趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
会津若松城、山形城、多賀城と回った翌週末は、大人しく県内の史跡を観て過ごしたのですが、今週は再び日本100名城の1つである水戸城へ。といっても、前々エントリであげたアクアマリンふくしまい行った帰りというか、セットで出かけてきたのですが。あと、丁度『水戸梅祭り』というイベント期間中なので、ついでに偕楽園も巡ってこようかな、と。
水戸城は、茨城県水戸市にある茨城県指定史跡で、連郭式の平山城。別名は水府城とも呼ばれるそうで。(個人的には別名知りませんでした。)
イメージ的には徳川御三家(といってもそう呼ばれだしたのは5代将軍綱吉の頃かららしいですが)の一つである水戸徳川家の城なのですが、元々は鎌倉時代初期の建久年間(1190~1198年。っていうか、今は「1192つくろう鎌倉幕府」じゃないんですね。)、常陸国大掾(だいじょう。国司の事。)であった馬場氏(後に職名をとって大掾氏となる)が築き居城としたため、馬場城とも呼ばれていたとの事。
その後室町時代に入った応永23年(1416年)に起こった上杉禅秀の乱で、大掾氏は破れた上杉禅秀側に加担したため衰退。その後色々あって、足利幕府側についた江戸通房が城を奪取。以降は江戸氏の居城となりました。ですがもともと佐竹氏の分家だった江戸氏ですが、馬場城を奪った時には佐竹氏公認だったもののその後は仲が険悪となり、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、江戸重通は北条側に、佐竹義宣は豊臣側に付く事に。結果北条が破れ、佐竹氏は秀吉により常陸54万石の所領を安堵され、それを利用に重通に馬場城明け渡しを要求。重通が断ると馬場城を攻め、文禄3年(1594年)に重通は敗走。馬場城は義宣が手に入れる事になったのですが、これまで太田城が本拠であった佐竹氏は、本拠をこちらに移し、それを機に城を大改修。名も水戸城と改めました。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い。義宣はどっちつかずな態度を取った為、慶長7年(1602年)に出羽国秋田に転封。奥羽に睨みを効かせるため徳川家康は五男である武田信吉を入城させましたが、翌年に嗣子無く没し、次に十男の徳川頼宣を入城。そして慶長14年(1609年)、今度は末子で十一男の頼房が入城。以後廃城まで水戸徳川家の居城となりました。で、そうなると何てったって徳川家ですら、お城もさぞや豪華になったと思いきや、頼房は城と城下町を拡充したものの、天守は構えず、簡素な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造。自身の館も二の丸に構えました。また、櫓や多聞も極端に少なく塀を多用。また曲輪の周囲は石垣ではなく、土塁と空堀が取り囲んでいました。そして9代藩主の斉昭の頃、藩校である弘道館を天保12年(1841年)、弘道館で修行する藩士の休養の場とし、また領民と偕(とも)に楽しむ場にしたい(孟子の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から取ったとの事。)として名づけた偕楽園を開きました。また、偕楽園については水戸城の出丸という話あったらしいのですが、本当のところはどうなんでしょうか。
そして幕末。水戸藩は藩論が分かれ、改革派の天狗党が筑波山で挙兵し天狗党の乱が勃発。対立は明治維新まで続き、明治元年(1868年)に水戸城下で戦闘が行われた際、弘道館に立て籠もる保守派の諸生党を天狗党が攻撃したのですが、この際に城内の多くの建物が焼失。その後残っていた三階櫓も第二次世界大戦の水戸空襲により焼失。講道館以外で往時を偲ぶ建築物は、明治以降持ち主が変わる度に転々と移築され(お陰で空襲を免れた)、昭和56年(1981年)に旧本丸内にある茨城県立水戸第一高等学校内に移築された薬医門だけとなってしまいました。
行程の関係で、水戸城の前に、まず、偕楽園を訪問。
【大日本史完成之地の碑】
駐車場から遠回りして東門に向かう途中にひっそりと。大日本史を編纂していた彰考館は、明治維新後に偕楽園南隅にあったとは、今回初めて知りました。
【東門】
現在通用口となっているのは、昭和37年に建造された東門。今回はここからおじゃまします。
で、この後、好文亭でも観るべきなのでしょうが、今回はスルーして表門方向へ。
【杉林】
【孟宗竹林】
好文亭を過ぎるとまず杉林が。薄暗い中、木漏れ日が良い感じでした。そしてお次は孟宗竹の竹林。ちなみにこの竹は、元々は弓の材料にする為に、斉昭公が京より移植した物との事。
【表門】
こちらが、元々の表門。その色から、黒門とも呼ばれるそうです。で、元々のルートを逆走したようなような感じなのですが、やはり、表門から入って好文亭へと進むほうが、この庭園の雰囲気を堪能できると思います。
【梅林】
【紅梅】
2月20日より『水戸梅祭り』が始まっていましたが、園内の梅は「ちらほら」までも行かず「ちら…」くらいでした。
【常磐神社参道】
【義烈館】
こちらは、明治7年(1874年)に、園内に併設された常磐神社。で、ここにある義烈館という歴史資料館が、小さいながらもかなり見応えがあったというか。
と、今回はこのあたりで切り上げ、弘道館と水戸城へ。
【弘道館正面】
【正門付近】
弘道館は、東日本大震災で甚大な被害を受け、現在も修復作業が続いています。なので現在のところ、無料で部分公開中となっていました。
【売店】
日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。
今回は三の丸にある弘道館から、本丸方向へと歩いてみました。
【大手橋】
【二の丸と三の丸の間の堀切】
二の丸と三の丸の間の堀切に掛かるのが大手橋。かつては木造のでしたが、昭和 10年(1935年)に現在のコンクリート橋に掛け替えられたそうで。また、その堀切は、(かつては国道6号で現在は)茨城県道232号市毛水戸線となっています。
【大手門跡の虎口】
【二の丸方向からの大手門跡】
虎口の形が見事に残っていました。それにしても、土塁が何とも良い感じです。
【大日本史編纂之地と彰考館跡の碑】
【二の丸展示館】
考彰館跡は、現在水戸市立第二中学校となっています。そんなわけで大日本史編纂之地と彰考館跡の碑が。またそのすぐ近くには二の丸展示館という施設があって、小さいながらも、発掘調査の出土品など興味深い史料が展示されていました。
【杉山門跡】
二の丸から那珂川方面へと下るところにあります。
【本丸橋(の上より)】
【本丸と二の丸の間の堀切】
本丸と二の丸の間の堀切は、本丸橋という名の橋がかかっています。で本丸跡は、現在は茨城県立水戸第一高等学校の敷地に。また堀切には、JR水郡線が通っています。ちなみに、写真奥方向は那珂川で、偕楽園のところの千波湖共々、水戸城の天然の堀としていたそうです。
【本丸の虎口】
茨城県立水戸第一高等学校の入り口にも虎口の跡が。
【薬医門】
前述のとおり現存する唯一の建築物で、戦国末期の物らしいです。見事ですね。
というわけで、行く前はあまり遺構も残っていなそうかなぁ、などと思っていたのですが、実際には堀切や土塁が残り、弘道館から本丸跡(薬医門)まで往復しただけで結構満足してしまったというか。やっぱり、実際に行ってみると、流石は日本100名城というか、違う物ですね。で、今回観なかった三の丸に残る空堀や土塁については、後日改めてゆっくりと見に来たいと思います。
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