趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
旅の二日目。朝食の後で向かったのが、この日最初の目的地である、金沢城。江戸時代は加賀百万石の藩庁となっていたこちらも、日本100名城の一つとなっております。
金沢城は、石川県金沢市にある梯郭式の平山城で、平成20年(2008年)には国の史跡として指定されています。
元々当地には、尾山御坊(金沢御堂)と呼ばれる寺院が有り、加賀一向一揆での本願寺派の拠点となっていたのですが、天正8年(1580年)、柴田勝家及びその配下であった佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、加賀半国を与えられると共に、金沢城と改称して使用。ですがその後、本能寺の変からの、清洲会議からの賤ヶ岳の戦いで勝家は豊臣秀吉に破れ、城は前田利家に与えられるとともに、その名前も尾山城と改められました。
その後利家、そしてその嫡男である利長が、堀や曲輪の拡張など城の大改修を行うのですが、その際、利家に招かれて当地に滞在していた高山右近によって、当時進んでいた畿内の築城術がもたらされたそうで、五重の天守をはじめとするたいそう立派なお城になったそうで。また、この頃から再び、金沢城という名称が使われたみたいです。
江戸時代になると当地はそのまま前田家が治めることとなり、従って幕末まで前田家が歴代城主を務めることとなるのですが、途中何度か火災に見舞われ、天守を初めとする建物を焼失。その後一部の建物は再建されたものの、天守は最初の焼失(慶長7年(1602年))の際、三階櫓となってしまいました。
やがて明治に入ると、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分となり陸軍駐屯地となったのですが、1881年(明治14年)に発生した火災で、石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して建物は焼失。太平洋戦争後は、新設された金沢大学の敷地として使われましたが、平成7年に大学は移転。その後、城跡を国から取得した県が金沢城址公園として整備を開始し、平成13年(2001年)には菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋が復元完了。その後も既存の建物の修復や堀の復原整備などが行われています。
【北陸道金沢西IC】
そんな金沢城。宿のある小松からだと下道でも十分に行ける距離だったのですが、この日は予定が盛りだくさんだったので、北陸道を使ってササッと移動。
【金沢城付近走行中】
それで、金沢城の近くまで来たのは良かったのですが、駐車場をよく調べていなかったお陰で、城域の道路をぐるぐる回る羽目に。で結局、香林坊の地下駐車時用にクルマを停めたという。
【辰巳用水の石管】
気を取り直して駐車場から金沢城へと向かうのですが、その途中、かつて城内に水を引き込んでいた辰巳用水に使われていた石管がありました。それにしても、駐車場から一番近いお城の入口ってどこなんでしょ。
【金沢城公園玉泉院丸口】
それで15分ほど歩いてようやくという感じで、玉泉院丸口に到着。ここから入ります!
【薪の丸の石垣】
【玉泉院丸庭園】
入口から入ると早速薪の丸という曲輪の石垣に沿った登り坂となるのですが、この通路をいもり坂と言い、明治時代以降に作られたものだそう。ですが、それに面した薪の丸の石垣は古く、また表面の縁取りだけを綺麗に揃えて内側を荒々しく残す金場取り残し積みといわれる積み方をされているそうで。あと、このあたりからは玉泉院丸庭園を見下ろすことが出来るのですが、内部については後ほど。
【二の丸と薪の丸の間の堀と石垣】
【二の丸から見た菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓】
そのまま進むと二の丸へと入るのですが、その手前には、二の丸と薪の丸を仕切る堀と石垣が。あと二の丸はかなりの広さを誇り、入ってきた方と反対側にある菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(実際はかなり大きい建物)が小さく見えるほど。
【三十間長屋】
二の丸から極楽橋を渡って薪の丸に入ると現れるのが、国重文の三十間長屋。国重文に指定されていることからわかるように、金沢城に残る数少ない現存建築物です。また、ここの石垣も、先述の薪の丸の石垣同様、金場取り残し積みといわれる積み方。
【鉄門跡】
【本丸の土塁?】
薪の丸と本丸を仕切るのが鉄門で、現在は石垣だけ残っています。それにしても、鉄門というのは、わりとどのお城にもあるのですが、それを見る度脳内で「♪そ~らに そ~びえる く~ろがねの…」と再生されるのはいかがなものかと。あと、土塁っぽいものもありました。
【戌亥櫓跡】
【本丸】
【東の丸】
本丸と東の丸は、戌亥櫓跡や通路など一部を除いて鬱蒼とした森林状態。
【鶴丸倉庫】
森を抜けると現れるのが、国重文パート2の鶴丸倉庫。こちらも現存建築物です。
【戌亥櫓石垣】
【刻印された数々の石】
鶴丸倉庫の反対側が、戌亥櫓跡から続く戌亥櫓石垣。で、ここは打ち込みハギという技法で積まれているのですが、その石の数々には刻印が施されまくりという感じで。
【鶴の丸広場方向から見た菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓】
【鶴の丸休憩所方向から見た菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓】
【内堀方向から見た菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓】
【橋爪門付近から見た菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓】
【菱櫓側から見た菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓】
そして再び現れるのが、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。平成10年から3年の月日をかけて復元された金沢城最大というか明治以降では全国再最大規模を誇る木造建築物。またその石垣も、建物の復元に合わせて一度解体してから積み直されました。それにしても、ほんと、巨大な建物です。
【東の丸北面石垣(戌亥櫓跡下)】
【東の丸北面石垣(鶴丸倉庫下)】
三の丸の外周部をちょっと戻って、東の丸北面石垣を鑑賞。ここには前田利家公の時代の古い野面積みの石垣が残っています。
【石川門の櫓】
【石川門の石垣その1】
【石川門の門】
【石川門の石垣その2】
【外から見た石川門】
三の丸からの出入口になっているのが、国重文パート3の石川門。こちらも現存建築物なのですが、注目すべきは石垣。門の左右で打ち込みハギと切り込みハギという違う積み方をされているのが大変珍しいです。
【お堀通り】
【兼六園入り口】
国重文の石川門を出て、元々はお堀だったというそのまんまな名前のお堀通りを石川橋で渡れば、兼六園の入り口。もっとも今回は、時間の都合、そして私も相方も過去に来たことがあったのでスルーしてしまいました。
【前田利家公の像】
【白鳥路】
金沢城と言えば真っ先に思い浮かぶ前田利家公ですが、その像は、お堀通りから金沢地裁・家裁の後ろを通る白鳥路(こちらも元々お堀だったそう)の分岐点あたりに、わりとこぢんまりとしたサイズのが建っていました。て、この像のすぐ横には松の木が植えられていて「利家のまつ」状態になっていたのが興味深かったというか。あと、白鳥路には、見る者の想像力をかき立てるブロンズ像が多数立ち並んでいて、これも面白かったです。
【大手門(尾坂門)】
【大手掘】
【大手門(尾坂門)の石垣】
【石垣の巨石】
白鳥路を抜けると、金沢城の大手門(尾坂門)へ。ここの堀(大手掘)に面した石垣も野面積みの古いものなのですが、門に使われている巨石を配した石垣は、寛永11年(1799年)の地震で崩れ翌年修復されたものだそう。
【新丸広場】
大手門(尾坂門)を抜けると、新丸広場という広大な空間が広がります。それにしても、往時はここにどのような建物が建ち並んでいたんでしょうかね。
【河北門一の門】
【河北門二の門(裏側から)】
新丸から三の丸へと入る河北門は、金沢城の正門にあたるという由緒正しき門で、平成22年に木造で復元されました。
【二の丸北面石垣】
【二の丸北面の堀と石垣】
河北門から入った跡は、二の丸北面の石垣を眺めつつ移動。それにしても、見事な切り込みハギですね。
【切手門】
二の丸北面の堀が途切れたところにあるのが、切手門と呼ばれる門。その奥は、帝国陸軍第六旅団司令部の建物が残されています。
【数寄屋屋敷石垣】
【刻印された石の数々】
第六旅団司令部脇にあるのが、かつての藩主側室の屋敷(数寄屋屋敷)の石垣で、きちっと長方形に揃えられた切り込みハギが見事なのですが、ここの石にも刻印がされまくりでした。
【玉泉院丸の庭園再び】
【色紙短冊積み石垣】
そしてようやく、最初にかすめた玉泉院丸に。で、庭園であるここに面した石垣は凝った意匠のものが多く、特に色紙短冊積み石垣は、正方形(色紙)と縦長の長方形(短冊)の石が巧みに組み合わされて配され、更にその上部にあるV字形の石樋から水が落ちるという演出がなされていたそうで。で、この後、またちょっと歩いて駐車場へ。わりと急ぎ足で見たにもかかわらず、朝、駐車場を出てから戻るまで約3時間かかりました。
というわけで金沢城だったのですが、さすがは加賀百万石の藩庁だけあって、ものすごく規模が大きく(個人的には、大阪城や名古屋城なみに広い感覚が。)、バラエティー豊かな石垣など往時の遺構や、木造部復元された櫓や門など見所も豊富。復元今回は端折ってしまった兼六園を含めると、ここだけで1日あっても良い位ですね。また今後も、「本物志向で史実性の高い整備」(石川県のウェブサイトより)が計画されていようなので、本当に楽しみです。あとは、北陸新幹線開業で高騰してしまった宿のお値段がさがれば、もっと来やすくなるんですがねぇ。
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