たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 18/100城目 明石城 【平成25年4月28日】

(明石城の碑がなかったので)県立明石公園の石碑

 ゴールデンウイークを利用しての日本100名城巡り@関西方面なのですが、その3番目にして最後が、こちらの明石城です。


明石城について

 明石城は、兵庫県明石市にある連郭梯郭混合式平山城で国の史跡。別名は、喜春(きはる、きしゅん~後述)城、錦江(きんこう~明石海峡の古い雅号)城とも。

 明石城の歴史は比較的新しく、築城は江戸時代に入り、更に大坂夏の陣から3年後の元和4年(1618年)。その前年に信濃国松本藩より明石藩主となった小笠原忠真は、明石川河口西岸にあった船上城に入城したのですが、その翌年、二代将軍徳川秀忠によって、この地に城を築くことを命ぜられました。元々明石は山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、更に海を渡って淡路島、四国へのルートがある古来よりの交通の要衝であったのですが、西国というか畿内以西に多く残った豊臣家恩顧の有力大名に睨みをきかせるべく、秀忠は銀一千貫目ほか普請奉行も派遣し、また姫路城主であり忠真の義父である本多忠政にも協力を要請して明石城を作らせ、姫路城と共に西の抑えにしたかったようです。そんなわけで元和5年(1619年)正月に、石垣普請を開始。建物の建築には一国一城令で廃城となった近隣の伏見城や三木城、船上城などの木材を使用したとされ、中でも創建当時の坤櫓は伏見城の移築と言われているそうです。で、元和6年(1619年)4月に完成したのですが、完成当時の本丸には四隅に櫓と三階建ての御殿が築かれたものの、天守は天守台となる石垣だけ築かれ建物は建てられなかったそうです。また同時に城下の町割も行われたのですが、当時客分で姫路城主忠政の息子本多忠刻とも親交のあった宮本武蔵がそれを行ったという話もあるそうで。しかし、寛永8年(1631年)、三ノ丸下屋敷台所より出火。火の手は本丸まで及び、御殿を焼失し、さらには巽櫓まで火の手がまわった事が後の発掘調査で判明しました。で、この時、本丸御殿は建て直されなかった(藩主は三ノ丸に建てた御殿に住まった)のですが、本丸四隅の櫓は立て直され、その間を塀で繋いだ形になったそうです。

 と、そんな諸々ありつつ初代藩主として築城以前より治めていた小笠原忠真ですが、大火の翌年である寛永9年(1632年)11月に豊前国小倉藩に転封。その後半年ほど幕府直轄地(その間、播磨姫路新田藩の本多忠義と本多政勝が交代で務めた。)を経て、寛永10年(1633年)松平(戸田)庸直が信濃国松本藩より2代藩主として入封したのですが、ここから天和2年(1682年)に越前国大野藩より松平直明が8代藩主として入封するまでの約50年の間は藩主がコロコロ変わったというか。で、この間、名君と謳われた5代藩主松平信之が儒学者の片山兼山に命じて明石城内十景というのを選んだのですが、その時に中国の故事にちなみ、明石城の別名というか雅号の「喜春城」が生まれたそうです。で、話は戻って、前述の松平直明以降は松平(越前)家が廃藩置県まで続いたのですが、次代である直常が城主だった元文4年(1739年)には城の大修築が行われました。なんでも、各城の遺材を集めて築城したせいか老朽化が早かったそうで。そして15代藩主(松平の8代)は11代将軍家斉の二十五男である斉宜を迎えたのですが、将軍の子息を迎えたことで元々厳しかった財政がさらに厳しくなったそう。またそのため幕末には御家門の立場上佐幕派となり鳥羽・伏見の戦いでも幕府方として参戦することに。(その後明治政府方に帰順。)そして最後の明石城主である17代藩主は松平10代当主である直致で、明治2年(1869年)の版籍奉還、明治4年(1871年)の廃藩置県を経て、明治7年(1874年) 廃城令により明石城は廃城となり、城跡は官営地として管理されることになりました。

 で、廃城以降ですが、明治14年(1881年)に小学校の建築用材とするため、本丸北東の艮櫓が解体されたのですが、それに驚いた元藩士達が城跡の現状保存を求める儀願書を提出。城址を公園として保存活用するよう公園設置願いを県に出したところこれが認められ、明治16年(1883年)、明石公園となりました。その後明治31年(1898年)皇室の御料地となり明石公園は廃園となりますが、明治34年(1901年)に宮内庁が巽櫓と坤櫓の修理と北西の乾櫓の解体(修理の際、解体した乾櫓の木材の一部が使用されたとのこと。)、また傷んでいた本丸や二の丸本丸土塀も取り壊しを実施。やがて大正に入り、御料地の土地利用計画がなくなったということで、大正7年(1918年)に兵庫県が御料地を借り受け、県立明石公園として再び開園。その後借り受け地の拡張や、昭和に入って御料地全域の払い下げを受けるなどして、昭和7年(1932年)にほぼ現在の明石公園の姿になった後、第二次世界大戦後の昭和32年(1957年)、巽櫓と坤櫓が国の重要文化財に指定されました。

 そして現代。平成7年に発生した阪神・淡路大震災により石垣などに大きな被害を受けたのですが、2棟の櫓に(地震の規模のわりには)比較的被害が少なかったのは、明治時代に宮内庁が実施した修理の際に追加され筋違(すじかい)が効果的だったとのこと。あとこの時、2つの櫓を繋ぐ塀も復元されました。その後平成16年に、城跡が国の史跡に指定されました。

実際に行ってみた

【第二神明道路走行中】
第二神明道路走行中 
 この日は、大阪の宿を出発後、神戸市内で美術館に寄ったりラーメンいただいたりした後、そこから第二神明道路に乗り、大蔵谷ICで一般道へ。そこからわりと混んでいる道をちょっと走って明石城へ。ちょうど午後1時頃に到着しました。 

【正面入口】
正面入口
【正面入口付近の堀】
正面入口付近の堀
 クルマを止めたのは野球場(明石トーカロ球場)近くの駐車場だったのですが、そこから一度正面入り口まで。それにしても、ゴールデンウイークということもあるのか、園内は(この写真だとわかりませんが)かなり人が多かったです。

【サービスセンター(公園管理事務所)】
サービスセンター(公園管理事務所)
 正面入口入って右手にあるのがこちらのサービスセンター(公園管理事務所)。日本100名城めぐりスタンプラリーのスタンプはこの中に置いてあります。

【坤櫓(左手)と巽櫓(右手)】
坤櫓(左手)と巽櫓(右手)
 正面入口から入ると、明石城のシンボルである坤(ひつじさる)櫓と巽(たつみ)櫓が。

【東入口】
東入口
 こちらは東入口。それにしても、この明石城は、門の名前が不明というか。

【東側の堀内側の土塁】
東側の堀内側の土塁
 東入口からは、堀内側の土塁に沿って北上。それにしても、この土塁も往時の物なんですかね。

【東丸入口へと通じる坂道】
東丸入口へと通じる坂道
 このあたりは人も少なく、良い雰囲気というか。

【箱堀】
箱堀
 案内図の東丸入口付近には箱堀と書いてあったんですが、現状は水が見えず、草木が鬱蒼と生い茂ってました。

【薬研堀】
薬研堀
【薬研堀にいた亀】
薬研堀にいた亀
【薬研堀あたりにいた猫】
薬研堀あたりにいた猫
 箱堀の反対側は薬研堀が。空堀が多い薬研堀なんですがここは水堀に。で、お城の堀といえば亀がつきものだと思っているのですが、ここにたくさんいました。あと、これも城跡につきものの猫も、こちらで発見。

【桜堀】
桜堀
 東丸入口から東丸へ入らず、東丸北側に沿って小径を降りると右手に桜堀が。ここでトランペットを練習されている方がいました。ちなみに明石城は日本さくら名所100選に選ばれているのですが、桜の名前が付いたここというより、この奥にある剛ノ池周辺の桜が有名だそうで。

【本丸と二の丸の間あたり】
本丸と二の丸の間あたり
 前の桜堀の写真撮ったところからお城方向へ向いたあたり。写真右手が本丸で左手が二の丸。で、奥方向の階段から上へと登れます。

【二の丸から東丸方向】
二の丸から東丸方向
 二の丸、東丸の上には、往時を偲ぶ物はさほど残っていなかったというか、写真の虎口くらいだったような気が。もっとも、その分いろいろと想像できるんですがね。

【本丸入口】
本丸入口
 いよいよ本丸へ。 

【巽櫓】
巽櫓
【巽櫓から明石駅方向を望む】
巽櫓から明石駅方向を望む
 本丸に入ってまず見たのが、一般公開中だった巽櫓。桁行き5間、梁間4間、高さ7間1寸の入母屋造りとなっています。ちなみに公開は1層(階)部分のみで、また公開する櫓は月替わりとなっています。

【天守台】
天守台
 実際には天守が建てられなかった天守台もしっかり残っていて、台の上に立ち入りもできました。

【天守台から見た坤櫓】
天守台から見た坤櫓
【稲荷曲輪から見た坤櫓】
稲荷曲輪から見た坤櫓
 こちらは天守代わりに使われたという坤櫓。こちらも入母屋造りですが、桁行き6間、梁間5間、高さ7間2尺9寸と、巽櫓よりも一回り大きくなっています。

【日時計と二つの櫓】
日時計と二つの櫓
 最後にもう一度2つの櫓を。よく見ると、巽櫓と坤櫓では妻部の向きが違うんですね。(巽櫓が東西、坤櫓が南北)

感想とかまとめとか

 というわけで明石城だったのですが、昨日お伺いした和歌山城以上に、公園として市民に親しまれているというか。ですが、本丸周辺は逆に人気も少なく、ある程度はお城の雰囲気に浸ることも出来ました。でも、なんていうか、個人的には明石城って(悪く言えば)お城としては若干ボヤっとした印象だったんですよね。もっとも、それも良いのかもしれません。ストイックに「ここは現存の○○櫓、ここは移築された××門、そしてこの石垣は…」なんて気合いを入れて観るのも良いですけど、天気の良いなか、城跡をのんびり散策しながら何となく遺構を眺めて、なんてのも、これはこれで楽しいものだと思いますので。

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