趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
4月下旬に長野、新潟、群馬の城廻をしてきた時の話ですが、今回は、コネタというか、小諸城を訪れるついで(失礼!)に見たこちら。
脇往還の北国街道(善光寺街道)が整備されたのは江戸時代の事なのですが、その際、元々要衝であった小諸の地にも宿(しゅく。宿場、宿駅とも。)が設けられました。ちなみに宿というのは、政府(当時は幕府)公認の、いってみれば交通インフラであったのですが、その宿には、どこぞのご隠居がお泊まりになる際に共の者が軒先に笠を吊すような旅籠(一般の旅行者が泊まるための施設)の他、一般の旅行者は泊めずに参勤交代の大名や幕府要人、勅使がお泊まりになる本陣や、宿駅の業務(人馬の継立など)を行う問屋(といや)といった施設が置かれました。
それで小諸宿で、本陣と問屋を兼ねていたのが、上田家というお宅。問屋として使われていた建物は、表門と共に当時と同じ場所に現存しているのですが、なんでも全国でも数少ない現存の問屋兼本陣建築ということで、国重文に指定されています。また、宿泊所にもなった母家は、明治11年(1878年)に佐久市へと移築され、お寺の本堂や庫裡として使われていたのですが、平成7年(1995年)に小諸市に寄贈され、小諸駅というか小諸城大手門近くに再移築されました。
行ってみたと言っても、本陣兼問屋には、前記事の小諸城大手門から懐古園へ移動する際、徒歩でほんの少しだけ遠回りして立ち寄っただけなのですが。
【本陣兼問屋】
というわけでこちらがその本陣兼問屋。建物に面している今となっては細い道路が旧北国街道なのですが、それ妻を向けた総二階建の切妻造、桟瓦葺の建物で、総二階建や桟瓦葺はこの建物が建てられたと推定される18~19世紀当時は珍しかったそうで。1階は街道に面した部分が全て間口となっていて、大名行列に伴ういろいろな荷物を運び込むための便宜を考慮して作られたとも考えられているそう。また2階は出梁により2.5尺(75センチ)ほと1階より前方に出し、更にその上の小さな切妻屋根のところには看板を取り付けたそうです。そして建物の向かって左側の表門は間口の広い薬医門で、大名を載せた駕籠はここから入って奥の座敷玄関に向かったそうです。
【本陣主屋(座敷)】
それで小諸城を堪能した後、折角なので本陣主屋(座敷)も見学。その建物は問屋と同時代の建築と推定され、もともと問屋の左後方と廊下によって接続していたそうで。
そんなわけで小諸宿本陣だったのですが、問屋は初めて見るカタチの建物で、とても興味深かったというか。残念ながら現在内部は公開されていませんが、是非とも見てみたかったですね。それと、これをきっかけに、昔の旅のことについて色々と調べてみたくなりました。当時は現代よりも色んな意味で移動が制限されていたと思うのですが、そんな中、好むと好まざるにかかわらず移動しなくてはならない人達は、いったいどんな風に旅をしたのか。時代劇の一場面としては見たことはありますが、実際の所どうだったのか、とても気になります。
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