趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
先月来、那須国造碑や侍塚古墳といった縁の地や、偕楽園に併設された常磐神社内の資料館を見たりとか、妙に水戸黄門のモデルとなった水戸光圀公づいているのですが、先日茨城県日立市のかみね動物園に行った帰り道。もういっちょ光圀公絡みでというか、光圀公が水戸藩藩主を隠居後に住んでいた西山荘に、ちょっと寄っていくことにしました。
水戸藩の2代目藩主であった水戸光圀が、元禄3年(1690年)に家督を3代目の綱條に譲った後、翌年に移り住み、その後亡くなる元禄13年(1700年)まで、大日本史の編纂や領民との交流を重ねたりして過ごしたのがこの西山荘。
完成は元禄3年で、華美を嫌った光圀らしく茅葺きの質素な住居。光圀の死後も歴代藩主により守られてきたのですが、文化14年(1817年)の野火により焼失し、現在の建物は、その2年後の文政2年(1819年)8代藩主齊脩により、規模を縮小して再建された物とのこと。そして現代に入り、昭和49年に茨城県の史跡に指定されました。
実は、西山荘に来るのは個人的に2回目。前回はこちらの都合で、西山荘の有料部分だけ見て帰ってしまったので、今回はじっくりと見られたらなぁ、と。
で、前回同様、無料の駐車場にクルマを停め、売店の脇を通って園(邸?)内へ。そのままずんずん奥へと進むと、西山荘の門の手前に売店が。そこから先は有料となってるので入園料を払って先へと進むのですが、大人735円と前回来た時と較べ値上されているような…。
【西山荘入口】
【入口のところの注意書き】
で、この先は注意書きのとおりなので写真は無し。中には、庭園と光圀の居宅の他、守護役の侍の居宅が復元され、中に光圀ゆかりの品などを展示してあります。
一通り見学後、駐車場に戻る道すがら、前回来たときに見なかった諸諸を見学。
【ご前田】
光圀が自ら耕したとされる田の一部で、一領民となられた証として、太田奉行所に13俵の年貢米を納めたとのこと。それにしても、黄門様自ら納めに来られたら、かなりびびっちゃうと思うのですが。(もっとも、お付きの方が納めたのでしょうが。)
【不老沢跡】
明治期に付近の水田を開拓した際に用水池となつてしまったのですが、かつてここは不老沢と呼ばれ、光圀に仕えた家臣達が居を構えたところだったそうで。
【佐々宗淳居宅跡】
佐々宗淳(さっさむねきよ)は、光圀の側近で、大日本史を編纂した彰考館の総裁も務めた人物。その総裁を辞した後、不老沢に居を構え、亡くなるまで光圀に近侍したそうで。(光圀の命で、那須国造碑や侍塚古墳の調査、修復の指揮を執ったのもこの方。)で、この佐々宗淳さん。通称が介三郎(すけさぶろう)で、水戸黄門の「助さん」のモデルになった方だそうです。
実は前回来たとき、その静謐な佇まいに結構感動した覚えがあった(じゃなければ、もう一度来てもよいとは思えなかった。)のですが、今回は…。私と相前後して団体客が押し寄せたのは仕方が無い事なのですが、その他にも、邸内の案内看板が一部無かったり無残に倒れていたりとか、震災復旧の為かは分かりませんが業者の方が作業をしていたりとか、前回来たときにとても良い雰囲気だった築山の熊笹が丸坊主になっていたりとか、何ていうか、前回と違って、この場所に十分に浸る事が出来なかったというか。これは仕方ないことかもしれませんが、正直、ちょっと残念だったというか。うーん…。
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