趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
この日、前の記事であげた宇都宮市役所近くのラーメン屋さん『どる屋』さんなお伺いするため宇都宮へ行ったのですが、食後、クルマを停めた市役所の駐車場からほど近い宇都宮城に初めて立ち寄ることにしました。
宇都宮城は、栃木県宇都宮市にあった輪郭梯郭複合式平城。
その起源は大変古く、11世紀の平安時代後期。元々当地には、延喜式神名帳にある下野国一宮名神大社であり、第10代崇神天皇の第一皇子で天皇の命で東国を鎮めたとされる豊城入彦命を祀った宇津宮大明神(宇都宮大明神とも。現在の宇都宮二荒山神社。)があったのですが、永承6年(1051年)~康平5年(1062年)の間に行われた源頼義の陸奥国安部氏討伐、いわゆるの前九年の役の際、頼義に付き従っていた藤原宗円が、頼義の命によりそこで戦勝祈願を行いました。その結果、頼義は任を果たし、宗円はその功績により宇津宮大明神の別当職に任じられると共に当地一帯の支配権を得た際に、神社の南に構えた館が宇都宮城の始まりとされ、宗円は宇都宮氏の祖となりました。
その後宇都宮氏は鎌倉幕府の有力な御家人となり、また、国司や守護も歴任されるなど安土桃山時代まで500年以上の長きにわたって下野国の中でも有力な地位を(途中、小山氏の乱などがあったにせよ)築き、宇都宮城はその拠点となっていました。そして戦国時代に入ると、宇都宮氏は一族の芳賀氏との内紛(宇都宮錯乱)が起き宇都宮城はその舞台となったり、その後家臣の壬生氏の下克上により城を乗っ取られたり、城を巡っての戦いの際に城下町が焼かれたりと色々あったそうで。で、そんな中迎えた天正18年(1590年)。ご存じ豊臣秀吉の小田原征伐なのですが、その際、時の城主である宇都宮国綱も小田原へと参陣。また、石田三成の忍城攻めにも参加したそうで。そしてその後、これまた有名な宇都宮仕置きが行われ、既に小田原で秀吉に会っていた大名も改めて宇都宮城に集まると共に、小田原には来られなかったけれど宇都宮城には来た大名も含めて所領を安堵されるなど、ここで様々な差配が行われました。それで国綱も下野国18万石の所領を安堵されたのですが、慶長2年(1597年)、秀吉の命により改易に。跡継ぎが居なかったので五奉行筆頭の浅野長政の三男を養子にしようとしたら弟に反対され長政の恨みを買ったからとも、太閤検地の際に浅野長政が測ったら秀吉が安堵した18万石の倍もの石高が実際は有ったのがバレたからとも言われています。それでも、秀吉から「朝鮮で戦功立てたら再興するかも」とか言われ頑張ったのですが、その秀吉が亡くなってしまったため、その話もオジャンになってしまったという…。
と、話が逸れましたが、宇都宮国綱に替わって城主になったのが、前述の浅野長政。新たな領主が決まるまでの一時預かりのような感じだったのですが、その間に、これまで(宇都宮氏が代々務めてきた)城主と宇都宮大明神検校職との兼務を廃止したそうで。そしてその長政から替わったのが、蒲生騒動などを理由に会津92万石から18万石と大幅減封になった蒲生秀行。こちらは、武家屋敷を造り武士と町人の住居を分けたり、城下入り口に番屋を設置するなど城下街の整備に努めたほか、出身地である近江国日野町から近江商人を呼び寄せ御用商人として住まわせ(日野町)、それが宇都宮の商業発展の基礎を築いたとされます。
そんな中迎えた、天下分け目の関ヶ原。戦後、秀行は再び会津に転封となり、一瞬だけ大河内秀綱の名前が出てくるのですが、慶長6年(1601年)、江戸時代の城主ではわりと有名だと思われる奥平家昌が10万石で入部となり城主に。その際、城下町の整備を行ったり、大膳市と呼ばれる市を開いたり、幕府が宇津宮大明神をした際は奉行を務めたりしたのですが、慶長19年(1614年)に38歳の若さで亡くなってしまいました。その後、家昌の嫡子忠昌が僅か7歳で家督を継いでから5年程城主を務めますが、元和5年(1619年)、日光社参のため立ち寄った二代将軍徳川秀忠から直接、下総古河へ11万石での転封が言い渡されました。それで次に城主になったのが、徳川家康とも近かった本多正純。15万5千石で藩主そして宇都宮城主となった期間は元和5年(1619年)~同8年(1622年)のわずか3年ながら、その間に幕命によって城を大改修。縄張りを拡張して郭を増設したり、本丸を囲む水堀と土塁を幾重にも築いたりして近代城郭としたのですが、天守は設けず、2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしました。また城下町も、奥州街道と日光街道の整備をすると共に、町割りを実施し元々宇都宮の街が持っていた城下町、門前町、宿場町の各機能を明確化して現在の宇都宮市の骨格を作り上げたと言われています。しかし、正純は幕府内に政敵が多かった(一説には、徳川秀忠自身も疎んじていたとも。)ため、秀忠の日光社参(家康の七回忌)に伴う城の普請(日光社参の際は将軍が宇都宮城に宿泊することになっており、その為に増改築をした。)の際に、いわゆる宇都宮城釣天井事件をめぐる顛末の中でお家は改易、そして正純は流罪になってしまいました。その後、正純の前の城主である奥平忠昌が再び城主を務めた後は、幕末まで譜代大名が代わる代わる城主を務めました。
そして、時代は明治に変わらんとしていた慶応4年(1868年)。戊辰戦争において宇都宮城は激しい攻防の舞台(その際、土方歳三が撃たれて足を負傷したのは有名ですよね。)となり、その際、宇都宮の街と共に城の建築物のほとんどが焼失してしまいました。その後明治に入り、 宇都宮城には大日本帝国陸軍が一時駐屯していましたが、やがてそれも移転し、明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなりました。そして太平洋戦争の際の空襲で宇都宮は再び焼け野原となり、その復興のさなか、残っていた堀も埋め立てられ、本丸土塁の一部などを残し城の痕跡はほとんど失われてしまいました。そんな中、昭和33年(1958年)には城跡を御本丸公園として宇都宮市が整備。平成元年(1989年)からは発掘調査が開始されると共に、平成3年(1991年)には公園内に歴史資料館「清明館」が落成。平成14年(2002年)に公園の名称が宇都宮城址公園に改称。平成15年(2003年)から平成19年(2007年)にかけて、発掘調査の成果等に基づいた外観復元工事が開始され。土塁と堀の一部、そして櫓2基が復元されました。
そんな宇都宮城。冒頭で書いたとおり、前の記事のラーメン屋さんも含めてその近くへは何度となく行っているものの、お伺いするのは初めて。私自身栃木県で生まれ育ち、小さい頃は宇都宮に住んだ経験があるにもかかわらずなのですが、まぁ、近いと逆に興味が持てなかったりするといいますか…。
【土塁に空いた風穴】
それで、興味を持っていざ行こうとしても、それを視覚的に阻んでいたのが、この土塁に空いた風穴。駐車場からお城の方を見るとまずこれが目に入ってきて、正直興がそがれるというか、なまじ視覚情報がある分、それを排除して味わうのが難しいというか…。でも、心の目で塞いでみてみると、かなりの高さがある立派な土塁ですね。もっとも、復元にあたっては、土塁は外観だけで内部は資料展示スペースの他、非常用物資の倉庫などになっているそうなのですが。
【土塁と清明台】
とりあえず、堀の外側を回りつつ見ることにして、まずは、天主の替わりとされた清明台方向へ。それにしても、改めて土塁の高さを感じますね。(ちなみに、土塁の高さは約10mとのこと。)
【清水門跡】
復元土塁は清明台のところで途切れてしまうのですが、その辺りにあったのが清水門。本丸の正門にあたるそうです。
【内側から見た土塁等】
清水門跡付近から富士見櫓方向を見たところ。土塁内側の広場では、時折様々なイベントが行われているようです。
【裏側から見た清明台】
その後清明台のところから土塁に登って、今度は土塁の上を歩いてみようかと。ちなみにこちらの清明台含めた2基の櫓と土塀は木造本瓦葺きの白漆喰総塗籠で仕上げられ、土塀の柱や梁以外は栃木県産木材を使用しているとのことです。(WoodでGood 栃木県)
【裏側から見た富士見櫓】
こちらは、復元された2基の櫓のうちの1つである富士見櫓。ちなみに、清明台も富士見櫓も、内部まで公開されています・
【土塁と富士見櫓】
そしてぐるっと回って外に出て、今度はそちら側から富士見櫓を。で、こちらから見るとなかなかに立派に見えるというか。
というわけで宇都宮城だったのですが、あれだけ歴史的出来事の舞台になったにもかかわらず、ほとんど遺構が残ってなかったのは客観的に見て寂しい限りだったのですが、これだけでも復元してくれたことによって、宇都宮のシンボルとして甦ったのかな、と。また、今後も前述の清水門や日光社参の際に将軍の宿泊所となった本丸御成御殿などの復元の計画もあるみたいですし、それも楽しみに待ちたいと思います。
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