たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

勝連城 【平成26年8月29日】

「史跡 勝連城跡」の石碑

 沖縄滞在3日目にして実質最終日。今回、沖縄に渡った目的は、昨日までに全て予定通り果たすことが出来たので、この日はボーナスステージという感じで。それで、これまで何度か訪れている沖縄で何故か縁の無かったうるま市方面を中心に巡ることにしたのですが、まず手始めに、世界遺産にもなっているこちらのグスクにお伺いすることに。


勝連城について

 勝連城は、沖縄県うるま市にあるグスク。で、以下は例によって勝連城についてネットで調べたことを少々。

  • 勝連城はのある勝連半島(または与勝半島とも)は古来より人跡のあるところで、グスク付近にも貝塚が出土していますが、勝連城の発掘調査によって出土した遺物などから、13世紀前後には城砦として機能していたと考えられているそう。
  • また、伝承によれば、1309年に英祖王統の第2代大成王の五男が勝連を支配する按司として初代城主となり、その後も、勝連を支配する按司の拠点となっていました。
  • 勝連城を有名にしたのが、10代目にして最後の城主となった阿麻和利(あまわり)。15世紀、当時圧政を敷いていたとされる9代目城主の茂知附(もちづき)按司からクーデターで勝連の支配権を奪いました。そして阿麻和利は、善政を敷き民衆の支持を集め、またこれまでも行われていた大陸などとの貿易を更に推し進めることによって勝連を大変発展させたそうで、その様子を謳った琉歌が、『おもろうし(おもろそうし)』という琉歌集にも収められています。で、阿麻和利は麒麟児として大変にもてはやされたのですが、それに脅威を感じた当時の琉球国王尚泰久王(第一尚氏王統の第六代目)は、自分の娘である百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせ、関係強化を図りました。
  • しかし1458年。中城城の記事でも述べた「護佐丸・阿麻和利の乱」が発生。阿麻和利は尚泰久王の命令によって護佐丸を滅ぼしましたが、その後、阿麻和利に叛意があると知った百度踏揚が従者の鬼大城こと大城賢勇(うふぐしくけんゆう)と共に勝連城を脱出し、尚泰久王に知らせました。そして王は、鬼大城に王府軍を率いての討伐を命じ、それによって阿麻和利は討ち取られて(その際、鬼大城は正面から攻め滅ぼしたのではなく一計を案じたそうですが。)しまいました。
  • 阿麻和利が滅んだ跡も勝連城は、琉球王国第二尚氏王統の第3代国王尚真王が1526年に行った按司の首里集居まで使われていることが発掘調査の際の出土品から本命しているそう。
  • 後の世になると勝連城は荒廃して、明治以降は城壁の石積が道路などの建設資材に使われてしまったそうなのですが、近代になって発掘調査や整備が行われ、1972年(昭和47年)、沖縄の本土復帰に合わせて国の史跡に指定。その後、2000年(平成12年)にはユネスコの世界文化遺産にも登録されました。

実際に行ってみた

【沖縄北IC出口】
沖縄北IC出口
 今回の旅の宿である那覇市内のホテルから、途中、朝食いただいたり、平日朝の渋滞に巻き込まれたり(那覇市の渋滞って、結構激しいんですよね…。)しつつ、那覇空港道の南風原北ICから高速へ。西原JCTからは沖縄道に入り、沖縄北ICから一般道を通って1時間40分(朝食の時間を除くと1時間ちょっと)で、勝連城からは道路を挟んだところにある駐車場に到着。

【勝連城跡駐車場】
勝連城跡駐車場
【勝連城跡休憩所】
勝連城跡休憩所
【休憩所脇にあった顔出し看板】
休憩所脇にあった顔出し看板
 それにしてもこの勝連城跡駐車場ですが、とても広いですね。またその片隅には綺麗なトイレ付きの無料休憩所も整備されています。

【勝連城遠景】
勝連城遠景
【城への入口】
城への入口
 それで道路を渡っていざ、グスクへ、なのですが、城内は現在、整備工事が続いていて、昔整備されたとおぼしき通路は途中で途切れ、そのあたりには石積が整備中。で、現在はその脇に作られた道路が入口になっているようです。

【整備された外周?の石積】
整備された外周?の石積
【門口のカー(井戸)】
門口のカー(井戸)
 その道路を上り、途中、外周?の石積を過ぎるとそこは四の郭。そこには、井戸の遺構が何カ所かあったのですが、その中をよく見ると外来生物が沢山いて、ちょっとキモスな感じが…。

【四の郭から見た三の郭】
四の郭から見た三の郭
【南風原御門跡付近から見た三の郭】
南風原御門跡付近から見た三の郭
【三の郭への通路】
三の郭への通路
 それにしてもこの勝連城。布積みされた石積が綺麗ですね。三の郭の間は、元々、石畳の通路というか階段があったのですが、現在はその上(の大部分)に木製の階段が作られ、だいぶ登りやすくなっています。

【三の郭入口の門跡】
三の郭入口の門跡
 三の郭の門は、今帰仁城や中城城で見たようなアーチ状(上部まで石で囲われた)ものではなく、上半分がオープンになっているタイプ。上部が失われてしまったのか、それとも元はこの奥に櫓門でもあったのでしょうか?それとも、築かれた(改修された)年代の差なのか、様式の違いなんでしょうか?

【三の郭から二の郭を見る】
三の郭から二の郭を見る
【三の郭から二の郭へ上がる階段】
三の郭から二の郭へ上がる階段
【二の郭の舎殿跡】
二の郭の舎殿跡
 三の郭は、元々掘立柱建物が建ち並び、また、水を溜める施設と思われる遺構も発掘調査によって見つかっているのですが、時代が進むにつれ、奥の一段高くなった二の郭にある舎殿と一対になった広場として、儀式の際などに使用されたと考えられているそう。また、更に時代が進んで城が廃れた後は、御嶽が地元の信仰の場として利用されていたそうです。で、この、舎殿という組み合わせや、廃城後も御嶽が使われるって、沖縄のグスクによく見られる構図なのではないでしょうか。

【二の郭から一の郭への階段】
二の郭から一の郭への階段
【一の郭】
一の郭
【一の郭からの眺め(沖縄本島方面)】
一の郭からの眺め(沖縄本島方面)
【一の郭からの眺め(平安座島方面)】
一の郭からの眺め(平安座島方面)
 二の郭から更に一段高いところにあるのが、勝連城で最も高いところにある一の郭。ここからの眺めは、なかなかのものでした。ちなみに現在は郭を囲む城壁がとても低くなっていますが、かつてはもっと高かったと考えられています。

【一の郭から見た東の郭方向】
一の郭から見た東の郭方向
 これも一の郭からの眺めなのですが、二の郭、三の郭、四の郭方向。で、その奥の、現在木が生い茂っている低い山ですが、この山の手前一部(少しだけ一段低くなっている部分?)が、かつては勝連城の東の郭だったようですね。

感想とかまとめとか

 というわけで勝連城だったのですが、さすがは世界遺産というか、昨日、一昨日と見てきた日本100名に認定されたグスクに較べ、若干コンパクトに感じたものの遜色ない見応えでした。そこで、海風に吹かれつつ、志半ばで倒された阿麻和利に思いを馳せるのは、何とも良いものでしたね。また、現在も復元・整備工事が続いているようなので(個人的には、東の郭の整備に期待。)、それが進んだ頃、またお伺いしたいなぁ、と思いました。

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