趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
春日山城は、新潟県上越市にある連郭式の山城。その春日山城について、例によってウィキペディアや上越市のウェブサイトなどで調べたことを、個人的おぼえがきがてら以下に。
と、廃城になったのが江戸時代初期のため、それ以前の記録があまり残っておらず、これの前に訪れた松代城とは対照的ですね。
【上越高田ICから一般道で】
春日山城って、一度も行ったことが何にもかかわらず妙に親しみがあったのですが、それは北陸自動車道の春日山トンネルを何度となく通ったからかと。でも今回、春日山城に初めて行くに当たっては、(昨夜泊まった)長野からだったので、上信越自動車道の上越高田ICから一般道を少々走って向かいました。
【春日山神社山道】
今回は、春日山神社から登城というか登山を開始。それでまずは、祀られている謙信公にご挨拶を。
【お屋敷】
春日山神社境内のはずれというか登り口にあるのが、城主の館跡と伝わる「お屋敷」という曲輪。
【登山道】
お屋敷から春日山山頂付近にある本丸を目指すのですが、途中の道はだいたいこんな感じで続きます。このあたりは、まだまだ余裕というか、朝の空気と木漏れ日が大変心地よいというか。
【千貫門跡】
【千貫門付近の曲輪?】
【空堀】
山道を登っているとまず現れたのが千貫門跡。そしてその内側には空堀が配されていました。で、内側何故「千貫」なのかは判らなかったのですが、ここが春日山城の重要ポイントというのは地形や遺構からもなんとなく判ります。
【上杉少弼入道屋屋敷跡】
千貫門の近くにあったのが、「上杉少弼入道宅阯」という石碑の建ったさほど広くない曲輪。長尾景虎は上杉を継いだ時、上杉家の持っていた弾正小弼(だんじょうしょうひつ)の職も継いだと自称しますが、だとすると、謙信宅?でも、城主の館は春日山神社の所にあったし。だとすると、色々あって越後に逃れたのち景虎を養子にして家督を譲った上杉憲政のお宅ですかね??
【搦手】
千貫門からちょっとの掘ったところの左手は空堀になっているのですが、その向こう側に「搦手」という石碑が建っていました。ということは、搦手から続く道がここに通じていたということなんですかね?
【虎口】
次に現れたのが虎口。写真だと判りづらいのですが、ここから本丸方面へと行くためには、クランク状に折れた細い坂道を登ることになります。
【直江屋敷跡】
虎口を過ぎると、高さ的に三段に別れたかなり広い曲輪に出るのですが、そこには直江屋敷との案内看板が。直江と言えば山代守兼続が有名ですが、兼続の義父にあたる直江景綱は長尾為景から仕える宿老。もっとも、三段とも直江家の屋敷だったというわけではないという話もあるみたいですが。
【お花畑】
直江屋敷からちょっと登ると、薬草や春日山に複数有るお堂に供える花を育てていたというお花畑が。で、先程直江屋敷を通ってきた後に同行者の言った一言がきっかけで、お花畑の真ん中でキャッキャウフフしている兼続とお船(を演じた妻夫木聡と常盤貴子)が頭に浮かんでしまい、少々困りました。
【毘沙門堂】
お花畑の奥というか隣接する一段高くなっているところ建っているのが毘沙門堂。昭和6年(1931年)に復元されたものでしょうか。
【護摩堂】
毘沙門堂の隣の、更に一段高くなっているところには護摩堂があったとされる場所。上杉謙信は、毘沙門堂と共に、ここにも籠もっていたんですかね。
【休憩所】
護摩堂を過ぎると、休憩所の東屋が。これまでも小休止しつつ登ってきたのですが、だいぶやられていたのでここでも暫し休憩を。
【本丸】
休憩所を過ぎれば、とうとう本丸に到着。春日山神社下の駐車場からここまで、写真を撮りながら、また何度か休憩しながら登って約1時間ほどかかりました。
【天守閣阯】
【天守閣阯からの眺め】
本丸の隣、本丸より一段低くなっている曲輪には、なんと「天守閣阯」との石碑ありました。春日山城にもともと戦国時代の山城だったので、一般的な天守は無かった筈なのですが、後世の想像による復元図には、しっかりと天守が描かれたものもあるそうで。まあ、どんな建物があったかは別として、良い眺めのところでした。
【井戸曲輪】
本丸からは、来たときと別ルートで下るのですが、まず現れるのが井戸曲輪。大きな井戸は何と水をたたえているではありませんか。
【鐘楼阯】
井戸曲輪より一段低い小さな曲輪には、「鐘楼阯」との石碑が。で、お城とは直接関係ないのですが、お城に登ってる途中から蜂の羽音が気になっていたのですが、一度は止んでいたそれが、この辺りからまた聞こえだしたというか。
【上杉景勝屋敷跡】
鐘楼阯かせまた一段低くなった広い曲輪には、景勝屋敷との案内看板が。直江屋敷のあたりはキッチリ平になった曲輪が段違いに設けられていたのですが、この辺りは尾根筋の微妙な高低差を生かした曲輪の配置になっています。
【御成街道】
景勝屋敷から降りていくと道が丁字路になっているのですが、そのぶつかった道が、時の関白である近衛前嗣が通ったことから呼ばれるようになった「御成街道」。前嗣は長尾景虎だった頃の上杉謙信と懇意で、永禄3年(1560年)には謙信を頼って下向し謙信の関東平定に協力しますが、謙信の関東平定が無理とみるや、謙信の説得を振り切って京へ戻ってしまったそうで。
【柿崎景家屋敷跡】
御成街道を西に進むと、春日山城で一番広いと言われる曲輪に出ますが、そこが、柿崎和泉守景家の屋敷跡。ちなみに柿崎和泉守は長尾為景の頃からの家臣で、川中島の戦いでも活躍。永禄元年(1558年)には春日山城の留守居役を務めたことも。で、この辺りの植生からこの曲輪には水堀や池あったと考えられるなど、水が豊富だった場所だそうで。
【二の丸】
御成街道を戻り、先程の丁字路から更に進むと帯状の曲輪が広がりますが、そこが二の丸。ここには、屋敷の他に井戸があったそうですが、先程の井戸曲輪や柿崎邸跡といい、春日山城は比較的水に恵まれた山城という印象を受けました。
【米倉と土塁】
【三の丸】
【上杉景虎屋敷跡】
更に下ったところにある、土塁に囲まれた曲輪が米倉と呼ばれているところ。そしてそこから連なるのが上杉景勝と御館の乱で争った上杉三郎景虎の屋敷跡で、これらがあるのが三の丸と呼ばれる曲輪。ちなみに、複数の建物は地面の高低差で区分されていたそうです。
【甘粕景持屋敷跡】
三の丸から更に下ると、甘粕近江守阯との石碑が建っていますが、通路のお陰でえらく狭い印象。ちなみに甘粕近江守景持は、川中島の戦いでなどで活躍し、景勝の代になってからも米沢まで景勝に付き従ったそうで。
【下から本丸方向の望む】
甘粕景持屋敷跡を過ぎると道はほぼ平坦になりますが、そこから本丸方向を見てみると、かなりの高低差があることを実感。実弟、かなりしんどかったです。でも、ここまで来ると(今回の)ゴールは目前。
【上杉謙信公銅像】
【謙信公のアップ】
春日山神社の駐車場を出発してから約2時間で、その近くのここまで戻ってきました。で、先程までは結構本格的というか、トレッキングっぽい格好をした人が多かったのですが、ここまで来ると、ひらひらの服を着たオネーチャンとかちゃらちゃらしたオニーチャンも居て、観光地に着ていることを実感。
【春日山神社記念館】
上杉謙信公銅像と春日山神社の間にあるのが、こちらの春日山神社記念館。入場料はすぐ近くにある土産物店に払って入館するというシステムに若干怪しげな感じもしたのですが、これが入ってみると、小さいながらも結構な見応えが。失礼しました。
【春日山を降りる】
遺構を見尽くしたとは言えないのですが、今回はこれくらいで勘弁してやることにして、春日山を降りることに。
【春日山城跡ものがたり館】
それで春日山を降りて向かったのが、春日山城跡ものがたり館。日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに置いてあります。それで、館内では上杉謙信の戦いの歴史を映像で見ることが出来たり(私達とその他数人の入館者のために職員さんが最初から再生してくれました。)、ちょっとした史料も展示してあって、ビジターセンターとしては良いんじゃないでしょうか。
【春日山城史跡広場】
【復元された堀】
春日山城跡ものがたり館に隣接してあるのが、この春日山城史跡広場。発掘調査の結果確認できた土塁や堀が復元されています。それにしても、土塁に囲まれた広場は、先程まで山の中にいたせいもあってとても広く感じますね。
【東城砦】
【東城砦近くの堀切】
春日山城史跡広場の北側の、一段高くなっている丘の上には、土塁に囲まれた東城砦と呼ばれる砦跡があります。その中には復元された掘立柱建物や、その近くに井戸跡がありました。また、砦の近くには、堀切が残っているのですが、発掘調査の結果当時は現在より堀の深さが約1.5m深い事が判明しています。
以上、春日山城だったのですが、まず思ったのが、久しぶりの山城だったので肉体的に非常に辛く感じたというか、登っている時に何度も、「これは『登城』じゃなくて『登山』だ」と思ったことか。それでも、山の中には戦国時代の姿を残しているところも多数有り、個人的に土の城が好きなこともあって、辛さを上回る興味深さでした。なのでまた何時か、再び登ってみたいと思うのですが、その時はもっと時間をかけてみたいですね。
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