趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
12回目となる名古屋鉄道乗車記ですが、今回は旅の2日目に全車一般車特急で河和線・知多新線に乗った時のことを。
【2日目の乗車区間】
※クリックで拡大(この絵に限らず当ブログの画像はクリックでだいたい拡大しますので。)
名鉄名古屋駅に到着したのが13時50分。上前津駅から金山駅を経てここまで、途中できしめんをいただいている時でさえ急ぎ足で来たのは、次に乗るのが決まっている14時11分発の名鉄名古屋発内海行き特急列車に乗る前にちょっとでも時間を稼ぐ為。その一番の目的は、乗車列の先頭に並んで席を確保する為なのですが、その前に、暫く前から我慢していたトイレを大急ぎで済ませて4番線のホームに。
それにしても、名鉄名古屋駅、かつては新名古屋駅に来る度にびっくりしたり関心するのが、発着する列車本数の多さ。名鉄名古屋駅は現在、線路が豊橋方面と名鉄岐阜方面が1線づつの計2線、プラットホームが、1番線から4番線のまでの計4面(2線4面。しかもうち2面は、降車・特急の特別車乗車用ホーム。)しかないにもかかわらず、平日朝のピーク時である朝8時台には、普通から準急、急行、特急、快速特急、ミュースカイの上下合わせて1時間に56本もの列車が、本数が少なくなるこの14時台でも、上下合わせて47本もの列車が発着していきます。
で、その本数を、これだけ少ないプラットホームで捌くために取り入れられているのが、方向別に色分けされ、ちょっとづつずらされた乗車位置。初見殺しのように見えますが、自分が乗るべき列車を踏まえてちゃんと見ていくと、並ぶべき乗車位置がわかるようになっています。ちなみに、今度乗る14時11分発の内海行き特急列車は、緑色の「河和・内海 中部国際空港方面」の乗車口。うち光っている箇所には列車が停まるので、その中から誰もまだ並んでいなかった丸の中に23という数字が書かれた乗車口前に整列。表示の中にある細長いランプが点滅しだすと程なく、岐阜方面から列車が入線してきました。
入ってきたのは昨日に続いてこの旅2度めとなる6500系の4両編成。名鉄の特急列車といえば、今朝乗ったパノラマsuperや、中部国際空港アクセス特急のミュースカイなど、編成の一部または全部が座席指定の特別車になっているものが多いのですが、平日日中の河和行き、内海行きなど一部の特急列車は全車一般車で運転されており、今回の計画を立てる際、それも珍しかろうと行程に組み込んだ次第。(そのお陰でその前後の乗り継ぎがが結構苦労したんですが。)で、全車一般車となれば、編成によってはロングシートの車両に当たってしまう可能性もあった(先程、金山駅で見かけた名鉄名古屋駅13時41分発の河和行きもロングシート車両だった。)のですが、嬉しいことに車内は、オリジナルの集団離反式固定クロスシート!心の中でガッツポーズしてから乗り込みます。ただ残念なことに、乗り込んだ4両編成の最後尾車両は、モーターが付いて無い車両。一般車が特急としてブッ飛ばす際のモーターの唸りを味わいたかったのですが、クロスシートの窓側に座る可能性に賭けた結果、こうなってしまった次第で。ちなみに、その車両の番号は6508(ク6500形)、昭和60年(1985年)に製造された車両のようです。
列車に乗り込むと程なく、定刻の14時11分よりも若干遅れて名鉄名古屋駅を発車。この時点では窓側の席が埋まる程度の乗車率だったのですが、次の金山駅で座席はほぼ埋まり、その次の神宮前駅では立つ人も出てきました。それでここから先、列車は知多半島に向けてまずは常滑線を走行。その常滑線については、明日全線に乗る予定なのでその際に書くとして、高架線から眺める車窓の景色は、ずっと市街地が続く感じ。それにしてもさすがは特急列車だけあって、結構飛ばすというか、この車両の最高速度である110km/h出ているんじゃないでしょうか。そして次の停車駅である太田川駅では、そこそこの降車がありました。
太田川駅から先、列車は河和(こうわ)線へと歩を進めます。それでこの河和線。名鉄が定めた路線記号は「KC」。太田川駅を起点に、終点の河和駅を結ぶ28.8kmの路線。起点駅と終点駅を含む駅数は19で、末端の1駅間(河和口駅-河和駅間)以外は複線化されています。
その歴史は昭和6年(1931年)、知多鉄道によって太田川駅-成岩駅間が当初より複線で開業。もっとも知多鉄道は、太田川駅で接続する愛知電気鉄道(愛電)に業務全般を委託しており、開業当初から列車は愛電に乗り入れ、神宮前駅まで直通運転がなされていたそうで。そしてその翌年の昭和7年(1932年)には河和口駅まで、昭和10年(1935年)には河和駅まで全通。同日、愛電が名岐鉄道と合併して現在の名古屋鉄道(名鉄)が誕生したので、業務全般は名鉄が委託先に。更に太平洋戦争中の昭和18年(1943年)、知多鉄道は名鉄に合併され、名鉄知多線となり、戦後の昭和23年(1948年)、河和線と改称されました。
また河和線は、名鉄での有料指定席特急が初めて運転された路線でもあり、昭和36年(1961年)の夏に運転された海水浴列車「内海号」がその始まり。以降も夏季に海水浴列車の臨時特急が運転された他、平成19年(2007年)のダイヤ改正までは全車特別車特急が運転されていましたが、現在はこの列車のように、平日昼間の時間帯は全車一般車の特急列車が運転されるようになりました。
【太田川駅-高横須賀駅間】
【高横須賀駅-南加木屋駅間】
【八幡新田駅通過】
そんな河和線。太田川駅を出て少しのあいだ高架線を走行して地上へと。このあたりから、景色に農地が混ざり出し、そんな中、列車は相変わらず飛ばす飛ばすという感じで、スピード感だけで言えば今朝のパノラマスーパー以上に感じます。そして南加木屋駅と八幡新田駅の間で、昼前に見た愛知池のだいぶ下流となる愛知用水を跨ぐはずなのですが、用水路が暗渠になっていてわかりませんでした。
【阿久比駅に停車中の河和行き普通列車】
【阿久比駅-植大駅間(水を入れている田んぼ】
やがて景色が、農地混じりの住宅から河川敷の水田に変わって程なく、次の停車駅である阿久比(あぐい)駅に到着。ここで追いついた先行の普通列車は、昨年(令和元年)デビューした9500系という形式の車両でした。で、阿久比駅発車後も車窓には水田が続くのですが、何枚か水が入っている田んぼがあり、中には代掻きしてるところも。昼間の三河線でもそのような景色を見かけて不思議に思っていたので帰ってから調べたところ、愛知県の一部では、冬季に代掻きを行った後、春に田んぼへ直接種を播く「不耕起乾田直播栽培」というものが行われていることを知りました。その後車窓は再び住宅地が目立つようになりつつも、都市とは違う雰囲気に。そんな中列車は、知多半田駅、青山駅、知多武豊駅に停車。駅ごとに乗客を降ろしたため、その頃には、車内は空席のほうがかなり多くなっていました。
知多武豊駅の次の停車駅は冨貴(ふき)駅。発車すると列車は右にカーブを切って河和線と別れ、知多新線へと乗り入れます。それでこの知多新線。名鉄の定めた路線記号は、この列車のように河和線と一体となって運行されているためか河和線と同じ「KC」。冨貴駅を起点に終点の内海駅との間13.9km、起点終点を含めた駅数は6、全線単線で結んでいます。
知多新線は、全通したのが昭和55年(1980年)と、名鉄の中ではかなり新しい路線。かつてより知多半島南部への鉄道敷設の計画はいくつかあったものの、沿線人口の少なさや太平洋戦争によってどれも具体化するには至らず、ようやく計画が動き出したのが戦後暫く経ってから。昭和33年(1958年)に知多半島南部が三河湾国定公園に指定され、名鉄も昭和30年台には知多半島南部の観光開発に力を入れるようになります。そんな中、内海までの鉄道敷設が計画され、紆余曲折あったものの、最終的には冨貴駅から分岐するルートに決定。名鉄的には観光の他、沿線の宅地開発も見込んだものとなりました。
しかし昭和45年(1970)年に冨貴駅側から着工を迎えた後も、さらなる紆余曲折が。まずはトンネルに出水事故が発生し、次の上野間駅まで開業したのが昭和49年(1974年)のこと。その後は比較的順調に工事が進み、昭和50年(1970年)に知多奥田駅、昭和51年(1976年)に野間駅まで開業したものの、終点の内海駅の位置を巡って名鉄と地元が対立。結局地元の意向を汲んで駅の位置を変更したものの、今度は建設予定地に貝塚が見つかり調査のあいだ工事が中断。そのため全通したのは着工から10年後の昭和55年(1980年)となってしまったのですが、その間、沿線の大部分が市街化調整区域になったため宅地開発が出来ず、またレジャーの多様化により知多半島南部の観光も打撃を受けるなど、計画当時とは情勢が大きく変わってしまったようです。
【冨貴駅-上野間駅間(河和線との分岐)】
【冨貴駅-上野間駅間(別曽池と南知多道路)】
そんな経緯を持つ知多新線に入ると、景色が一変し、一気に山がちな地形に。南端の細くなっているところとはいえ、これから知多半島を横断するという雰囲気が景色からも伝わってきます。そして南知多道路を跨いですぐに現れるのがこの列車は通過する別曽池信号場。冨貴駅と上野間駅の間は駅間距離が5.8kmと長いためか、開業後に改めて作られた信号所で、(知多新線は全線単線ですが)あらかじめ確保されていた複線用の用地を使って作られたそう。更にその信号所を超えてすぐに入るトンネルが、出水事故で工事が中断した深谷トンネルです。
トンネルを抜けて家並みが広がると、上野間駅に停車。ちなみに知多新線は、この特急列車を含め、全列車が前駅に停車します。その上野間駅を出た列車は、地図上、知多新線で一番海と近くなるあたりを走行。もっとも、線路の敷き方が海岸線べったりというわけではないので、遠くに海が見えるをという感じですが。そして次の美浜緑苑駅は、知多新線沿線で数少ない宅地開発が行われたそう。更に次の知多奥田駅では、残っていた数少ない乗客がだいぶ降りました。
最後の停車駅の野間駅を出ると、列車は再び山がちな地形の中へ。トンネルを抜け、設置する予定で途中まで建設されたけど結局設置されなかった小野浦駅(仮称)の遺構を通過して、再びトンネルを抜けると、15時7分の定刻よりは若干遅れたでしょうか?終点の内海駅に到着。降りた乗客は、各車とも数名程度のようでした。
内海駅は開業してから40年ほど経過している高架駅なのですが、当時のコンクリート構造物らしさに溢れた、個人的には好きな佇まい。列車を降り、階段を降りて、改札・出札口の自動改札機(って変な表現ですが)に名鉄電車全線2DAYフリーきっぷを入れ出ようとすると、なんとエラーが。駅員さんが機械を開けて取り出してくれたのですが、今朝以来、かなり使いが荒かったのと、切符をデニムの尻ポケットに入れた長財布に仕舞っていたものだから私の体重(3桁……。)で擦れて角の部分がめくれてきてしまい、今後の使用に不安が……。で、そんなすったもんだしている間に、私と共に降りた乗客の殆どは、旅館などの出迎えのクルマで去っていった模様。また何人かは、河和駅行きの路線バスに乗り継いだようです。
【内海駅に停車中の名鉄名古屋行き特急列車】
【6558(モ6550形)のシート】
私の次の目的地も河和駅なので、そのバスに乗っても良かった(しかも、その方がこの日乗車を予定している全路線を早く乗り終えることができる)のですが、今回はあくまでも名鉄を堪能する旅なので、先程の折り返しとなる15時15分発の名鉄名古屋行き特急列車に。前から2両目で今度はモーター付きの6558(モ6550系)に乗車。勝手な一旅行者というか個人的な意見を言わせてもらうならば、クロスシートの車両なら、もう、何度乗っても良いというか。
列車は定刻、各車2,3人の乗客を乗せて発車。次の野間駅に向けてスピードに乗って走っていると、小野浦駅(仮称)の手前あたりだったでしょうか、アナウンスと共に緊急ブレーキがかかり、そのまま停車。車内放送によると、危険を知らせる信号を受信したとのことです。それで一瞬、この後の乗り継ぎのことが脳裏をかすめましたが、程なくして発車。その際、帰りは撮ろうと思っていた小野浦駅(仮称)の写真を取り逃したのは痛恨事でした。その後は、駅ごとに2,3名の乗車を乗せつつ進み、来る時には通過した別曽池信号場で停車し列車交換。途中で停まったにもかかわらず、冨貴駅には定刻の15時33分から1分程度の遅れで到着しました。
冨貴駅は、最近めっきり見なくなったと思っていた構内踏切のある駅で、それを渡って次に乗る河和行きが来る1番線へ。駅構内には立派な藤棚があり、初夏ならさぞや見事だろうと思わせるのですが、残念ながら冬枯れの真っ最中。そんな中、数人の乗客と列車を待つこと数分。何ていうかこの、もう二度と降りたりしないであろうという駅で列車を待つ時間って、個人的にはとても好きなんですよね。特にこの時は、日が傾き、一日の旅程が終わりに近づいているためか、妙に旅情を掻き立てられたというか。
【冨貴駅に入ってくる河和行き急行列車】
【6420(ク6400形)のシート】
冨貴駅からは、15時40分発の河和行き急行列車に。4両編成の先頭車、6420(ク6400形)に乗り込みます。で、この列車、(名鉄名古屋駅から内海駅で折り返して)冨貴駅まで乗っていたのと同じ6500系という形式なのですが、製造はこちらのほうが新しい平成元年(1989年)で、この年に製造れたものから車両のエクステリアに加え、インテリアも仕様が変わったよう。確かに、先程の車両とはシートの形状が違い、それによって掛け心地もだいぶ違いますね。
冨貴駅を出た列車は、先程の知多新線とは違って、海側に限っては地方の市街地という感じの景色の中を進み、河和口駅へ。このあたりが河和線で一番海に近いところなのですが、海沿いまではいかず、道路と、何かの空き地越しに海を見る感じに。そしてここから先、線路は単線となり、また一時海からも街からも遠ざかって、再び家並みが現れると終点の河和駅に到着。時刻は定刻の15時48分でした。
河和駅は、地図で見ると河和港など海からほど近いところに。「今日の行程もあと1路線乗るだけになったし、列車を1本遅らせて、海でも見てよう。」なんて気は、この時には何故か起こらず。(疲れて余裕が無くなってたんだわなぁ。)速やかに一度出札口から出て写真を撮った後、一番早い列車で引き返すことに。
【河和駅に停車中の名鉄名古屋行き特急列車(後部)】
【河和駅に停車中の名鉄名古屋行き特急列車(前部)】
河和駅からは、15時57分発の名鉄名古屋行き特急列車で。その車両は今朝以来となる1200形パノラマsuperの6両編成。車両番号からA編成の、後寄り2両の元1000系は平成2年(1990年)の製造、前寄り4両の1200系は平成3年(1991年)の製造で、その後平成29年(2017年)に編成全体がリニューアル工事を施された車両。乗車時間が短いので特別車ではなく、前から2両目の一般車となる5号車、1463(モ1450形)に乗り込みます。
定刻となり、5号車は10名弱の乗客を乗せて発車。名鉄名古屋駅から富貴駅、そして富貴駅から河和駅までは進行方向左側に座っていたので、その反対側の窓側に座り、一般車の転換クロスシートの掛け心地と、車窓の景色を堪能。それにしてもこの河和線、線路が景色の境目になっているのか、同じ区間でも来る時とでは印象がかなり違うところが多い気が。それにしてもこの時間帯、夕焼けにはちょっと早いですが、日が暮れゆく中で見る景色は、いい年して「きゅん」としてしまうというか。特に、自然の風景では無く、人の営みというか生活が垣間見える街の景色は。歳とともに人嫌いが加速している自覚はあるんだけど、何か不思議だなぁ、と。
つづく
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