たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

探訪!日本100名城』 68/100城目 一乗谷城 【平成28年4月30日】

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡 の石碑

 丸岡城、そして称念寺のあった坂井市から一般道を走って向かった先が、この日最後の目的地である一乗谷城。こちらももちろん、日本100名城のひとつとなっております。


一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)について

 一乗谷城は、福井県福井市城戸ノ内町にある山城で、山城を含む戦国時代の城下町と館跡一帯が、一乗谷朝倉氏遺跡として国の特別史跡に指定されています。また、遺跡内の4つの日本庭園については、一乗谷朝倉氏庭園として国の特別名勝に指定されています。

 元々、当地の支配者としての朝倉氏は、南北朝時代に足利氏の一族である斯波氏に仕えた朝倉広景が、延元2年(1337年)、斯波氏と共に但馬から越前に入国したのが始まりで、その後色々あって朝倉氏は越前国守護代、そして守護へと登り詰めるのですが、かなり古くから一乗谷に館を築いて本拠にしていたことがわかってきたそうで、更に15世紀前半には、館の背後にある現在一乗城山と呼ばれる山中に、一乗谷城も築かれました。

 室町時代中期、7代当主である朝倉孝景の頃からは、応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたそうで、そのお陰もあってか一乗谷は人口一万人以上を誇るまでに発展し、北ノ京とも呼ばれたそうで。

 そんな栄華を誇った朝倉氏と一乗谷ですが、世は戦国となり、勢力を拡大してきた織田信長と対立し、信長包囲網と言うべき勢力に与したものの、最終的には三万とも言われる大軍を以て攻め込まれた結果、11代当主である朝倉義景は自陣。一乗谷も灰燼に帰しました。

 その後信長より当地を含む越前八郡を与えられた柴田勝家は、一乗谷ではなく北ノ庄に本拠を構えたため当地は田畑の下に埋もれてしまったのですが、昭和42年(1967年)から発掘調査が開始されたことにより、これまで文献上の存在であった、栄華を誇った当時の様子が明らかになるとともに、平成7年(1995年)には当時の町並みが一部復元されました。

実際に行ってみた

【福井市の郊外へ】
福井市の郊外へ
 冒頭に書いたとおり、丸岡城、そして称念寺のあった坂井市から国道8号を走って福井市へ至り、市内からは国道158号で大野方面へ暫く走ると、景色がだんだんとそれっぽくなってきて、県道31号から18号に入ると、この先は山間の土地なんだな、と。

【福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館】
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
 それでまずは、(県道18号沿いで)一乗谷朝倉氏遺跡の手前にある福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館で、後述する復元町並との共通入場券を購入後、お勉強タイム。それにしても、一乗谷って、かつてはものすごい栄華を誇ったんですねぇ。

【復元町並駐車場入口】
復元町並駐車場入口
【復元町並入口】
復元町並入口
 そしていよいよ、遺跡へと歩を進めるのですが、何カ所かある駐車場のうち、一乗谷を流れる一乗谷川の左岸(上流から下流に向かって眺めたとき左側の岸)側、復元町並みを通り過ぎてすぐの所にある駐車場に。空きスペースには多少余裕があったものの、観光バスを含め結構な台数のクルマで賑わっておりました。そして入口で日本100名城スタンプラリーのスタンプを貰い、先ほど購入した共通入場券でこの遺跡の目玉のひとつである復元町並の中へ。

【南側から見た復元町並】
南側から見た復元町並
【武家屋敷跡】
武家屋敷跡
【復元された職人宅】
復元された職人宅
【復元された職人宅の内部】
復元された職人宅の内部
【復元された職人の庭から】
復元された職人の庭から
【復元された商家】
復元された商家
【復元された商家の内部】
復元された商家の内部
【復元された武家屋敷の庭】
復元された武家屋敷の庭
【復元された武家屋敷の内部(1)】
復元された武家屋敷の内部(1)
【復元された武家屋敷の内部(2)】
復元された武家屋敷の内部(2)
【復元された武家屋敷のトイレ】
復元された武家屋敷のトイレ
 で、復元町並みですが、これがジオラマというか箱庭好きな自分的に、とても興味深く面白かったというか。山側に大きな武家屋敷跡の土壁、そして反対側は商家や小さめの武家屋敷などが建ち並んでいる様は、何とも見事ですし、また経年によって良い感じでウェザリングされてきているというか。最近は、城下の建物まで復元されたりしているお城も増えてきたような印象があるのですが、ここまでの規模で復元されているというのは、なかなかないんじゃないでしょうか。

【おやかた橋】
おやかた橋
【一乗谷川】
一乗谷川
 一乗谷川左岸側の復元町並を堪能した後は、その名も「おやかた橋」で川を渡って右岸側へ。

【朝倉氏館跡の堀と土塁その(1)】
朝倉氏館跡の堀と土塁その(1)
【朝倉氏館跡の堀と土塁その(2)】
朝倉氏館跡の堀と土塁その(1)
【朝倉氏館跡の唐門】
朝倉氏館跡の唐門
【上から見た朝倉氏館跡の内部】
上から見た朝倉氏館跡の内部
 右岸側も見所満載なのですが、まずは、立派な土塁と水堀に囲まれた朝倉氏館跡へ。かつての正門の位置に置かれた唐門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたとのことで、現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものだそうで。それにしても、敷地の広さからかなりの規模だったことがわかりますね。

【湯殿跡】
湯殿跡
【湯殿跡庭園】
湯殿跡庭園
 朝倉氏館跡の上部にあるのが、国の特別名勝に指定されている湯殿跡庭園。16世紀初の、朝倉孝景の時代に造られたと考えられており、現在は石組みだけが残っていますが、当時は中の池に水をたたえた回遊式の庭園だったそうで。

【堀跡その(1)】
堀跡その(1)
【堀跡その(2)】
堀跡その(2)
【中の御殿跡】
中の御殿跡
【中の御殿南門跡】
中の御殿南門跡
【道路跡】
道路跡
 湯殿跡庭園とお隣の中の御殿跡の間には、堀が刻まれていました。そして中の御殿跡は、朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡。ここも朝倉氏館と同様に、まわりを土塁で囲まれていたそうで。で、そこを抜けると当時の道路跡や、山肌を削った意味ありげな段差などが。

【諏訪館跡】
諏訪館跡
【諏訪館跡庭園】
諏訪館跡庭園
 次に訪れたのが、これまた国の特別名勝となっている諏訪館跡庭園。諏訪館というのは朝倉義景の妻「小少将」の館で、その庭園は遺跡の中でも最も規模の大きいものだそうです。

【米津】
米津
 諏訪館跡の下の方のあるのが、米津と呼ばれるここも周囲に土塁を巡らせた土地。朝国氏館跡にも近く、また出土品などから、刀装具などを制作する、朝倉氏から特別な権限を与えられたお抱えの金工師が住んでいたと考えられているそうで。

【平面復元地区】
平面復元地区
【下城戸の堀と土塁】
下城戸の堀と土塁
 あとは、諏訪館橋を渡って左岸側の駐車場に戻ってクルマに乗り、途中の平面復元地区や、一乗谷の出入り口であった下城戸と呼ばれるところを見つつ引き上げました。

感想とかまとめとか

 というわけで一乗谷城というか、朝倉氏遺跡だったのですが、某携帯電話のCMで見知った鄙びた山間の田畑が、かつて栄華を極めた城下であったというのは、諸行無常盛者必衰の理を思いっきり感じて、とても感慨深かったというか。で、その一助となったのが、復元町並。一部とはいえ町並みがあるということは、当時の姿を想像する上で大いに役立ちました。ですが今回、時間と体力的な都合で山城を初めとするいくつかの遺構をスルーしてしまったのは、かなり勿体なかったというか。なので、いつかそれらを整えて、リベンジしたいと思います。

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