趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
正月休みも最終日となったこの日。実は年末から、私も相方も体調が優れなかったこともあり、初詣と初ラーメンを食べに出た以外はほとんど寝正月になってしまっていた(というか寝込んでいた)のですが、体調もだいぶ良くなったので、お隣の福島県にあるまだ未踏だった日本100名城の1つ、二本松城にお伺いすることにしました。
二本松城は、福島県二本松市にある梯郭式の平山城。
その築城時期については、応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年~1443年)と2つの説があるらしいのですが、室町幕府から奥州探題に任ぜられ、当地に移り住んだ畠山氏が土地の名を二本松と改め、その後、白旗ケ峯の山頂付近に居所を移したのが始まりとされています。
その畠山氏ですが、戦国時代に入ると天正13年(1585年)、後に奥州の覇者となる伊達政宗に攻められて戦となり、同年に起きた粟之巣の変事によって、当時の畠山氏当主であった義継が、政宗の父である輝宗ごと射殺されました。その後も義継の嫡男、国王丸をたて籠城を続けたのですが、伊達成実の調略を受け翌年に開場。ちなみにこの辺り、個人的には大河ドラマの『独眼竜政宗』で知ったんですがね。で、政宗は、片倉小十郎景綱や先述の成実などを城代に据え、城の改修も行わせたという話も。
ですが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の奥州仕置に端を発した葛西大崎一揆の際、政宗の一揆への関与が疑われ、最終的に二本松は会津を領していた蒲生氏郷の所領となり城代が置かれました。で、その際、城域の拡大や穴太積みによる大石垣の普請が行われました。その後、安土桃山時代から江戸時代初期にかけ、会津の領主と共に城代もめまぐるしく替わったのですが、二本松市の公式ウェブサイトに載っているだけでも、会津領主が蒲生氏郷の頃に3名、上杉景勝の頃に2名、蒲生秀行(氏郷の子)とその子忠郷の頃に6名もの名が見えます。そして忠郷が若くして没した後、一旦幕府領を挟んで1627年(寛永4年)、加藤嘉明が会津藩主に封ぜられますが、その際、娘婿の松下重綱が二本松城主となって二本松藩が立藩。嘉明の与力大名となります。しかし、同年、重綱は早々に亡くなってしまったので嫡子の長綱が家督を継ぐも若年を理由に翌年三春に移封。入れ替わりに嘉明の三男である明利が城主となりますが、寛永18年(1641年)に改易となり、その後再び幕府領となりました。
それでようやく城主が落ち着くのが寛永20年(1643年)、丹羽長秀の孫である丹羽光重が入封されてから。光重は城及び城下の大改修を行い、本丸の石垣や三重の天守を築いたとされますが、この頃から城の中心は山頂の天守ではなく山麓の御殿に移ったとも考えられているそうで。で、以後、幕末まで丹羽氏が代々城主を務めます。
そして迎えた慶応4年(1868年)。戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったのですが、孤立無援という感じになってしまい、僅か1日で落城。その際、後に二本松少年隊と呼ばれる少年兵達も多数戦死するというたいへん痛ましい事件も起こりました。また、この時、城内の建物はほとんど焼け落ちて閉まったのですが、残った建物についても、明治5年(1872年)の廃城令の際に破却。翌年には城跡(旧三の丸)に製糸会社が操業を開始し、途中で会社か替わりつつも大正末期まで続いていたそうで。
以降は、昭和10年(1935年)に城内の「旧二本松藩戒石銘碑」が国史跡に指定。戦後の昭和24年(1949年)には霞ヶ城公園が県立自然公園に指定されました。また。昭和30年(1955年)からは現在も続く「二本松の菊人形」が始まりました。(余談ですが、個人的に二本松=菊人形というイメージなんですよね。)また、昭和57年(1982年)には箕輪門とそれに続く附櫓が復元され、平成2年(1990年)からは学術調査が開始され、それらの成果を元に平成5年(1993年)からの本丸修復工事によって、天守台や本丸石垣が復元整備されました。そして平成19年には、「二本松城跡」として城跡が国史跡に指定されました
【東北自動車道二本松IC付近】
【箕輪門付近の駐車場】
そんな二本松城ですが、自宅からそれ程遠くないにもかかわらず、これまで訪れたことはありませんでした。ですが、正月休みも最終日を迎えたこの日、東北自動車道を北上。自宅から約2時間でお城へと到着しました。
【二本松少年隊群像】
【千人溜】
駐車場から入口の箕輪門を目指す途中にあったのが、城内への要衝である大壇口で戦う二本松少年隊と我が子の出陣服に肩印を縫い付ける母親を表したという二本松少年隊群像。またその以後は千人溜(せんにんだめ)と呼ばれた藩兵の集合場所で、少年隊士もここから持ち場に出陣したそうです。
【箕輪門】
【箕輪門と三の丸の間にある虎口】
二本松城の正門に当たるのがこの箕輪門。戊辰戦争の際に焼け落ちてしまったのですが、昭和57年に復元されました。また、この門から続くのは三の丸の高石垣で、もともと加藤氏時代(寛永4~20年)に築造されたものだそうです。それでここから三の丸へと登る為には、もう一つ虎口を通る必要があり、正門だけあってそれだけ厳重に防御されていたことを伺わせます。
【三の丸下段】
【三の丸上段】
上下二段に分かれ、かなりの広さがある三の丸は、前述のとおり加藤氏時代(寛永4~20年)に築造されたもの。明治初期に製紙工場が建設されたのもここです。
【旧観光会館】
三の丸の北側、案内看板だと本坂御殿と記されている場所には、現在は廃墟となった観光会館という建物が残されていました。で、良く見ると、置いてある看板は、大河ドラマで「独眼竜政宗」が放送されていた昭和62年(1987年)頃に造られたとおぼとき物でした。
【霞池】
【洗心亭】
【るり池】
【布袋滝】
【笠松】
【洗心滝】
三の丸の西南方向から山の中腹に掛けて、回遊式の庭園が造られています。で、その中にある洗心亭という茶亭は、城内唯一の江戸時代の建造物で、もともとは城内に建立された「墨絵の御茶屋」と呼ばれた茶亭を天保8年(1837年)に阿武隈川河畔に移築し藩主の釣茶屋として利用。そしてそれを明治40年(1907年)、元の所在地とみられる現在地に再移築されたものです。他にも、推定樹齢300年という笠松等が植えられ、また池や滝がいくつか造られているのですが、その池や滝の水源は、城の防御などを目的として丹羽氏自体の初期に、安達太良山麓の湧水から18kmもの水路(二合田用水)を築いて引き込んだものです。
【本宮館】
回遊式庭園の隣というか間にあるのが、現在はお社が建つ本宮館と呼ばれる小さな曲輪とおぼしきもの。この二本松城のある白旗ケ峯という山は室町時代から城として使われているので、そこら中(と言っては大げさかもしれませんが)にこのような曲輪だったとおぼしき箇所が見られます。
【新城館】
山の中腹にある二本松執念鯛の顕彰碑などが建っている曲輪が、新城館と呼ばれ中世から利用されているとのこと。天正13年(1585年)からその翌年にかけて伊達政宗が畠山氏を攻め、最後は畠山氏が自ら本城を焼いて開城したのですが、その後始末をした伊達成実が、焼け落ちた建物の残骸を埋めた跡があるそうで。また、慶長6年(1601年)~寛永4年(1627年)の蒲生氏時代には城代が2名置かれたのですが、そのうちの一人が詰めていた場所でもあります。
【搦手門跡】
【搦手門跡(別角度)】
新城館の北側あたりにあるのが、裏口に当たる搦手門跡。慶長初期(1590年頃)に建てられたもので、現在も石垣と礎石が残ります。
【とっくり井戸】
本丸北西側で本丸からだいぶ下のところにある曲輪にあるのがとっくり井戸。安全の為か蓋が掛けられ、中が見られないようになっていましたが、入口より内部が広いとっくりのような形状なのでその名が付いたとのことで、石組の状況から慶長期(1596~1614)の築造と考えられています。また、この井戸のある曲輪は、畠山氏の時代には熊野権現が祀られ権現丸と呼ばれていたのですが、慶長期には武家屋敷となっていたそうで。
【二段石垣】
本丸すぐ下の西側斜面にあるのが、途中に犬走り様の段差を持った二段石垣と呼ばれる石垣。二本松城最古の石垣の一つで、蒲生氏郷に抱えられた穴太衆の手による、布積み崩しという積み方で組まれているそうです。
【硝煙蔵】
今度は本丸を挟んで東側のだいぶ降りたところにあるのが、17世紀中頃~18世紀末頃まで曲輪として使用されていたと考えられる硝煙蔵と呼ばれる場所。建物の跡から蔵屋敷(硝煙蔵)や小さな番屋が建てられていたと考えられるとのこと。
【日陰の井戸】
硝煙蔵と本丸の間にあるのが、日陰の井戸と呼ばれる井戸。石組の状況から寛永期に築造されたものと考えられるそうです。
【大石垣】
本丸すぐ下の東側斜面にあるのが、大石垣と呼ばれる石垣。こちらも穴太衆の手による布積み崩しという積み方で組まれた、二本松城最古の石垣のうちの一つですが、天端付近に石が積み直された跡があることから、当初はもっと高い石垣だったと考えられているそうです。
【北東方向から見た本丸石垣】
【南方向から見た本丸石垣】
【北西方向(天守台方向)から見た本丸石垣】
お城のある白旗ケ峯の頂上付近に聳え立つのが、本丸の石垣。もともと慶長年間(1596年~)に蒲生氏郷が築いた石垣を、寛永年間(1624年~)に加藤氏が改修したそうで。
【天守台と丹羽和左衛門・安部井又之丞自刃の碑】
【西櫓台】
【東櫓台】
【天守台から安達太良山方向を望む】
山頂部と言うこともあって、本丸はさほど広くないのですが、天守台、西櫓台、東櫓台と3箇所物櫓が存在したようで。また、天守台の脇には、戊辰戦争の折に自刃した城代の丹羽和左衛門と勘定奉行の安部井又之丞の供養費が建立されているのですが、壮絶な最期を遂げた丹羽さんの具足 については、後述する二本松市歴史資料館で見ることが出来ます。それにしても、この日は天気が悪くて、ここから安達太良山を望むことが出来なかったのは残念でした。
で、お城のある白旗ケ峯を本丸まで上り詰めた後は、一度山を下りて駐車場に戻り、クルマで本丸北西部にある遺構を目指すことに。
【土塁】
【堀切】
それでいきなりですが、土塁と堀切。それと、この近くにあるL字型の堀切も見たのですが、撮ったはずの写真は良くわからぬ物が写っていたというか。で、とりあえず城跡探訪はここで切り上げ、日本100名城スタンプラリーのスタンプを貰いに。しかし、その道すがらにあった旧二本松藩戒石銘碑を素っ飛ばしてしまったのは、後から思えば何て勿体ないことをしたというか。
【二本松市歴史資料館】
【二本松藩丹羽家上屋敷跡出土の石垣】
そして最後は、日本100名城スタンプラリーのスタンプが置いてある、二本松市歴史資料館。周辺の地形地物などから、ここもかつては城内だった雰囲気がありますね。ちなみに、展示物は結構見応えがありました。それと、その建物の前には、現在の東京都千代田区永田町二丁目にあった二本松藩丹羽家上屋敷跡から出土した石垣石材が展示してありました。
というわけで二本松城だったのですが、行く前は菊人形展が開催されている「公園」というイメージだったものの、実際には想像以上に広く、想像以上に高低差がありました。で、(お城自体とは直接関係ないんですが)個人的に、明治維新の幕府側だったお城は、訪れると何とも辛い気持ちにさせるというか。特にこちらは激戦地の一つとされ、また二本松少年隊の悲劇があったものだから尚更。藩主を逃がした後、孤立無援となった城に残った人達は、攻め寄せる新政府軍を、どんな気持ちで眺めていたんだろう、なんて。
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