たひお備忘録

惑い迷える40代の、食べ歩き、競馬の旅打ち、城巡りなんかの記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

忍城 【平成26年11月22日】

「忍城址」の石碑

 これまでの記事でも書きましたが、11月のこの日、羽生で行われたあるイベントを見に来たのですが、そのついでに(といっては失礼ですが)お伺いしたのが、映画『のぼうの城』(個人的に大変面白く見させていただきました。)の舞台となった忍城です。


忍城について

 忍城は、埼玉県行田市にある平城。関東七名城の一つに数えられています。

 それでこの忍城が在る一帯は、もともと利根川と荒川に囲まれた沼沢地で、そこに15世紀後半に、成田氏によって築城とされています。(行田市のウェブサイトによると、文明11年(1479年)の古河公方の書状に「忍城」「成田」とあることから、この頃には既に成田氏の居城として当地に在ったようで。)ちなみに、当時は沼地を埋め立てずに島に橋を架けて城が築かれたそうなのですが、櫓は作られず、本丸は空き地として、城主は二の丸に築いた御殿に住んでいたそうで。その後、関東の城らしく、また成田氏も生き残りを賭けて付く相手を変えたりした結果、後北条氏(北条氏康)に攻められたり、上杉氏(上杉謙信)に攻められたりしましたが、それらを退けたり、降伏はすれど落城は経験せず、成田氏の居城で有り続けました。

 そんな中迎えた天正18年(1590年)。当時成田氏は後北条氏に付いていたのですが、天下統一の総仕上げとして豊臣秀吉が後北条氏の勢力を下さんと関東に攻めてきますが、その時、忍城攻略を秀吉から仰せつかったのが、当時、豊臣政権の奉行であった石田三成。秀吉配下の大谷吉継、長束正家、真田昌幸、信繁(幸村)父子らそうそうたるメンバーと、一説には23000騎とも言われる大軍で攻め寄せますが、結局、三成は秀吉の命によって長大な堤を築き忍城を水攻めをさせられることになります。しかし、水攻めを当てにした諸将は士気が低く、また堤が完成しいざ堤内に水を引き入れても、忍城は水に沈まず(実際は城の在った場所の地形が周囲よりも僅かに高かったかららしいですが)、挙げ句は堤の決壊によって水攻めは失敗。ちなみにこの時、「忍の浮き城」との異名が生まれました。それに加えて(城主は小田原城に籠城中だったので)留守を預かる城代の成田長親や、後に秀吉の側室となる甲斐姫(城主成田氏長の娘)を中心とする守備側の士気も高かった(もっとも、甲斐姫の活躍については後世の創作っぽいですが。)ため、武装した農民を含む3000人の兵によって城を守り切ることに成功。最終的には、小田原城の開城によって、こちらも開城となりました。

 後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は、文禄元年(1592年)に四男の松平忠吉を入城させますが、まだ若かった為、実際は後見の松平家忠や代官の伊奈忠次、家老の小笠原吉次の助けによって、水攻めによって荒廃した城と城下を復興すると共に利根川の治水工事や新田開発などを実施しますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功をあげた為、尾張国尾張藩に加増移封。その後天領を経て寛永10年(1633年)、「知恵伊豆」と称された松平信綱が入封。徳川家光政権下で老中昇進し、寛永14年(1637年)から翌年に掛けて起こった島原の乱での活躍もあり、寛永16年(1639年)には武蔵国川越藩に加増移封となりました。替わって、同じく家老であった阿部忠秋が入封し、その後暫く阿部氏が城主を務めます。それで忠秋の頃は5万石だった石高が、孫の正武の頃には10万石まで加増。(ちなみに、「うまい うますぎる」で有名な十万石饅頭のふくさや(株式会社十万石ふくさや)は、この忍城のある埼玉県行田市の会社です。)また正武は、忍城を近世城郭として整備し、元禄15年(1702年)には、御三階櫓を普請したそうで。やがて文政6年(1823年)、阿部氏は陸奥国白河藩へ移封となり、替わって伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯が10万石で入封。以後幕末まで松平氏(奥平松平家)が城主を務めました。またこの際に旧領から持ち込まれた時鐘は、二の丸に設けられた鐘楼に置かれ、明治に至るまで時を告げ続けたそうです。

 そして明治に入り、明治4年(1871年)7月に行われた廃藩置県では忍県の県庁が二の丸に置かれましたが、ほどなくして(同年11月)埼玉県に統合。その後明治6年(1873年)に、明治政府は東京に一番近い親藩であるという理由で忍城の建物一切の取り壊しを命じ、一部の門が移築された以外は、御三階櫓などほぼ全ての建物が取り壊され、城跡は公園となりました。戦後は公園が拡張されたりしたそうなのですが、昭和63年(1988年)、本丸跡地に行田市郷土博物館が開館。その際、かつての鳥瞰図をもとに御三階櫓が鉄筋コンクリート造で復興されましたが、大きさや位置などについては往時の物と異なるそうです。

実際に行ってみた

【駐車場】
駐車場
 前の記事であげた羽生市のうどん屋さんから忍城までは、国道125号行田バイパスや国道125号を通って約25分ほどで到着。それでこのあたり、既に忍城の本丸でございます。

【行田市郷土博物館】
行田市郷土博物館
 まずは、こちらでお勉強。忍城の他、行田の歴史などかなり見応えがありました。ちなみに、復興天守というか御三階櫓も展示室の一部になっていて、そことは通路で結ばれています。また、こちらの入口付近では、『忍城おもてなし甲冑隊』の皆様が活動をされていました。

【鐘楼】
鐘楼
 前述の、伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯公が持ってきた鐘を模した物が掲げられています。ちなみに本物は郷土博物館内にあり、元々は享保2年(1717年)に当時の伊勢桑名藩主だった松平忠雅によって鋳造されたが火災で割れてしまった物を、子の忠刻が宝暦14年(1764年)に再鋳したものとのこと。また、鐘は時鐘として六つと正午に鳴らされていましたが、慶応4年1月14日大雪の夜、維新の急変の一報により「藩士集合せよ」と乱打されたというエピソードもあるそうです。

【水堀】
水堀
【水堀に掛かる橋と復興門】
水堀に掛かる橋と復興門
 往時の遺構かはちょっと判らなかったのですが、水堀もありました。またそこには良い感じの橋が架けられ、その際には良い感じの門もあったのですが、どちらも復興されたもののようです。

【御三階櫓】
御三階櫓
 前述のとおり、内部は郷土博物館展示室の一部となっています。それにしても、水堀+櫓があると、否応なしに「お城」になりますね。

【櫓の石垣の石】
櫓の石垣の石
 城内の何カ所かに置いてあったのが、櫓の石垣に使われていたという石。近世に作られた石垣らしく、ビシっと整形されています。

【伝 進修館表門】
伝 進修館表門
 忍藩の藩校であった進修館の表門と伝わる移築門。ちなみに城内にはもう一つ、往時の移築門があったらしいのですが、見事に見逃しました。

【本丸土塁】
本丸土塁
 現在の忍城址の中で唯一と言って良いハッキリとした遺構が、この本丸土塁。かなりの厚みと高さです。

感想とかまとめとか

 というわけで忍城だったのですが、近くの水城公園を一緒に見なかったのは痛恨事。お陰で往事の姿を忍ぶ材料が少なく、ただそこにある物を眺めただけになってしまった気がします。ただ、幸いなことに行田市は自宅から100km程度とお伺いするのに苦になるような距離でもなく、また今回スルーしてしまったB級グルメなんかもたくさんあるので、なのでいつかまた、水城公園とセットで訪れたいと思います。

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