趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
館(たて)城は檜山郡厚沢部(あっさぶ)町にある(建築中だった)城というか、実際には陣屋に近い物というか。松前城(福山城)と一緒に、国の史跡に指定されています。
その築城は、明治元年(1868年)。松前城の記事にもちょこっと書いたのですが、松前藩ではこの年の7月に、佐幕派重臣の専横に耐えかねた下国東七郎ら尊皇派の家臣団らが正議(正義)隊を結成。政変を起こしました。それで、当時の松前藩は財政的に大変困窮しており、これまでの漁業中心の経済から拓地、勧農による農業(米作)振興を意図。ちょうど有事の際の避難地に内定していたとされる厚沢部の館村は、厚沢部川沿いに平地が広がり農地開墾に適した土地が多かったので、当地に城というかその拠点を築くこととなったのですが、これは正議隊を支援した江差の豪商達の働きかけもあったようで。またそれとは別に、当時の情勢というか、戊辰戦争の戦火が北上していたことも築城された要因になっているんでしょうかね。
で、新政府からその許可を得て築城を開始。その経緯は厚沢部町役場のウェブサイト(に載っている松前町史からの引用)によると、9月12日頃から土木工事に取りかかり、建物の建築、そして内装工事が終了したのが10月26日というかなりの突貫工事。建築の際の畳が370枚など大きさは結構小さく、建物は板張りで、外郭は堀と土塁の内側に、塀ではなく柵列という急ごしらえの物だったらしいです。ですが、これはあくまでもこの年の分の建築で、後に二の丸、三の丸と増築を重ね、最終的には本格的な城郭にする計画もあったようで。
しかし、榎本武揚ら旧幕府軍は、10月20日に内浦湾の鷲の木村(現在の森町)に到着し、10月26日には五稜郭へ入城。函館を占拠しました。そして松前藩に降伏勧告の使者を出したのですが、松前藩側はこれを拒否。徹底抗戦する構えでした。それを受け旧幕府軍は、10月27日に土方歳三率いる約700名の兵を松前に向け、11月5日には松前城を落城せしめたのですが、藩主徳広らは既に、築いたばかりの館城に逃れた後でした。(その後土方らの隊は江差に向け進軍。)その一方で旧幕府軍は、今度は館城を攻めんと11月10日に松岡四郎次郎率いる500名の兵を五稜郭から向け、11月15日には館城へと到達。松前藩側も奮戦しましたが、わずか1日で落城してしまいました。ちなみに、藩主徳広らはその前日に、日本海沿いの熊石に逃れ、更にその後船で弘前藩へと逃れたのですが、徳広はそこで労咳により死亡しました。
館城を攻め落とした際に旧幕府軍は城を焼き払い、ここで館城のものすごく短い歴史は終わるのですが、その後戊辰戦争は終結を迎え、徳広の子である修広が幼くして松前藩主に。松前城も松前家の所有に戻ったのですが、明治2年頃、藩名を松前から館に変更。これは、館城を築く際に築城を朝廷から許されたためとも、家臣達が館城の再築を願っていたためとも。しかし明治4年の廃藩置県によって館藩は館県となり、その後弘前県の一部となり消滅してしまいました。
開陽丸のある江差町までは国道228号を走っていたのですが、そこから大野国道こと国道227号へ折れ、程なく館城のある厚沢部町へ。で、そこからが結構あったというか、ちょっと走って道道634号へと折れ、そこから暫く走って本当にあるのかどうか不安になって(そりゃ、カーナビではちゃんと有ることななってはいるんですがね。)きた頃。
【館藩館城址と書かれた門】
ナビの指示通り町道館城富里線へと入ってすぐのところに、館藩館城址と書かれた門を発見。ここからちょっとだけ走ると館城に到着しました。で、城跡は走ってきた町道館城富里線で南北に分断されているのですが、まずは南側のエリアから探索開始。それにしても、蝉の声がものすごく五月蠅かったというか。
【館城ミニ資料館】
手作りっぽい館城ミニ資料館という建物が。中にはちょっとした資料と館城跡まつりの写真が展示されていました。
【百間堀(写真左手が城外)】
【堀が曲がっているところ】
発掘調査によって、主郭の外周には、外側から堀(百間堀)、土塁、そして柵列の順で巡らせてあったのがわかったそうで。で、柵列は無くなりましたが、堀と土塁は埋められたり削られたりしながらも、特に町道南側のエリアではしっかりと残っています。
【城域南側の丘から館城を望む】
城の南側には丘があり、そこから館城を眺めるとこんな感じ。で、ここのあたりには土地に窪みが有り、発見された時は兵が潜む散兵壕ではということだったのですが、後の調査で風倒木跡であることが判明しました。
【町道北側】
【礎石】
町道の北側は、御殿が建っていたところ。なので、至る所に礎石が残っているのですが、落城時に焼き払われたことを示すように、その多くは赤く変色していました。
【井戸跡】
館城跡には現在3箇所の井戸跡(全て町道の北側に存在。)が確認されているのですが、明治20年にこの地を訪れた開拓者は、十数基の井戸跡があったと記しているそうで。
【幻の米倉跡】
城域の北端付近には、かつて焼けた米などが堆積していたため「米倉」と呼ばれていたのですが、発掘調査の結果、建物の跡は発見できなかったそうで。で、その際、焼けた米の他、焼土の中から釘や鎹などの建築資材が発見されたので、館城が焼き払われた後、炭になって残ったものを一箇所に集めた場所かもしれないとのこと。
【米倉跡付近の柵列跡】
このあたりの柵列跡というか城の外郭は、かなり複雑な曲がり方をしていました。何故このような形になったんですかね。
【三上超順力試之石】
町道北側の西の端には、三上超順力試之石と彫られた石碑とその横には丸い石が。元々はその言い伝えと共に厚沢部町内のお寺に安置されていたものなのですが、昭和43年に館城跡100年を記念して、そのお寺から館城跡に石を移し、同時にその石碑を建てたそう。ちなみに三上超順とは、松前藩法華寺の僧にして、館城の戦いの際は松前藩正議隊隊長。見方を逃がすために右手に大刀、左手に盾代わりのまな板を携えて、単身で旧幕府軍の前に立ちはだかり、獅子奮迅の働きをしたもののあえなく戦死。しかし、その戦いぶりに感銘を受けた旧幕府軍の手によって、手厚く葬られたとのことです。
というわけで館城だったのですが、予備知識もなしにここに来ただけでは、何故、松前城から80kmあまり離れたこの地に新しい城を築こうとしたかわからなかったかもしれません。ですが、そのとても短い歴史について調べ、そして実際に訪れて遺構を目の当たりにしてみると、色々と感じ入るものがあったというか、かなり感慨深かったというか。そして知れば知る程、幕末から明治維新にかけては色々な物がその志を果たせず滅び去ってしまったなぁ、と。ちなみに写真のとおり、現地に遺構はそれほど残っている訳ではないものの、町が最近設置した発掘調査の内容や結果を知らせる看板は、遺構を理解するのに大変に役立ちました。それにしても残念だったのは、今回お伺いしたのが月曜日だったので、館城の資料が展示してある厚沢部町郷土資料館の休館日と重なってしまった事。あと、館城について調べるうちにその存在を知った、『まんが 愁跡の館城』(厚沢部町編)がものすごく読みたくなったというか。(ちなみに、郷土資料館と図書館は併設なので、休館日じゃ無ければどちらも観られましたね。)
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