趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
昨年の10月以来になってしまった日本100名城巡りなのですが、今回は日帰り(の予定だったんです…)で山梨県甲府市にある2つのお城にお伺いしようかと。(前の記事で書いた「ふと思い立って日帰りでちょっと甲府まで行こうかと。」というのはこういう理由でして。)で、初めにお伺いしたのは、甲府の市街地のまっただ中というかJR甲府駅のすぐ近くにある、甲府城です。
甲府城は、山梨県甲府市にある梯郭式平山城。別名は、舞鶴城や一条小山城というのがあり、舞鶴城についてはこの城跡がある公園の名称にもなっているのですが、何で「舞鶴」なんですかね?(ちなみに、一条小山はお城のある山の名前のようですが。)
まず、元々甲斐国は日本の東西に興きた王権、政権(ヤマト王権とか鎌倉幕府とか)の前線にあたる場所として重要視されていたところだったのですが、戦国時代にはご存じ、甲府の躑躅ヶ崎館に本拠を置く、武田信玄で有名な武田氏が領し、その勢力は信濃国、上野国の一部にまで及んでいました。ですが武田氏は信玄の没後、天正3年(1575年)に織田信長との間に起きた長篠の戦いの敗北をきっかけに衰退し、天正10年(1582年)の天目山の戦いによって(戦国大名としては)滅亡してしまいました。それでその後、武田氏が領していた土地は信長の家臣が領しますが、天正10年に起きた本能寺の変によって信長が討たれると、徳川家康と北条氏政らが旧武田領を巡って争い(天正壬午の乱)、その結果、甲斐国(と信濃国)は家康が領し、家臣の平岩親吉が城代となりました。ですがその後、豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いを経ての臣従、そして天正18年(1590年)の小田原征伐を経て秀吉が天下を統一すると家康は旧北条領である関東へ移封され、秀吉は同年、家臣で甥の羽柴秀勝を、その翌年には加藤光泰を城主としました。で、この間の、天正10年の武田氏滅亡後に家康が領した時代から天正18年の秀吉の天下統一後の間に甲府城の築城が開始されたとされ、また築城主も家康という説や、家康は築城しようとしたけど関東に移封されて叶わず結局は秀吉家臣によってなされたという説があるそうです。そしてその後、光泰が文禄の役で没し、替わって文禄2年(1593年)に浅野長政・幸長親子が城主となってからも築城は続けられていたそうです。
そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで家康が勝利すると甲斐国は再び家康が領することになり、慶長6年(1601年)からはこちらも再び平岩親吉が城代を務めますが、慶長8年(1603年)に家康の9男である義直が甲府藩主そして甲府城主となって以降、(城主の転封などによる不在時に城番制がしかれた以外は)徳川親藩の藩主が城主となり、その間、寛文4年(1664年)には大修理も行われました。その後、宝永2年(1705年)に5代将軍綱吉の側用人を務めていた柳沢吉保が初めて親藩藩主以外での城主となり、宝永6年(1709年)には嫡子吉里が家督を継ぎましたが、吉保の時代は吉保が幕閣に居たため実際には藩政に携わらず(それでも曲輪の修復や殿舎の造営が行われたそうで。)、吉里の時代になってようやく甲府城へ入城し、検地や、水路の整備など勧農政策、また城下町の整備も行い、城下は大いに栄えたそうで。しかし、享保9年(1724年)に8代将軍吉宗の推し進めた享保の改革による幕府の直轄領拡大によって吉里は大和郡山へ転封となり、甲斐一国は幕府領に。そしてその支配のため甲府勤番及び勤番支配が設置され、幕末までそれが続いたのですが、享保12年(1727年)に 甲府城大火が起き、御殿や門を焼失。また、享保19年(1734年)には城内に賊が侵入し、御金蔵破りによって1400両もの公金が盗まれる甲府城御金蔵事件が発生したりしました。
やがて幕末に入り、慶応2年(1866年)には勤番制を廃止し城代が設置されますが、翌年に大政奉還によって江戸幕府は消滅。明治維新では、板垣退助ら率いる新政府軍が無血入城し、鎮撫府が置かれました。そして明治6年(1873年)に廃城になって以降、残っていた建物が失われ、替わりに城跡は、葡萄農場と葡萄酒醸造所が造られ、中央線と甲府停車場(現在のJR甲府駅)が設置され、学校や県庁敷地となりましたが、残った部分は明治37年(1904年)から(一部を)舞鶴城公園として市民に開放されました。やがて昭和に入り、城域の西側部分が市街化されたりしたのですが、昭和43年(1968年)、山梨県の史跡に指定され、平成2年(1990年)からは公園整備事業に着手。発掘調査が行われたり、平成16年(2004年)には稲荷櫓が復元されるなどした他、現在も石垣の修復作業が続いています。
【雪の中央道を】
【雪の甲府市内を】
もともとこの日(2月8日)は、雪の予報が出ていたのですが、日帰りでどこか近場のお城に行ってこようと思っていました。それでソチ冬季五輪の開会式を最後まで見た後、いくつかの候補の中から甲府に向かうことに決め、午前5時頃自宅を出発。最寄りのICから東北道に乗り、雪が次第に激しくなる中、北関東道、関越道、外環道、中央道と走って、午前10時前にお城近くの民間駐車場に到着。ところで甲府城というかお城がある舞鶴城公園って、公園の有料駐車場って無いんですかね?
【内松陰門】
【そこにあった案内図】
それで、今回停めた駐車場から一番近かったのがこちらの内松陰門。明治初期まで残っていたものを平成11年(1999年)に復元したもので、切妻造り、本瓦葺きの高麗門となっています。で、そこにあった(写真だと右端付近)案内図を見つつ、相方とどう観て回るか作戦会議を行った結果、とりあえず石垣を眺めつつ外周を半周して、舞鶴城公園の正面入口にあたる堀に架かった橋(遊亀橋)から入ることに。
【稲荷櫓と石垣】
【稲荷曲輪の(数寄屋曲輪に隣接するところの)高石垣】
【堀と遊亀橋】
そんなわけで、復元された稲荷櫓や高さ約17mという高石垣を眺めつつ正面入口まで歩いたのですが、雪のお陰で穴太積みの石垣が十分に堪能できないというか。また、雪がスケール感を狂わせるのか、大きさ的感動も…。と、ネガティブに書いたのですが、実は個人的に、それを補って余りあるのが雪化粧の魅力。雪は七難隠すというか、何でも美しく見せますね。それにしても降り方が、ちょっと強すぎな気もしますが。
【舞鶴公園正面入口付近】
【正面入口付近にあった鶴の像】
【公園管理事務所】
それで、正面入口にあたる遊亀橋を渡って舞鶴城公園へ。入って左手のところには「舞鶴」らしく鶴の像があったのですが、実はこれ、元々噴水の水が出るところに使われていたそうで。あと、その更に奥側には公園管理事務所があり、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらでゲットしました。(他にも、稲荷櫓内にも置いてあるようで。)
【鍛冶曲輪】
【鍛冶曲輪門】
正面入口を入ったところが鍛冶曲輪。雪が積もってて解りませんが、芝生の広場になっているようですね。ちなみに、写真の左手が天守台、右手が数寄屋曲輪です。で、この鍛冶曲輪は東西に細長く、公園の南西端まで延びているのですが、そこにあるのが鍛冶曲輪門。明治初期まで残っていたものを平成8年(1996年)に復元したもので、切妻造で本瓦葺の一間一戸の薬医門となっています。
【鍛冶曲輪から天主曲輪方向を望む】
【坂下門跡】
鍛冶曲輪からその上の本丸へは階段になっているのですが、それを上ったところにかつてあったのが坂下門で、その付近の石垣の積み方が違うことから、積んだ時代が(築城時とは)違うと考えられているものの、雪のお陰でよくわからないというか。あと、写真奥に聳え立っているのが恩謝碑で、明治44年(1911年)に御料林が下賜されたのを記念して、大正11年(1922年)に建立されたもので、高さは30mもあるそうです。
【二の丸(武徳殿)】
坂下門跡から北西方向に進むとコンパクトな二の丸があり、そこには武徳殿という雰囲気のある建物が建っています。昭和8年の建築で、警察関係?の道場になっているそうで。
【中の門跡】
坂下門跡からの天主曲輪入口にあるのが、中の門跡。ちなみに、天主曲輪と言っても、天守台はそれより一段高い(案内図だと)本丸と呼ばれる部分すらアクセスします。
【天主曲輪から見た天守台】
天守台南東角付近。前述のとおり雪のお陰でスケール感がイマイチ実感できず。それにしても、こころなしか降り方が激しくなってきているような…。
【鉄門】
【裏側から見た鉄門】
天主曲輪と本丸の間にあるのが、鉄(くろがね)門。明治初期まで残っていたものを復元した二階建の櫓門で、平成25年1月から公開されています。ですがこの日は雪のため、内部公開は中止のようでした。
【本丸】
一面の雪でなんだかわからない状況になっていますが、写真奥中央右手が天守台で、左手が天守櫓跡とのこと。ですが、甲府城にいわゆる天守閣が存在したかについては、存在したという明確な証拠がないそうで。
【天守台基部】
【天守台上部】
【天守台からの光景(稲荷櫓方向)】
【天守台からの光景(鍛冶曲輪自由広場方向)】
【天守台からの光景(本丸恩謝塔方向)】
天守台は本丸の東端にあり、天主が実際に在ったかどうかは別として、甲府城で一番高い場所。なので、晴れていればとても見晴らしが良いと思われます。(もっとも、この日は雪(以下略)。)
【天守櫓跡】
本丸には天守台の他、櫓が在ったようで。で、この石垣の基部に暗渠が在るはずなのですが、見事に埋もれていて…。
【稲荷曲輪】
【稲荷曲輪側から見た高石垣】
【稲荷曲輪から見た天守台】
現在の城跡というか、舞鶴城公園のいちばん北側から東側にかけてあるのが、この稲荷曲輪。雪の降り続く中、ここまで見てまわると、さすがにしんどくなってきたというか。
【稲荷櫓】
なので最後に、平成16年(2004年)に復元された稲荷櫓を見て辞すことに。内部は公開されていて、石垣などの復元の様子が見られる映像や、発掘された史料などが展示されています。で、この雪の中、お年を召したボランティア?の方が、有り難いことに入口のところの雪かきをされていました。
というわけで甲府城だったのですが、市街地というか駅のすぐ近くにある城跡は、コンパクトな中にも曲輪や石垣がしっかりと残っていて見所が色々と有るというか、個人的に好きなタイプの城跡でした。でも、今回、全て持って行ったのが、甲府ではン十年ぶりという大雪。甲府で雪景色って結構珍しいと思てますし、また、雪化粧の城跡というのはとても美しいものではあるのですが、それでも限度というものが。(場内でクロスカントリースキーやっている方が居たのには笑いましたが。)お陰で色々と見逃した部分もありますので、是非ともまたお伺いしたいと思います。
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