 前の記事で、楠木正成公と鎌倉幕府軍が戦った千早城へと行った時のことを書いたのですが、その千早城のある千早赤阪村には、正成公縁の史跡が他にも結構あったりして。そんなわけで、折角なので時間の許す限り他の史跡も巡ってみたというか。


楠公誕生地(楠木氏館跡)と下赤坂城について

 楠木正成といえば、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)に後醍醐天皇をたてて鎌倉幕府に対して戦いを挑み、赤坂城の戦いや千早城の戦いを経て倒幕に大いに貢献し、その甲斐あって元弘3年/正慶2年(1333年)に建武の新政を迎えるたものの、そのわずか3年後の延元元年/建武3年(1336年)に足利尊氏が反旗を翻した際に後醍醐天皇の命で尊氏と戦い(湊川の戦い)、敗れて自害したという武将なのですが、その正成が生まれたとされる(諸説あるみたいというか、歴史の表舞台に登場するのが当地で挙兵して湊川で自刃するまでの約6年間しかないのではっきりしない事も多いそうで。)のが、現在の千早赤阪村である河内国石川郡赤坂村。で、出生地として考えられている場所の一つが、千早赤阪村立郷土資料館のすぐ近くにあって、そこは元々文禄年間に正成の功績を鑑みた豊臣秀吉の命によって増田長盛がここを検地し土壇を築いて小さな社を祀ったという由緒ある場所なのですが、近年の発掘調査の結果、二重の堀に囲まれた建物跡が発見され、出土品などからも楠木氏の館の跡というのは間違いではなさそうとのことで。

 そして、下赤坂城ですが、元弘元年に楠木正成が倒幕のために挙兵したのがこことのこと(赤坂城の戦い)。僅か500の兵ながら、熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて20万とも30万とも言われる鎌倉幕府軍に多大なダメージ(死者1000人以上)を与えたのですが、下赤坂城が挙兵時に急遽築いたにわか作りであったことと、結局のところ多勢に無勢で1ヶ月後に自ら城に火を放ち落城。その際、正成がわざと仕込んだかどうかはわかりませんが、焼け跡の身元不明の焼死体を見た幕府軍は、「(正成は)自ら城と運命を共にしたか。」と思い込んでしまったそうで。しかし当の正成は逃げ延びて金剛山に潜伏。翌年の元弘2年(1332年)に当城を奪還して再び挙兵。この時も下赤坂城は落城してしまったものの、その後楠木軍は上赤坂城、そして千早城と後退しつつ抗戦を続け(千早城の戦い)、とうとう幕府軍は千早城を落とすことが出来ずに撤退。この戦いで幕府側を苦しめたことが鎌倉幕府倒幕にも繋がったとのことです。で、南北朝期にも南朝方の拠点となったのですが、延文5年/正平15年(1360年)に落城。その後、下赤坂城のあった尾根は後に『日本の棚田百選』に選ばれる程に開田されてしまいましたが、昭和9年3月13日、「赤阪城跡」として国の史跡に指定されました。

実際に行ってみた

楠公誕生地(楠木氏館跡)

 実は、今回巡った楠公誕生地(楠木氏館跡)と下赤坂城については、当初立ち寄ることを予定していませんでした。しかし、千早城に向かう途中に見かけた、楠公誕生地の案内看板を見て相方と「鉄矢爆誕!!」(どうも楠木正成というと、大河ドラマ『太平記』で演じた武田鉄矢さんを思い出してしまうもので…。ちなみに「楠公さん」だと、池中玄大80キロの長門裕之さんだったりする。「楠公さんよぉ~」by西田敏行)などと盛り上がってしまい、千早城登城の後、せっかくだからとお伺いすることになり、案内看板を頼りに(この時カーナビが不調でして)到着しました。

【楠公誕生地】
楠公誕生地
 現在誕生地には、明治8年(1874)に大久保利通の奨めによって建立した石碑があります。ちなみに、碑の銘は幕末の剣豪の一人、桃井春蔵の直筆によるものだそうで。

【千早赤阪村立郷土資料館】
千早赤阪村立郷土資料館
 こちらが、楠公誕生地に隣接する千早赤阪村立郷土資料館。中には、楠木正成の関連資料などが展示されています。あと、大河ドラマ太平記の時の武田鉄矢さんの写真も飾ってありました。

【道の駅ちはやあかさか】
道の駅ちはやあかさか
 こちらも楠公誕生地に隣接している道の駅ちはやあかさか。小さい建物が1つだけあり、何でも「日本一かわいい」道の駅だそうで。

 というわけで、楠公誕生地や千早赤阪村立郷土資料館を見たおかげで、もう少しだけ楠木正成関連の史跡を巡ってみたくなったというか。

下赤坂城

 で、やってきたのは、これも千早城に来る途中に案内看板を見つけた下赤坂城。

【赤阪城址入り口の石碑】
赤阪城址入り口の石碑
 ここの石碑にも、「赤阪城址」と。で、この先は千早赤阪村立中学校の敷地かと思ってクルマではなく徒歩でこの坂を登っていったのですが、後ろからクルマがバンバンと。もっとも、部活やる子の送迎だったみたいで。でもって、見ず知らずの学校に入るというのも、ちょっと気が引けるというか、ちょっとドキドキするというか。

【国史跡赤阪城跡の案内看板】
国史跡赤阪城跡の案内看板
 千早赤阪村立中学校の敷地を抜けると、尾根のところが少し平らになっていて、そこにトップの写真の石碑やこの案内看板、そしてトイレなんかがあります。ちなみに、背後に写っているのが千早赤阪村立中学校の校舎。それにしても、学校敷地近くでカメラなんか出していると、不審者扱いされないかなんて思ってしまいますね。(まぁ、私自身不審者というか、変なオジサンなのは間違いないが。)

【下赤阪の棚田】
下赤阪の棚田
 中学校と反対側の斜面には、『日本の棚田百選』にも選ばれた下赤阪の棚田が広がっています。残念ながら、ちょっとばかし来るのが早くて田植えはまだでしたが、こに水が張られて稲が植えられた光景は、さぞや見事だったんだろうなぁ。

【千早赤阪村役場】
千早赤阪村役場
【下赤坂城主郭跡?】
下赤坂城主郭跡?
 中学校付近を辞した後、今度は千早赤阪村役場へ。何でも、村役場の裏手あたりに、下赤坂城の主郭があったそうで。

 そんなわけで、楠公誕生地(楠木氏館跡)と下赤坂城を巡ったのですが、ここまで来たらとことんいってみたくなり、この後、下赤坂城から千早川?を挟んだ向かい側の尾根に有る上赤坂城跡へと。ですが、何しろ急に思い立っていったものだから、(当然)下調べも何にもしていなくて、どこから城跡に入れるというか山に登れるかもわからなかったというか。なので今回は諦め、元々の予定というか行程へと(時間遅れで)戻りました。

感想とかまとめとか

 楠木正成公については、鎌倉時代末期から南北朝期の武将ということもあり、正直守備範囲ではなかったのですが、前述のとおり知れば知るほど興味が湧いてきて、千早赤阪村内にある関連する史跡を、もっと巡ってみたくなりました。なのでもし次に当地をお伺いする機会が得られたら、今回諦めた上赤坂城や、他の楠木七城と呼ばれる城(砦)跡なんかも巡り、当時の戦に思いを馳せてみたいなぁ、なんて。

追伸

 でもなぜかこの時、湊川の戦いというか湊川神社のことが頭がすっぽり抜け落ち、翌日神戸へと立ち寄ったにもかかわらずお参りしてこなかったんですよね。時間的制約もあっにしろ、勿体ないことしたなぁ…。

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