たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

出島 【平成29年1月23日(月)】

「史跡 出島和蘭商館跡」の石碑

 このところ続いている団体旅行ネタなのですが、腹ごしらえを済ませた後も長崎観光は続き、だいぶ日が傾いた頃に一行が立ち寄ったのが、最近建物などが復元された出島です。で、この出島。個人的にもちょっと訪れたかったというか。


出島について

 出島といえば、個人的には中学校の歴史の授業で習った、江戸時代に鎖国した日本の、当時唯一の外国への窓口くらいの知識しかなかったのですが、公式サイトやウィキペディアの記述によると、寛永11年(1634年)、長崎市内に住んでいたポルトガル人を隔離管理するため、幕府の命によって築造が開始。その理由についてはキリスト教の布教を阻止するためと言われており、またその費用については幕府も一部出したそうなのですが、出島町人と呼ばれる長崎の豪商達25人が出資し、賃借料をポルトガル人の商館長から取り立てるというシステムにしたそう。ちなみに、出島は岬の先端に接するよう、海を扇形に埋め立てて築かれたのですが、何故人工の島にしたのかや、何故そのような形状になったのか、また誰が設計や工事の監督をしたのかなど、現在でも不明だそうです。

 それで築造開始から2年後の寛永13年(1636年)に完成し、市内のポルトガル人を収容したのですが、その翌年に起こった島原の乱にって(というか口実に?)、幕府はキリシタン=カトリックと、カトリック国であるポルトガルに対して警戒感を強め、とうとう寛永16年(1639年)にはポルトガル船は来航禁止に。これをもって鎖国体制が完成したそうなのですが、その際、出島に残っていた貿易に従事するポルトガル人も追放されました。

 その後、ポルトガルに変わってプロテスタント国のオランダが幕府の貿易相手となったのですが、出島町人の訴えなどによって寛永18年(1641年)、平戸にあったオランダ商館が、無人になっていた出島に移転し、以降幕末200年以上にわたって、日本で唯一海外へと開かれた窓口となりました。

 そして嘉永6年(1853年)の黒船来航から開国への流れの中、安政2年(1855年)にはオランダとの間に日蘭和親条約が締結されるとオランダ人の長崎市内へと出入りが許され、安政6年(1859年)には出島にあったオランダ商館が廃止となり領事館に、そして出島自体も外国人居留地の一部となるなどその役割を終えることになりました。

 更に明治に入ると北側が中島川変流工事によって削られ、そこ後港湾工事により周囲が埋め立てられ、島ではなくなってしまったのですが、大正11年(1922年)に国の史跡に指定。太平洋戦争後の昭和29年(1954年)から一部庭園の復元工事が開始され、その後も表門などが復元されたのですが、平成8年からは長崎市により本格的な復元工事に着手。現在もその作業が続いています。

実際に行ってみた

【中島川から出島を望む】
中島川から出島を望む
 そんな出島なのですが、今回立ち寄ったのは偶然の産物というか、元々行く予定だった場所が荒天のために行けなくなり、それによって市内観光の時間が長くなったので行けるようになったんですよね。そんな中、出島近くにある某有名カステラ店で買い物をした後、そのまま徒歩でお伺い。

【水門】
水門
 出島の北側中央にあった表門に繋がる橋は現在復元中なので、西側の国道499号(出島海岸通り)に面した水門が現在の入口になっています。ちなみに料金は大人510円でした。

【水門付近から見た街並み】
水門付近から見た街並み
 ほとんどの建物が復元され、街並みが甦った出島。当時の格好をしたスタッフさんも歩いていて、なかなかに良い雰囲気ですね。

 それで本来なら、内部まで復元された建物の一つ一つを、それらに展示されている資料と共にゆっくりと堪能したかったのですが、生憎時間がない(このあたりは団体旅行なので仕方が無いのですが、ほんと勿体なかった!)とのことで、駆け足で見ることににして、ここでは入口付近から順に建物などの外見だけでも。

【ヘトル部屋】
ヘトル部屋
 商館長次席をヘトルと言ったのですが、その住まい。写真だと判りづらいですが、屋根には物見台があり、入港する船を見張ったそう。内部は復元に足る資料がなかったため、ミュージアムショップになっています。

【一番船船頭部屋】
一番船船頭部屋
 1階は倉庫、2階はオランダ船船長や商館員が暮らした部屋を再現。

【一番倉(左)と二番倉(右)】
一番倉(左)と二番倉(右)
 貿易品を収納した倉。

【カピタン部屋】
カピタン部屋
 商館長=カピタンの住まい。迎賓館的な役割もしたとのこと。ちなみにカピタンというのはポルトガル語での呼び名なのですが、館の主がオランダ人となってもその名は変わりませんでした。

【三番倉】
三番倉
 こちらも、貿易品を収納した倉。ちなみに、当時の輸入品としては砂糖が主力になっていたようで、台湾や後にインドネシアから輸入されました。

【拝礼筆者蘭人部屋】
拝礼筆者蘭人部屋
 2階はオランダ商家筆頭事務官の住居。1階は何に使っていたか謎なのですが、水槽状の施設や排水溝と思われる遺構があり、土中から水銀が検出されたそうで、それにより工房や医療関係など特殊な仕事をしていたと考えられているそうで。

【用水池跡と時鐘、十六番倉】
用水池跡と時鐘、十六番倉
 十六番倉にはインドネシアから来た丁子(クローブ)が収められていたそう。

【乙名詰所】
乙名詰所
 乙名(おとな)とは、出島の管理を行う地役人のことで、表門に正対するこの詰所では、出入りする人物の監視が行われていたそう。

【十四番倉(左)と組頭部屋・銅倉】
十四番倉(左)と組頭部屋・銅倉
 十四番倉は砂糖が収められていたそう。また、組頭とは乙名を補佐する人達。1階は当時日本の主要輸出品である銅を収めていたそう。

【表門】
表門
 本来は、現在の中島川の中程にあった表門。この写真は裏側からです。

【ケンペル・シュンペリー記念碑】
ケンペル・シュンペリー記念碑
 表門の近くにあったのが、商館医として来日したシーボルトが、同じく商館医として来日し日本の研究を行ったケンペルとシュンペリーの功績をたたえて建立した記念碑が。

【新石倉】
新石倉
【旧石倉】
旧石倉
 これまでは前述の記念碑を除き、鎖国時代の19世紀初等の建物を復元したものなのですが、これらは幕末(1960年代)の建物を復元してもの。ちなみに旧石倉は日本で最初にプロシア商館が入り、あの坂本龍馬の海援隊と取引したそうです。

【長崎内外倶楽部】
長崎内外倶楽部
【出島神学校】
出島神学校
 これらは明治期の建物。長崎内外倶楽部は長崎の外国人と日本人の社交場として建てられ、出島神学校は現存する日本最古のプロテスタント神学校とのこと。

感想とか

 というわけで出島だったのですが、これだけ江戸後期の、しかもここならではの復元建物が立ち並ぶ街並みは他にないと思うので、それを堪能する時間が無かったことがとても残念だったというか。(時間の関係で料理部屋や乙名部屋部屋は見られませんでしたし。)ただ、復元は今後も続けられ、とりあえずは中島川にかかる橋も平成29年度中には掛かる予定なので、またいつかお伺いして、その時は思い切り異国情緒に浸りたいと思います。

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