趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
ここしばらくの記事のとおりという出だしももういい気がしますが、4月末に長野・新潟の城廻り行の途中、鉄道の遺構にいくつか触れることが出来ました。で、それについて以下に。
前の記事でも書いたとおり、今回の旅の目的の一つが、長野県長野市にある松代城だったのですが、そのすぐ近くにあったのが、長野電鉄屋代線の松代駅。元々は、長野電鉄の前身である河東鉄道の駅とし大正11年(1922年)に開業し、平成24年(2012年)4月1日に屋代線の廃止と共に廃駅となりました。
で、個人的には、約10年前、当地に出張で来たついでに長野電鉄全線に乗ったのですが、その際の景色を今でも(ハッキリとはいきませんが)覚えています。もっともその時は、(確か廃止が取りざたされていたとはいえ、)まさか廃止になってからこんなカタチで訪れるなんて思ってもいませんでしたが。
【駅舎】
この写真だけ見ると、まだ現役に見えるのがちょっと悲しいというか。ちなみに、列車は来なくなっても、バス停として活用されているようでした。
【待合室】
待合室は、駅として使われていた当時と比べるとだいぶスッキリというか。
【プラットホーム】
【残された案内看板】
【プラットホームから見た駅舎】
ここまで来ると、月極?駐車場として使用されている構内が否応なく目に入ってくるので、何とも切ない感じに。それと、使われなくなった転轍機や信号テコが片隅に並べておいてありました。
【松代城跡付近の踏切跡】
【松代城跡付近の踏切跡から旧駅構内】
【松代城跡付近の踏切跡から旧象山口駅方向の線路跡】
そして駅から移動して、今度は松代城趾付近から。線路は1年くらい前に撤去されてしまったようですね。それにしても、さほど大きくない駅だったとはいえ、線路が撤去されるとものだだっ広く感じるというか。
松代城の前に立ち寄ったのは上田城なのですが、実はそこにも、鉄道の遺構が。それは昭和47年に廃止となった上田交通真田傍陽線の公園前駅。真田傍陽線は昭和3年(1928年)に全通した上田と真田・傍陽(そえひ)を結んでいた当時の上田温泉電気軌道(後の上田交通)の路線で、バスの増便や貨物のトラックへの移行によって赤字から廃線という流れになったそうで。で、その真田傍陽線の線路を二の丸堀を通すことになり、上田城址公園及び園内にあった上田市公会堂の最寄り駅として公会堂下駅(その後、公園前駅に解消)が設けられたとのこと。
【現在は遊歩道「けやき並木遊歩道」になっている線路跡】
【公園前駅跡】
【二の丸橋からみた真田・傍陽方面の線路跡】
で、上田城のお城を見上げる尼ヶ淵のところの駐車場駐車場にクルマを停めて城内に入ろうとすると、自然と現在は遊歩道「けやき並木遊歩道」になっている二の丸堀底の線路跡を通って、公園前駅跡のところから上田城址公園に入ることになります。で、以前はもっとハッキリとしたカタチでプラットホーム跡が残っていたのですが、今は階段と一体化しているというか。でも、隣接する二の丸橋の内部には、線路脇の通信用電線が掛かっていたであろう碍子などが残っていました。
更に遡って、上田城の前に立ち寄ったのは小諸城なのですが、小諸城趾公園である懐古園の駐車場の片隅に、蒸気機関車が静態保存されているのを発見。
【C56 144号機】
【微妙に?な説明書き】
で、保存されているC56形蒸気機関車は、ここ小諸と山梨県の小淵沢とを結んでいる小海線で活躍していた機関車なのですが、その傍らに立つ説明書きが微妙に???。小海線の小諸-小海間は大正8年(1919年)に佐久鉄道によって開通したことは間違いないのですが、それを買収したのがJR東日本長野支社って、ちょっとスッ飛ばしすぎな気が。そりゃ、国鉄が分割民営化によってJRに移行したので、現在のJR東日本=当時の国鉄ってことで間違いは無いと思うのですが、「ご丁寧に「長野支社」って付けるくらいなら、当時の国鉄とか書いた方が…。」などとオタクっぽいこだわりを持ち出したくなってしまうというか。
というわけで、思わぬところでの鉄分補給となったのですが、やっぱり廃線跡って、色々と調べる分には面白いのですが、個人的には廃線前を知っているとちょっと辛くなってしまいます。
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