たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 43/100城目 大洲城 【平成27年1月9日】

「大洲城」の看板

 1月に行った四国(とちょっとだけ広島)旅行の初日。宇和島城の次に向かったのが、こちらも日本100名城のうちの1つである大洲城です。


大洲城について

 大洲城は、愛媛県大洲市にある梯郭式の平山城。

 鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、伊予国の守護に任ぜられた宇都宮豊房が、当時は大津と呼ばれた当地を流れる肱川と久米川の合流点付近にある地蔵ヶ岳に城を築いたのが始まりとされ、当時はその名前を取って地蔵ヶ岳城と呼ばれたそうで。ちなみに、肱(ひじ)川は、築城の際に人柱となった娘の名前である「おひじ」から取られたという言い伝えがあるそうで。

 その後豊房を含めて8代、200年以上にわたって伊予宇都宮氏の本拠となっていましたが、戦国時代末期の永禄11年(1568年)、現在の道後温泉近くにある湯築城を本拠とする河野氏と、あの小早川隆景を筆頭とする毛利氏の援軍に破れ、伊予宇都宮市は滅亡。(これは伊予宇都宮氏のバックに付いていた土佐一条氏と河野氏の争いに毛利氏が荷担したのですが、その背景には、九州侵攻を企てる毛利氏と九州の大友氏との争いも影響していたそうで。)地蔵ヶ岳城は、河野氏の家臣(っていうよりも独立した勢力だったそうですが)である大野直昌が預かることとなったそうで。ですが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国討伐にあたって、当時の河野家当主である通直は、小早川隆景の説得を受け秀吉に降伏。その際直昌は、伊予を去ることになった通直にも従ったとも、攻め滅ぼされたとも。

 四国討伐の後、当地周辺は小早川隆景が拝領することになりますが、その際、城には城代が置かれました。また天正15年(1587年)、 隆景は筑前国に転封となり、替わって戸田勝隆が領主となった際には地蔵ヶ岳城が主城となったのですが、勝隆は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役のほう)の際に朝鮮に渡り、文禄3年(1594年)、陣中で病ここが没してしまいました。

その後、城を領することになったのが藤堂高虎。城主となったのは、文禄4年(1595年)に板島(現在の宇和島)を領した時とも、慶長の役の戦功によって慶長2年(1597年)加増された時とも。(この辺を詳しく書いてある資料がネットでちょっと探したくらい者見つからなかったもので…。)それで高虎が地蔵ヶ岳城を本城としたのかどうかはわからなかったのですが(公式サイトには当初は居城としたと書いてありますが。)、関ヶ原の戦いの後の加増で今治を領するようになると、丹羽長秀の子で高虎の養子になっていた藤堂高吉が城代を努めました。で、この高虎が領していたこの時期に、城の改修を行ったり、城下町の整備が始まったりしたらしいです。

 それで慶長13年(1608年)に高虎が伊勢国津藩に転封となった後も、地蔵ヶ岳城のある大津は高虎預かりの地のままだったのですが、慶長14年(1609年)9月、淡路国洲本藩主であった脇坂安治が5万3千5百石で入部。その際、地名をこれまでの大津から、洲本の「洲」を取って大洲と改めたらしいです。(ただし、これには異説もあるようで。)また、城の名前も大洲城となり、天守などが整備されたのですが、一説には、その際洲本城の天守を移築したとも言われています。その後、息子の安元に代替わりしたのち、元和3年(1617年)に信濃飯田藩5万5000石に加増移封となりました。

 替わって同年、伯耆国米子からやってきたのが、加藤貞泰。この後、明治を迎えるまで、加藤家が代々城主を務めることになるのですが、その間、享保7年(1722年)に三の丸南隅櫓焼失したり(明和3年(1766年)に再建。)、天保14年(1843年)に失われていた苧綿櫓を再建したり、安政4年(1857年)には伊予大震によって台所櫓と高欄櫓が大破したり(安政6年(1859年)に台所櫓が、万延元年(1860年)に高欄櫓がそれぞれ再建。)したそうで。

 やがて明治に入ると、大洲城は廃城となって城内のほとんどの建築物は破却されてしまったのですが、地元住民の活動によって天守や櫓は一部が保存されました。ですが、天守は老朽化などのために明治21年(1888年)に解体されてしまうという。そして昭和28年(1953年)に、大洲城跡として県指定史跡に指定され、昭和32年(1957年)には台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定。それらの建物は、昭和34年(1959年)から昭和45年(1970年)にかけて修復されました。また、平成6年からは天守の復元事業に着手。これは明治期の古写真、築城当時使用された雛型(残っていたのは大変珍しいそうです。)、発掘調査などの資料に基づき、往事の姿を木造建築で忠実に復元しようとしたのですが、建築基準法で高層の木造建築は認められていたないため難航。(なので、保存建築物として建築基準法の適用除外を認めるよう県や国との折衝を重ねそうで。)ですが平成14年(2002年)着工することができ、平成16年(2004年)に完成しました。

実際に行ってみた

【高速道路走行中】
高速道路走行中
 宇和島から大洲まで、40km弱。宇和島城の駐車場に戻ってきたのが午後1時50分頃だったので、ここから下道で行っても午後3時過ぎには到着できたかもしれないのですが、高速で一気に。といっても途中、ほとんどが対面通行なので、ばびゅんとは飛ばせないのですが。

【市民会館駐車場入口】
市民会館駐車場入口
【市民会館駐車場】
市民会館駐車場
 それでも、宇和島城から35分ほどで、大洲城最寄りの有料駐車場である市民会館駐車場到着することができました。ちなみに駐車場はこちらの他、ちょっと離れたところに無料の観光第一駐車場というのも有ったみたいですね。それで駐車場の所にある案内図を見てどのように廻るか検討。大洲城の建物、しかも国重文に指定されている櫓などは、お城の本丸の他、その周囲数100mの市街地に点在している感じなので。

【三の丸南隅櫓】
三の丸南隅櫓
【旧加藤家住宅主屋】
旧加藤家住宅主屋
【外堀跡と南隅櫓】
外堀跡と南隅櫓
 それで最初に向かったのが、駐車場から南東方向にある、国重文の三の丸南隅櫓。櫓の達所はポケットパーク的に整備され、「お殿様公園」という愛称が付けられていたのですが、これは公園内の、旧大洲藩主加藤家が大正14年に建てた住宅(とそれをロケで使用した『男はつらいよ 寅次郎と殿様』)に由来するようで。で、櫓自体はかなりコンパクトなのですが、公園を出て大洲高校のあたりから外堀の跡(高校のテニスコートになっていました)ごしに見ると、これが何とも良い感じで、往時の佇まいを偲ぶことが出来ました。

【肱川】
肱川
【苧綿櫓】
苧綿櫓
【別角度から見た苧綿櫓】
別角度から見た苧綿櫓
 次に向かったのが、肱川のほとりに経つ、これまた国重文の苧綿(おわた)櫓。ちなみにこの肱川は、古式泳法の神伝流発祥の地だそうで、それを示す石碑が櫓の近くに建てられていました。また、鵜飼も行われており、6月から9月がそのシーズンになっているようです。

【市民会館裏手の石垣】
市民会館裏手の石垣
 その他点在する歴史スポットにも惹かれたのですが、それらは再訪時の楽しみに取っておくことにして、いよいよメインの城郭中心部がある城山へ。それで市民会館裏手の階段から入ることにします。

【水の手櫓・水の手御門跡】
水の手櫓・水の手御門跡
【帯曲輪から見た天守】
帯曲輪から見た天守
【帯曲輪の石垣】
帯曲輪の石垣
 そこから真っ直ぐに天守を目指しても良かったのですが、折角なので、城山の北側をぐるっと取り囲む肱川沿いというか肱川を見下ろす帯曲輪を通って行くことに。で、その途中、水の手櫓と水の手門跡があったのですが、かつてはこの門から直接肱川の水面に出ることが出来たそうで。で、この帯曲輪から天守を見上げれば、途中、幾重にも曲輪と石垣が重なり何ともテクニカルな感じが。で、この大洲城も、前述のとおり築城の名手である藤堂高虎公がかかわったお城なのですが、この石垣はいつ頃積まれたものなんですかね。

【北の菱御門(二の丸搦手門)跡】
北の菱御門(二の丸搦手門)跡
【北の菱御門跡から内堀跡を見下ろす】
北の菱御門跡から内堀跡を見下ろす
 帯曲輪で城山をぐるっと半周すると、二の丸の搦手門であった北の菱御門跡へ。ここから見下ろす内堀跡は、現在は菖蒲園になっています。

【二の丸の玉櫓跡】
二の丸の玉櫓跡
 大洲城の二の丸はいくつかのエリアに別れていてやたらと広い印象なのですが、そのうちの肱川に面した部分は、川越しの攻撃に備えて玉櫓や鉄砲櫓という付け櫓の付いた二重櫓を配置して防御を固めていたようです。で、他の部分は帰りに見ることにして、とりあえず本丸へ。

【本丸下段の井戸跡】
本丸下段の井戸跡
【本丸下段のかま櫓跡付近】
本丸下段のかま櫓跡付近
 大洲城の本丸は上下二段に分かれているのですが、その下段部は井戸があったので井戸丸とも呼ばれたそうで。で、井戸の周りでは発掘調査が行われていました。また井戸の他にも、かま櫓という二重櫓があったそうで。

【暗り門跡】
暗り門跡
 本丸下段から上段への入口に有ったのが、大洲城最後にして最大の門だったという暗り門跡。

【本丸上段】
本丸上段
【連結式天守群】
連結式天守群
【台所櫓】
台所櫓
【天守】
天守
【高覧櫓】
高覧櫓
 そんなわけで本丸上段。3棟の櫓からなる複合連結天守は、大洲に入ってからこれまで、様々な角度から見てきたのですが、間近で見ると、たいへん不思議なことに建物は大きいにもかかわらず、思いの外コンパクトにまとまっているような印象を受けました。ちなみに、両端の台所櫓と高覧櫓は現存建築物で国重文、中央の天守は木造復元となっています。それにしても、この復元は素晴らしいですね。あと、日本100名城スタンプラリーの酢端部はこの天守内にありますので。

【御門番長屋】
御門番長屋
 複合連結天守を堪能した後は再び二の丸へ。で、こちらの二の丸は前述のとおりやたらと広くて、更に、仕切り塀でいくつかのエリアに分かれているのですが、その所々には門が設けられており、そこにあったのがこの御門番長屋。ちなみに、当時の絵図を元にした復元建物です。

【下台所】
下台所
 その後も二の丸は続き、だいぶ降りたところにあるのが下台所。食料庫として使われていた建物らしいです。で、こちらは当時の現存建物で、県の指定文化財となっています。

【櫓下御門(二の丸大手門)跡】
櫓下御門(二の丸大手門)跡
【櫓下御門の石垣】
櫓下御門の石垣
 最後は、櫓下御門(二の丸大手門)跡からクルマを停めた市民会館駐車場へ。何気に立派な石が使われていますね。

感想とかまとめとか

 というわけで大洲城だったのですが、街中に三の丸南隅櫓や苧綿櫓などが点在していることによって、このお城がかなりの規模を誇ったということが実感できると同時に、城下町の雰囲気を色濃くしているような。また、街中至る所から見えた、木造復元の天守を含む複合連結式天守は、本当に見事!城跡でイマジネーションを働かせるのも良いですが、こうやって当時の姿をリアルに実感できるのも、これはこれでとても良いものですねぇ。大洲と宇都宮の繋がりも知ることが出来たし、何ていうか、色々と満たされた訪問となりました。

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