趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
前の記事で書いたとおり、先日、東北・北海道方面に旅行してきたのですが、その最初の目的地がこちらの秋田城。もっとも、最初から「これを目的にして是非とも行こう」と固い決心のもと向かったのではなく、計画を立てている途中に発見して、「ちょっと面白そうだなぁ」程度のノリでお伺いしてみることにしたのですが…。
秋田城は、秋田県秋田市にある古代の城柵(じょうさく)。
城柵とは、7~11世紀頃(っていうと飛鳥時代から平安時代にかけて)の古代日本において、大和朝廷が築いた政治行政機能を併せ持つ、蝦夷(えみし)や隼人との戦いの為に築かれた軍事施設でなのですが、この秋田城は、もともとは出羽柵(でわのき)といって現在の庄内地方に置かれていたものが、朝廷側勢力の拡大というか侵攻の北上にともなって、奈良時代の天平5年(733年)に秋田村高清水岡に移転。そして天平宝字4年(760年)頃に秋田城(あきたのき)へ改称されたとのこと。その後、奈良時代の末頃、秋田城に専当の国司を置くことになり、その後、平安時代中期までに出羽城介という令外官となったそうで。
それともう一つ、秋田城で特徴的なのが、奈良時代に渤海国からの使節がたびたび出羽へ来着したそうなのですが、その饗応を、秋田城において行っていたのではないかという話も。発掘調査の結果、城趾からは、迎賓館ではないかと推測される遺構も見つかっているそうです。
で、平安時代に入った延暦23年(804年)に国府の機能を停廃し秋田城制が廃止(秋田郡となった)となり、また迎賓館としての役割は終えた(と考えられている)のですが、蝦夷との戦いの拠点として秋田城は存続。しかし、天長7年(830年)の出羽大地震により倒壊したり、また俘囚の反乱により度々被害を受けたりとなかなかに大変だったみたいですね。そして、永承6年(1051年)あたりに起こった前九年の役の影響で出羽城介が任命されなくなり、それ以降、秋田城は衰退していったとのこと。
そして現代に入り、昭和14年(1939年)に国の史跡となり、以後、発掘調査などが行われているのですが、土塀や様々な建物の跡などが確認されているそうです。
今回の旅行では元々、日本100名城の久保田城がお目当てで秋田を訪れようと思っていたのですが、冒頭で書いたとおり、行く前にちょっと調べていたところ、クルマだとさほど離れていない同じ秋田市内に城柵跡があると知り、折角なのでというか面白そうだったので、急遽旅程に組み込むことにしました。そんなわけで、出発地にこちらをナビ(といっも本来のカーナビが故障中ゆえスマホのカーナビアプリですが。)にセット。自宅最寄りのICから東北自動車道に乗り、北上JCTから秋田自動車道へと進み、秋田北ICからナビの指示に従って近くまで来てみたのですが、「目的地付近です。案内を終了します。」と言われても、最初、どこに城跡というか遺跡があるのかがわかりませんでした。ですがその付近からちょっとだけ進み、護国神社入り口の案内看板に従って入っていくと、ようやく復元された門と、「史跡 秋田城跡」の幟端を発見しました。
【復元された政庁東門付近】
で、まず最初にみたのが、入ってきた道路東側の政庁跡。築地塀と東門が復元されているのですが、その前では、こちらの中学か高校の陸上部とおぼしき子供たちが練習中でした。
【政庁正殿跡】
【政庁建物跡】
東門から入ると、正殿をはじめとする政庁内の建物跡がわかるようになっています。
【秋田城跡出土品収蔵庫】
こちらは名前のとおりの建物。入ってきた道路から政庁跡に方にほんの少し入ったところにあり、無料で見学できます。また、ボランティアさんによる解説も聞けるのですが、時間の都合により(政庁跡を一通り回っただけで予定していた時間がほとんど過ぎてしまったので。)申し訳ないけどお断りして、速攻で一巡。正直、もっとゆっくり見れば良かったなぁ。
【復元された外郭東門付近】
こちらも築地塀と門が復元されているのですが、良い感じに馴染んできているというか。ちなみに門は、八脚門という形態だそうで。それにしても、一部だけの復元とはいえ、こちらのウェブサイトの説明書きにもある「律令政府の力を示す象徴」というのが実感できる、当時としてはかなり立派な建造物というか。
【鵜ノ木地区の建物跡】
【鵜ノ木地区にある平安時代の井戸跡】
外郭東門に隣接しているのが、鵜ノ木地区と呼ばれる大規模な建物群や井戸跡、沼跡がある区域。ここに渤海国からの使節の饗応に用いられた迎賓館があったそうで。また、平安時代に入ると、寺院が置かれていたらしいですね。
【水洗厠舎跡(すいせんかわやあと)】
【厠の個室内部】
前述の迎賓館があったという証左が、奈良時代としてはたいへん珍しい水洗厠舎跡。汚物を一度沈殿槽に溜め、その上澄みだけを流す構造になっていたらしいのですが、その沈殿槽からは、当時の日本の食生活ではあり得ない寄生虫卵が発見されたとのことで。
【栽培される古代米】
水洗厠舎跡の近くでは、古代米(紫黒米)が栽培されていました。失礼ながら、土壌が栄養満点だからでしょうかね。ちなみに、奈良時代の上流階級の主食は白米で、蒸した強飯(こわいい)、炊いた姫飯(ひめいい)が食べられていたそうで。
【秋田県護国神社】
秋田城跡と隣接する場所には、秋田県護国神社が鎮座。(この時点で予定時間は完全にオーバーしていましたが)お参りさせていただいたのですが、お社がとても立派でしたね。で、帰ってからこの記事を書くに当たってちょっと調べたところ、平成2年に過激派によって爆破・全焼してしまったそうで。
というわけで、急遽訪れてみた秋田城だったのですが、行く前はついでに寄るくらいの気持ちだったのと、復元された門くらいしか見所がないなんて勝手に思っていた(ので、予定ではあまり時間を取っていなかった)ところ、失礼ながら予想外に見応えがあったというか。その中でも特に、鵜ノ木地区にあった古代の水洗便所は、大変興味をそそられましたね。そんなわけで、予定していた時間をだいぶオーバーしてしまい、この後の行程にちょっと影響が出たのですが、それよりも知的好奇心を満たすことが出来、来て良かったというか、こういう良い意味での予想外があるから、実際に行ってみるのは大事だよなぁ、なんて。
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