たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

探訪!日本100名城』 69/100城目 新発田城 【平成28年5月15日】

新發田城の石碑

 一泊二日の新潟旅行の二日目。新潟市内での朝ラーの後に向かったのが、旅の最後の目的地である日本100名城のうちの1つ、新発田城です。


新発田城について

 新発田城は、新潟県新発田市にある平城で、別名は浮舟城、舟形城、菖蒲(あやめ)城などと呼ばれているのですが、どれも川や菖蒲が咲く湿地帯に囲まれた城の立地に由来する名称かと。面白いのは狐の尾引城(狐尾曳ノ城)で、これは築城を命ぜられた長井清左衛門(一説に葛西外記ともいう)が縄張りに苦心している時、日頃信仰している稲荷の使いの狐が枕辺に立ち、白雪の上に尾で図を示して教えたという伝説があるためだそうです。

 その築城が何時のことかはわかっていないそうなのですが、もともと越後北部の国人豪族である揚北衆(揚北=あがきた、阿賀北とも。阿賀野川北部のこと。)のひとつで、遡れば鎌倉幕府創設に勲功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられているそうで。

 それで代々新発田氏の居城となっていたのですが、時代は下って戦国時代。新発田氏は当時、越後国を統一した上杉謙信に仕えるようになっていたのですが、その後継者争いの内乱である「御館の乱」の際、結果的に後継者となった上杉景勝に味方し、武功や和平工作に活躍したものの、これまた内部の勢力争いの結果、戦後の論功行賞で恩賞が与えられませんでした。これに端を発したのかはわかりませんが、天正9年(1581年)、時の当主である新発田重家は、織田信長と結び、景勝に対して反乱を起こすも、天正10年(1582年)におきた本能寺の変で信長は死亡。景勝はその後継となった豊臣秀吉に下ったため、逆に秀吉から越後平定の大義名分を与えられることとなり、天正15年(1587年)、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡しました。

 その後、上杉氏は合図に転封となり、慶長3年(1598年)、替わって溝口秀勝が、6万石の所領を得て入封。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで秀勝は東軍に与し、越後において上杉景勝が煽動する一揆の鎮圧に努たそうで。そのおかげか戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主とりました。で、現在残る新発田城は、この溝口秀勝が築城したものがベース。入封後、新発田氏代々の城があった場所に築城を開始後、約50年の歳月を経て、三代目藩主の宣直の時代にようやく完成。以後幕末まで新発田藩の藩庁、そして溝口氏の居城であり続けたのですが、その後の大火や時間の経過による老朽化その他により、数度の修復や再建が行なわれています。

 そして明治に入り、明治6年(1873年)の廃城令ののち明治政府に接収された新発田城は、大日本帝国陸軍の駐屯地となったのですが、その流れで現在も陸上自衛隊の新発田駐屯地が置かれています。またこの際、表門、二の丸隅櫓、石垣のみを残し、城内の建物は破却されてしまったのですが、明治初頭に撮影された古写真などを資料として平成16年(2004年)に三階櫓と辰巳櫓が木造で復元。三階櫓は新発田駐屯地内にあるので一般公開はされていないのですが、辰巳櫓は内部を見ることが出来ます。

実際に行ってみた

 実はこの新発田城。平成24年に日本100名城巡りを始めて以降、或るタイミングでの訪問を狙っていました。で、それが、駐屯地の一般開放が行われる陸上自衛隊新発田駐屯地記念行事の日。これは、駐屯地内にある三階櫓を間近に見たいからでして。で、新発田城自体は自宅から250km程と自宅からはさほど離れていないというか、わりと行きやすい距離にあるのですが、色々あって実現が今年となってしまいました。

【国道7号新新バイパスを行く】
国道7号新新バイパスを行く
 朝ラーをした新潟市内から国道7号新新バイパスで一気に新発田市まで。で、とりあえず城址公園にもなっている新発田城を目指し、午前8時頃に到着したのですが、前述のとおり今日は陸上自衛隊新発田駐屯地記念行事の日。公園周辺の駐車場に停められるか、正直出たとこ勝負だったものの、新発田城址公園に程近いアイネス新発田という、新発田市の防災拠点ともなっているところの駐車場に停めることが出来ました。

【二の丸隅櫓と水堀】
二の丸隅櫓と水堀
 それでとりあえずは、新発田駐屯地の入口へと向かったのですが、それでいきなり現れたのが、新発田城に残る現存建築物の一つである二の丸隅櫓。腰回りのなまこ壁が特徴的。で、元々は本丸鉄砲櫓が有ったところに移築されているそうで。あと、石垣は(現在残っている城の)築城が新しいだけあって、綺麗な切り込みハギになっていますね。

【三階櫓】
三階櫓
【おじさんオススメのアングルで撮った三階櫓】
おじさんオススメのアングルで撮った三階櫓
 で、水堀や復元された三階櫓(こちらも腰回りはなまこ壁なんですね。)の写真を撮りつつ水堀に沿って歩いていたところ、城址公園のあずまやにいたおじさんから、「ここから写真撮ると良いよ」という声が。で、そのおじさんに教えて貰った所から写真を撮ると、確かに、新発田城三階櫓の特徴である、丁字形の屋根と三基の鯱を良い感じに写すことが出来ました。

【新発田駐屯地入口】
新発田駐屯地入口
【高機動車と三階櫓】
高機動車と三階櫓
【白壁兵舎】
白壁兵舎
 そうこうしているうち、駐屯地の開場時刻となり、行列に続いてぞろぞろと入場。(ちなみに、駐屯地入口の写真は退場時に撮影したものです。)で駐屯地内を一通り見て回りつつ、三階櫓や、新発田城が取り壊された時、その資材を流用して作られたという白壁兵舎を堪能しましたが、やはり、自衛隊車両とお城の組み合わせは、某wikiにも書いてあるよう、戦国自衛隊を連想させますね。

【二の丸隅櫓と水堀ふたたび】
二の丸隅櫓と水堀ふたたび
【土橋門跡】
土橋門跡
【案内板】
案内板
【堀部安兵衛武庸像】
堀部安兵衛武庸像
 駐屯地を辞して、再び二の丸隅櫓を眺めつつ、今度は本丸表門方向へ。その途中の土橋門跡あたりは、案内板の古地図を見ると、馬出っぽくなっていたんですね。また、案内板によると、二の丸隅櫓は、昭和32年(1957年)の国重文指定後の昭和34~35年(1959~60年)の解体修理の際、現在の場所に移築されたんですね。あと、表門付近には、赤穂浪士四十七士最強の剣客と呼ばれた堀部安兵衛の像があったのですが、堀部さんって、当地の出身だったんですね。

【辰巳櫓と本丸表門と水堀】
辰巳櫓と本丸表門と水堀
 で、本丸表門は通り過ぎて、復元された辰巳櫓の方へ。ここから本丸表門、そして二の丸隅櫓まで入れたアングルは、何とも良いですね。

【本丸表門】
本丸表門
 もったい付けましたが、新発田城に残る現存建築物の一つである本丸表門。先程の案内板の記述によると、享保17年(1732年)に再建された2階建ての櫓門で、こちらも昭和34~35年(1959~60年)に解体修理されているそう。こちらも二の丸隅櫓などと同じく、腰回りのなまこ壁が印象的ですね。

【新発田藩初代藩主溝口伯耆守秀勝侯像】
新発田藩初代藩主溝口伯耆守秀勝侯像
【本丸】
本丸
【辰巳櫓から見た新発田駐屯地】
辰巳櫓から見た新発田駐屯地
 本丸内部には、新発田藩の初代藩主、溝口秀勝公の像が。で、辰巳櫓や二の丸隅櫓の内部を見学してから、新発田城を後にしました。

感想とかまとめとか

 というわけで新発田城だったのですが、本丸の大部分が自衛隊の駐屯地となっているため、一種独特というか、これまでに見てきた日本100名城の中でもここだけの雰囲気になっているなぁ、と。また、建物を個別に見ても、腰のなまこ壁など独特の特徴が有って、とても興味深かったです。それにしても、こちらにお伺いする前に新発田城復元の会のウェブサイトを見ていたのですが、新発田城復元にかける思い、そして伝統的工法でそれを実現した熱意と、関係者の協力には、ほんとうに頭が下がります。最近増えてきた木造による復元ですが、そのどれもが、こうやって地元の方達の情熱に支えられ。そしてそのお陰で、我々観光客は、在りし日の姿を容易に見ることが出来るんですね。

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