たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 34/100城目 上田城 【平成26年4月26日】

史蹟 上田城址の石碑

 色々あって当ブログの更新が一時休止状態だったのですが、こっそり再開させていただこうかと。

 それで再開一発目の今回の記事ですが、休止前から続く、4月下旬に長野、新潟、群馬のお城めぐりをしてきた時の話。その旅で最初に訪れた小諸城を後にして向かった2つめのお城がこちらの上田城。そういえば、再来年の大河ドラマは真田信繁(幸村)を描いた『真田丸』に決まったとのことで。


上田城について

 上田城は、長野県上田市にある梯郭式の平城で、別名は尼ヶ淵城、また真田城とも呼ばれたらしいです。ちなみに、平城と言っても、千曲川の分流である尼ヶ淵の断崖に面して築城されたので、そちら側からはかなり高低差がありますが。で、その上田城について、ウィキペディアや上田市のウェブサイトなどで調べたことを少々。(って、今回から箇条書き形式にしてみました。)

  • 築城開始は天正11年(1583年)。武田氏滅亡後の旧武田領を巡り、徳川家康、上杉景勝、北条氏直の争い(いわゆる天正壬午の乱。)の中、武田氏の遺臣を糾合して台頭してきた元武田氏重臣の真田昌幸による。
  • 当初は臣従してしていた徳川家康の支援を受け築城を開始したが、その途中で家康とは、徳川・北条の同盟がらみで沼田領の扱いなどをめぐって仲違いしてしまったため、今度は上杉景勝に次男の信繁を人質に出して臣従。そして上杉の支援を受け、徳川を仮想敵として築城を続けることに。
  • その最中の天正13年(1585年)8月、徳川のおよそ7000人にもなる軍勢に攻められるが、2000人(1200人とも)言われている兵で徳川勢に1300(300とも)言われる損害を与え、11月には完全に撤退させることに成功。(いわゆる第一次上田合戦。また、この戦いに限って神川合戦と呼ばれるそうで。ちなみに、神川はこの合戦で戦場になった川の名前。)
  • 第一次上田合戦後、程なくして上田城は一応の完成をみたらしい。で、この時、城には豪華絢爛なな天守があったと思われる。(発掘調査によって、織豊時代によく見られる=幸村の時代のものと思われる金箔の貼られた瓦の破片が出土。また、この当時に築かれた近隣の城は、天守を設けるのがお約束だったので。)ただし、後に城が一度、徹底的に破壊されたこともあって現時点で確たる証拠は無し。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、昌幸は石田三成の西軍に与し、2500(2000とも)の兵と共に上田城に籠城。一方、東軍率いる家康は、三男の秀忠に中山道制圧を命じ、秀忠は38000もの大軍をもって上田城を攻めるが落とせずに、7日間も釘付けに。(いわゆる第二次上田合戦。)加えて家康からの上洛を伝える使者が遅れたため、秀忠は関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態をおかすことに。(家康は激怒して暫くはお目通りさえ許さなかったそうで。)
  • 二度にわたって徳川の攻撃を退けた真田幸村、そして上田城だが、関ヶ原の戦いはご存じの通り家康率いる東軍の勝利で終わり、昌幸は息子の信繁共々、高野山~九度山に配流に。また、上田城は敵軍の城として徹底的な破壊を受けることに。(大阪城といい、元の物は利用せず徹底的に破壊するあたりに、個人的には徳川のえげつなさを感じます。)
  • 江戸時代に入り幕藩体制が敷かれると、上田は関ヶ原で東軍に与した昌幸の長男、真田信之が領することに。その信之は、破壊された上田城の中心部を避け、その南東部(現在の上田高校の場所)にある旧三の丸に構えた屋敷で藩政を執ったが、元和8年(1622年)に信之は松代へ領地替えに。(二代将軍秀忠の「真田」に対する嫌がらせの為なんて話もあるそうで。)
  • 信之に替わって小諸からやって来た仙石忠政は、幕府の許可を得て、寛永3年(1626年)から上田城の復興にとりかかる。それで埋め立てられた堀を再び掘り下げ、土塁や石垣の上には櫓や塀を築くなどしたが、本丸に7つの櫓と2つの櫓門を造ったところで病死し、二の丸の櫓や門などは造られないまま終了。
  • 宝永3年(1706年)に城主が仙石氏から松平氏へと替わり、以後明治維新まで上田城は松平氏が領することに。その後小規模な修復は行われたそうですが、幕末の頃の城内は、松や杉の大木や竹が鬱蒼と生い茂る場所となっていたそうで。(ちなみに、それらの大木は、廃城後に払い下げられたとのこと。)
  • 明治維新後、上田城は一時期陸軍の東京鎮台第二分営となったが、その後それが廃止となり、城内の櫓などの建物は、現存する西櫓1棟を残して、他は払い下げに。ですが、その際に売られた南北櫓は上田市内に移築され貸座敷として使用されたりしたあと、昭和に入って市民の寄付で元の城内に戻そうという運動が始まり、太平洋戦争を挟んで戦後、元の位置に再び移築されました。
  • 明治12年に本丸内に松平神社(現在は真田神社)をつくり、残りは公園として保存しようという声が起こり、これが現在の上田城跡公園に繋がるそうで。その他にも、二の丸には一時期監獄や動物園があったり、二の丸のお堀には上田温泉電軌北東線の線路が通っていたことも。
  • 昭和9年(1934年)には、本丸と二の丸の大部分が国の史跡に指定。
  • 平成に入ると上田城保存・整備計画が策定され、明治初期の古写真等に基づき平成6年には櫓門が復元。また、櫓門付近の武者溜まりや、本丸の櫓2棟の復元計画も進んでいるそうで。

実際に行ってみた

 これの前のいくつかの記事で書いた小諸を後にして、国道18号を北上すると、約30分で上田に到着。同行者は以前何度か上田城を訪れたことがあり、その際、クルマはお城の中に停めたと申していたのですが、カーナビ代わりのスマホアプリのとおりに来たら、お城を見上げる尼ヶ淵のところの駐車場に案内されました。

【尼ヶ淵から見上げる上田城】
尼ヶ淵から見上げる上田城
 そんなわけで車を降りると、現存建築物の櫓を見上げる絶景が。で、櫓も素晴らしいのですが、興味を惹かれたのが、一部が欠けたように見える石垣。その部分はかつて崖が張り出しており、元から石垣が無かった箇所だそうで。

【駐車場の顔出し看板】
駐車場の顔出し看板
 その駐車場にあったのがこちらの顔出し看板。ちなみに私、真田十勇士の方々のお名前、全部は言えません。

【二の丸の堀跡】
二の丸の堀跡
 駐車場から崖下に沿って東に進むと、かつて上田温泉電軌北東線が走っていた二の丸の堀跡に。

【二の丸橋】
二の丸橋
 堀跡を進むと上に架かる橋にぶつかるのですが、ここが現在、上田城跡公園のメインの入口になっている二の丸橋。

【上田市立博物館】
上田市立博物館
 二の丸橋から入って右手にあるのが、上田市立博物館。日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらにあります。っていうか、スタンプが置かれているのって、こういう市立の博物館が多いように感じるのですが、こちらの博物館は結構見応えがあったというか。

【山本鼎記念館】
山本鼎記念館
 上田市立博物館のお隣にあるのが、山本鼎記念館。元々この場所には、お城の米倉があったようですね。ちなみに山本鼎(かなえ)さんというのは、高名な版画・洋画家。(不勉強なことにこちらにお伺いするまで知らなかったのですが…。)で、失礼ながらついでとばかりに拝観したのですが、これがまた。個人的に絵については全く素人なのですが、何ていうか、グっと来る絵が多数展示されていました。

【櫓門手前の顔出し看板】
櫓門手前の顔出し看板
 それで、ようやくお城の内部へと向かうのですが、その表玄関になっている櫓門の前には、真田親子の顔出し看板が。個人的にこれまで見たお城で、2つも顔出し看板があったお城は、上田城以外無かったような。ちなみに、この看板が置いてある手前あたりに武者溜まりを復元する計画があるそうですね。

【南櫓・北櫓と櫓門】
南櫓・北櫓と櫓門
【裏側から見た南櫓・北櫓と櫓門】
裏側から見た南櫓・北櫓と櫓門
【櫓内から西櫓方向を望む】
櫓内から西櫓方向を望む
 こちらが、現在の表玄関になっている南櫓・北櫓と櫓門。その前では、明日行われる上田真田まつりの為に、仮設の何かが準備中でした。で、この2基の櫓は一度市内に移築されたのを再移築したのは前述のとおりなのですが、その移築先って、遊郭だったというのが何とも。また、櫓の内部は公開されていて、ちょっとした史料が展示してありました。

【真田石】
真田石
 現在の上田城を築いたのは江戸時代の上田藩主である仙石氏なのは前述のとおりなのですが、櫓門のところの石垣には、真田石と呼ばれる巨大な石が使われています。

【本丸】
本丸
【本丸を囲む土塁】
本丸を囲む土塁
 櫓門から入るとそこは本丸で、正面が真田神社なのですが、その右手はかなり広いスペースが残っています。また、そのまわりには土塁が取り囲んでいますが、かつてはその要所要所に櫓が建っていたそうで。

【西櫓】
西櫓
 こちらは、仙石氏による再建当時から残るとされる西櫓。一時期、最後の城主である松平家ゆかりの宝物を収蔵した博物館として使われていたとのこと。ちなみに、この記事でも使用している南櫓、北櫓、西櫓という櫓の名称は戦後、便宜上付けたものだそうで、この西櫓はかつて、「西川手櫓」、南櫓は「東川手櫓」などと呼ばれていたそうで。(もっとも、それも便宜的な名前のようですが。)ちなみにこの櫓3基は、長野県の県宝に指定されているそうです。

【二の丸西端の土塁】
二の丸西端の土塁
【そこから見える堀跡?】
そこから見える堀跡?
 西櫓付近から更に西に進むと花木園を経て土塁に突き当たるのですが、そこが本丸を取り囲むように配された二の丸の西端にあたる箇所っぽいです。で、その更に外側にも土塁のようなものが残っており、その間は堀だったんでしょうか?

【本丸堀(西端付近)】
本丸堀(西端付近)
【本丸堀東北角部にある隅欠(すみおとし)】
本丸堀東北角部にある隅欠(すみおとし)
 本丸と二の丸の間にはかなりの広さの水堀があります。その堀付近は桜が多数植えられ、時期的にもう少し早ければ見事だったかと。それと、この本丸堀で興味深かったのが、堀の東北部の角の部分にある隅欠(すみおとし)。鬼門除けとして角の部分を、本丸側は切り欠いて段差を設け、二の丸側は直角ではなく斜めにされていました。ちなみにこの隅欠は、真田氏が築城当時からあったものだそうです。また、本丸側の角の部分にはかつて2基の櫓があって、それを復元する計画があるみたいです。

【二の丸北虎口】
本丸堀東北角部にある隅欠(すみおとし)
【かつて百間堀だった市営陸上競技場】
かつて百間堀だった市営陸上競技場
 二の丸の北側には虎口があり、そこには石垣があるのですが、これは当時のものなんでしょうか?で、その虎口を出ると陸上競技場があるのですが、ここはかつて百間堀と呼ばれたとても広い堀で、競技場のメインスタンド付近の段差はその外側の斜面を利用しているっぽいです。

感想とかまとめとか

 というわけで、上田城だったのですが、城内は観光客の他、地元の人たちも色々活用しているようでけっこう混雑してました。(写真はあまり人が写っていないのを選んでますが。)で、お城自体は、『質実剛健』といった印象。四角くて十分な広さの本丸を三方は広い堀で取り囲み、残り一方は急峻な崖で防御。決して凝った形状ではないですが、徳川が2度に渡って攻め落とせなかったのも、説得力があるように感じたというか。(もっとも、勝負はこの上田城だけで行われた訳ではないんですが。)また、お城の保存・復元計画もあるようなので、櫓などが再建された時には、もう一度訪れてみたいと思います。

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