趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
犬山城は、愛知県犬山市にある平山城で、別名白帝城(江戸時代に荻生徂徠が中国の故事にちなんで命名)。現存天守12城のうちの1つにして、4つある国宝指定のお城のうちの1つ(昭和10年旧国宝、昭和27年あらためて現国宝に指定)です。
築城は、天文6年(1537年)。織田信長の叔父である織田信康によって、元々有った乾山の砦に城郭を造営し、犬山城としました。それでその信康は、天文13年(1544年)に信長の美濃(稲葉山)攻めの際に戦死するのですが、その後は様々な争いの影響を受け、またその舞台となったりするなどして、その結果次々に城主が替わることになります。
まずは、信康の後を継いだ(信康の4男)信清は、信長と不和になった結果永禄8年(1565年)に信長に攻められ甲州へ逃亡。その後元亀元年(1570年)から桶狭間や姉川の戦いで功績を挙げた織田家家臣の池田恒興が入城しますが、天正9年(1581年)に摂津国兵庫へと移り、替わって信長の五男で恒興の娘婿である織田信房が入城。しかし、翌天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、信房は父信長に殉じました。替わって信長の次男信雄家臣の中川定成が入城しますが、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの序盤に元の城主で秀吉側に付いた池田恒興に攻められ戦死。しかし恒興は同年その小牧・長久手の戦いで戦死。戦いの最中は秀吉家臣の加藤光泰が城代を勤めました。そして戦いののち犬山城は信雄に返還されると家臣の武田清利が、天正18年(1590)からは同じく信雄家臣の土方雄良が入城したのですが、天正18年(1590年)の小田原攻め後の論功行賞で信雄は秀吉の怒りを買い失脚。(余談ですが、下野国の烏山(那須とも)に一時流罪されたそうで。)その結果当地は秀吉の養子秀次に与えられることになり、秀次の実父である三好吉房が入城。翌天正19年(1591年)には吉房の子である豊臣秀勝が、そして翌文禄元年(1592年)からは秀次家臣で吉房の義兄弟である三輪吉高が入城しました。しかし、文禄4年(1595年)の秀次事件で秀次は切腹し、秀次に連なる者も失脚。替わって入城したのが秀吉家臣である石川光吉で、木曽谷代官を兼務。秀吉没後もそのまま城主となっていたのですが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで合戦で西軍についたため(この時犬山城で籠城戦を行いましたが、共に籠城した武将達が井伊直政の手引きにより全て東軍に寝返ってしまったという…。)、戦後は所領没収となりました。そして江戸時代に入り、まずは慶長6年(1601年)に徳川家康の四男である松平忠吉が尾張国清洲城に入部された際、家康の命でその付家老となった小笠原吉次が城主となり当地を領しました。そして慶長12年(1607年)に忠吉が没すると、今度は家康の九男であり尾張徳川家の祖となった徳川義直の付家老である平岩親吉が城主および当地を領しましたが、その親吉も慶長17年(1612年)に没すると、遺言により所領は徳川に戻されました。(しかし、犬山藩史によると、親吉の没後親吉の甥である吉範が元和3年(1617年)まで当地を領したとあるそうで。)で、自分でも書いていて訳がわからなくなってきた(もし読んでくださった方がいたら申し訳ないというか、ありがとうございます。)のですが、ここでようやく真打ち登場というか、元和3年(1617年)。家康より乞われて義直の附家老となった成瀬正成が、犬山城に入城。以後幕末まで9代にわたって成瀬氏の居城となります。
と、以上のとおり城主は替わっていく中、 もとは織田信康によって築かれた犬山城ですが、現存する3層4階の天守のうち、下の1,2階部分は信康の築城時である天文6年(1537年)か、もしくは城主が小笠原吉次の時代である慶長6年(1601年)に建てられたそうで。また、3,4階部分については城主が成瀬氏となった元和年間以降に建てられたとのことです。
それで明治に入り、明治4年(1871年)の廃藩置県の際に犬山城は愛知県の所有となり、天守以外の建物が破却されたり払い下げられたりしました。そして明治24年(1891年)に発生した濃尾地震で犬山城も被害を受け、天守の付櫓が破損してしまったのですが、明治28年(1895年)に修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与。成瀬家と犬山町民が義援金を募り、無事修復されました。その後、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風でも被害を受けたりしましたが修復されたりしつつ平成16年まで成瀬氏の所有となっていた(当時、日本で唯一の個人所有の城だそうで。)のですが、同年に財団法人犬山城白帝文庫の所有となり現在に至ります。
今回の旅の計画を立てるにあたって、日本100名城のうち必ず寄ろうと思っていたのが、ちょっと前に記事にした松坂城と、そして後で記事にする予定の岐阜城。そして、時間に余裕があればと思っていたのがこの犬山城でした。で、松坂城の記事でも書いたとおり、本来旅の二日目に予定していたのを初日にまわってしまったので、時間的にかなり余裕ができることに。ですが天気は生憎の雨。しかも、昨日は小雨程度だったのが、今日は本降りといった感じの降り方です…。でも、折角このあたりまで来たのだからということで、そんな中を犬山城に向けて出発しました。
【名古屋高速小牧北出口付近】
というわけで宿のある松阪を出発し、東名阪道、名二環、名古屋高速と通って小牧北出口から国道41号へ。雨は相変わらず降り続いています。
【犬山城近く】
小牧北出口からナビ(代わりのスマホアプリ)の指示通りに約20分程走ると、いかにも城下町といった感じのところへ。そして程なくして犬山城近くの有料駐車場に到着しました。
【登城道の入口付近の広場】
駐車場を出て正面の体育館に沿って戻ると、お城の入口へ。あたりは結構な広さの広場になっているのですが、このあたりは元々三の丸だったようですね。
【中御門跡付近】
広場奥の赤い橋を渡ったところが、登城道の入口。そこにはかつて中御門と呼ばれる門と、番所があったそうです。そして写真右手はかつて松の丸(二ノ丸)だったところで、現在は三光稲荷神社と猿田彦神社が鎮座しているのですが、現位置には昭和39年(1964年)に移転してきたとのこと。で、三光稲荷神社は元々築城主である織田信康公の保護を受け、その後城主成瀬氏が守護神としていたそうです。
【橋の下を通る道路】
ここは昔、水堀の一部だったんですかね?でも、犬山城公式サイトの古地図見ると角度が微妙なんだよなぁ。
【登城道】
登城道は左右に曲がりながら高度を上げていきます。ところで、正面の建物の基部が櫓台っぽいのですがどうなんでしょ?それと奥は針綱神社で、濃尾の総鎮守だそう。延長5年(927年)の延喜式にも記述のある式内社で、もともとは犬山城天守付近に鎮座していたのですが、その後数度の移転を経て明治15年(1882年)に現在の位置になったそうです。また、織田信康公が手彫りの狛犬一対を奉納したことから、安産の安産・子授けに御利益があるそうで。
【黒門跡】
登城道の途中にあるのが黒門跡で、現在は礎石が1つ残るのみ。
【空堀】
写真がアレで判りづらいのですが、登城道の左手にある空堀。
【岩坂門跡付近】
登城道の坂道を登り切ったところが、かつて岩坂門があったところとのこと。ちなみに、写真右手の建物が本丸の入場券売場になっています。それにしても、登城道は曲がりつつも入口から一本道でここまでずっと来ているというか、途中で曲輪内に入って道が途切れるということはなく、登城道に沿って曲輪が並んでいるのが珍しく感じたというか。
【本丸内】
入場券を購入して、いざ本丸へ。それで、現存天守とご対面なのですが、なんということでしょう。修繕中なので足場が組んであるのは仕方がないにせよ、犬山城天守の特徴である付櫓が、シートに隠れて見えないなんて。
【日本100名城スタンプラリースタンプ設置場所】
日本100名城スタンプラリーのスタンプは、本丸入口の門の上にある建物に置いてあります。
【天守のアップ】
【更に近寄ってみた】
付櫓を覆うシートなのですが、隠しているのは正面のみ。なので近づいて横から狙うも今度は木が…。
【天守からの眺め(だいたい西方向)】
【天守からの眺め(北方向)】
【天守からの眺め(だいたい東方向)】
【悪天候の為立入が制限されています】
天守最上部の回廊からは、下を流れる木曽川などの眺めが堪能できます。天気が良い日は名古屋城も見られるらしいのですが…。ちなみにこの日は、悪天候のため回廊の立入が一部制限されていました。
というわけで犬山城だったのですが、やっぱり現存天守は素直にすごいというか、流石は国宝というか。本丸はコンパクトで、天守も聳え立つという大きさではありませんが、やはりその存在感は格別のものがあります。ですが、今回残念だったのが天気と、天守が修繕中だったこと(特に、犬山城天守の特徴である付櫓部分が…。)。これは事前に良く調べておけば回避できただけに自分の適当さが悔やまれます。それに、今回は周辺のお寺に移築された門も見て回らなかったので、次にお伺いする時は、そのあたりを堪能できればなぁ、と思います。(その時には是非とも天気に恵まれて欲しいなぁ。)
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