趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
昨年8月から始めた日本100名城巡りですが、その9城目は、栃木県唯一の100名城指定である足利氏館。この日は自宅からクルマで回れる手近なところをということで、足利市内の足利氏館(鑁阿寺)と、お隣の群馬県太田市にある金山城、そして箕輪城を巡ってこようと言うことになり、まず始めにお伺いしました。
かつて足利氏館のあった鑁阿寺は、栃木県足利市にある真言宗の古刹で、正式には、正しくは金剛山仁王院法華坊鑁阿寺と言うそう。ご本尊は大日如来で、足利氏の氏寺との事です。
もともとは12世紀の中頃、源性足利市初代当主である源義康が下野国足利庄に構えた館に、二代目当主の足利義兼が1196年(建久7年)、持仏堂(堀内御堂)を建立し大日如来を奉ったのが始まりとされるのですが、その義兼の戒名が鑁阿(ばんな)と言うそうで。で、その後、三代目当主である足利義氏が1234年(文暦元年)に伽藍を整備し、足利氏の氏寺としました。そんなわけで、中世は足利氏の庇護を受け隆盛を誇り、南北朝時代には鶴岡八幡宮の別当となったのですが、足利氏の衰退とともにこちらも衰退。一時は秀吉の陛下にも晒されたそうです。
ですが、秀吉の小田原攻めの翌年である天正19年(1591年)。小田原攻めの論功行賞によって既に(天正18年)江戸城に入封していた徳川家康により、寺領60石を寄進し再興。その後、江戸時代に入っても朱印地を与えられ領地を安堵されるなど徳川幕府の庇護を受け(これは家康が新田氏の後裔と称し、新田氏は足利荘の出ということで、ご先祖の供養や発祥の地に対する保護っていうかアピールという意味も有ったのですかね?)5代将軍綱吉の生母である桂昌院が徳川家祖先の菩提を弔う為に多宝塔を造営したという話もある(これについては後述)ようで。
そして現代。明治41年に本堂などが現在で言うところの重要文化財に指定され、鑁阿寺自体も大正11年に「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されました。その後、昭和26年に 真言宗豊山派から大日派として独立し、真言宗大日派の本山となったそうです。
自宅から下道(どうでも良い事ですが、一般道のこと「したみち」って言うのって、ローカルな事なんですかね?)を南下し、さくら市からは国道293号へ。その国道293号は、鹿沼市内から日光例幣使街道に入るのですが、これからお伺いする鑁阿寺も、東照大権現様に縁があるということで。で、足利学校前の観光駐車場に到着。足利学校は今回スルーして、鑁阿寺の山道へと。
【歩道橋から見た足利学校】
山道に入るとすぐに、奥に鑁阿寺の山門が目に入ります。そして、そこに向かう途中には、足利尊氏の立派な銅像が。足利尊氏生誕の地については諸説有るようなのですが、そのうちの一つに足利荘説というのもあるそうで。で、まずは山門から拝み入り、本堂に礼拝。ご挨拶と写真撮影の非礼のお詫びしてから、境内を散策しました。
【山道から見た山門】
【足利尊氏公銅像】
【反橋と山門】
水堀にかかる反橋(太鼓橋)と、その奥の山門(楼門)は、どちらも栃木県指定の重要文化財。で、反橋は、江戸時代永禄年間の再修。そして山門は、開基足利義兼公が建久7年(1196年)に創建するも室町時代に兵火にあい、永禄7年(1564年)に足利家13代将軍である足利義輝が再建したとの事です。
【堀と土塁】
【土塁の上から】
こちらの鑁阿寺は、前述のとおり元々鎌倉時代時代の武家屋敷なのですが、防御の為、周囲に水堀と土塁を巡らせてあります。
【東門】
【西門】
どちらも栃木県指定重要文化財。鎌倉時代の武家造りで、東門、西門とも開基足利義兼公が創建とされますが、現存する物は、どちらも永享4年(1432年)に公文所奉行による再建との事です。
【北門(薬医門)】
足利市指定の重要文化財。元々はね堀の外にあった12の支院のうちの筆頭である千住院の、弘化2年(1845年)に再建された門で、それを大将7年に移築したとの事。ちなみに、こちらの門からはクルマも入れ、入ってすぐの所に参拝者用駐車場(ただし、利用は1時間まで)がありました。
【校倉】
足利市指定の重要文化財。東門、西門同様永享4年(1432年)公文所奉行による再建と言われていますが、現在の物は宝暦2年(1752年)採集された物で、元々は宝物庫だったものが、後に足利家伝来の大黒天を祀り、大黒堂とも称されるとの事です。
【御霊屋】
栃木県指定の重要文化財。足利大権現と称し、俗に赤御堂とも。創建は鎌倉時代といわれてますが、現在の建物は徳川11代将軍家斉の寄進によって再建された物。本殿には源氏の祖を祀り、拝殿には県指定重要文化財の足利15代将軍像が祀られているそうで。また、本殿の裏には、開基足利義兼公の父である足利義康、祖父である足利義国のお墓もあるそうです。
【経堂】
国指定の重要文化財。元々は開基足利義兼公が妻の供養の為の一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建したと言われているそうですが、現在の物は応永14年(1407年)、関東管領足利満兼による再建との事。なお、足利家は鎌倉から室町時代に一切経会を盛んに営んだと古文書にあり、こちらの中には2000余巻の一切経が蔵されているそうです。
【本堂(大御堂)】
国指定の重要文化財。鎌倉時代初期である建久7年(1196年)、開基足利義兼公の建立で、明治41年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物(後に法改正により国宝)に指定されました。あと、100名城スタンプラリーのスタンプはこちらにあります。
【多宝塔(塔婆)】
栃木県指定の重要文化財。開基足利義兼公が建立し、現在の物は徳川5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院が元禄5年(1692年)に再建された物と伝えられていたのですが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629年)銘の物が発見され、建立時期が遡るのか、相輪を再利用されたかしたとのことです。でも、そんなことは抜きにして、興味深い形状というか。
【鐘楼】
国指定の重要文化財。建久7年(1196年)、開基足利義兼公の建立で、本堂同様、明治41年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物(後に法改正により国宝)に指定されました。また梵鐘は、元禄年間の再鋳で、第二次世界大戦時の金属供出を免れたそうです。で、この建物は鎌倉時代の和様、唐様折衷の代表的禅宗様式だそうですが、これまた興味深い形状というか。
実は私、栃木県出身栃木県在住のくせに、こちらにお伺いするのは初めてだったりします。で、最初に書いたとおり、栃木県唯一の日本100名城がこちらなのですが、今回お伺いするまでは正直なところ、「なぜここが?」という思いもあったりして。ですが、実際に見てみると、元々館跡ということでダイナミックな遺構はないものの、境内に残る古の建築物の数々は、とても興味をそそられるものがありました。それとどうでも良いことなのですが、同じ栃木県内に住んでいるとはいえ、県南の方って、何故かアウェイ感が強いというか。もともと文化圏が違うんですかね。
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