趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
和歌山城は、和歌山県和歌山市にある梯郭式の平山城。別名は城が築かれた山の名前から虎伏城、三の丸の土塁上に 植えられた竹林を遠くから眺めると天守が竹で囲まれているように見えたことに由来する竹垣城というのがあるそうで。(また、その2つを組み合わせた?虎伏竹垣城という記述も和歌山市観光協会の公式ウェブサイトにありました。)
現在の和歌山城の元となったのが、安土桃山時代の天正13年(1585年)に、豊臣秀吉が弟である秀長に命じて、当時「若山」と呼ばれた当地の虎伏山(猛虎が伏せた形をしていたのでその名が付いたとのこと。)に築いた城。その際、普請奉行は築城の名手として名高い藤堂高虎が務め1年で完成。加えて地名の表記も、築城後に現在の「和歌山」に改めました。その後、桑山重晴に3万石を与え城代とし、重晴は本丸を中心に手直しを行ったそうで。そして慶長元年(1596年)には重晴の隠居に伴い孫の一晴が家督を継ぎ、関ヶ原では東軍に属して戦後正式に当地に2万石を与えられたのですが、間もなく大和新庄藩に転封となり、その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城。慶長10年(1605年)頃には下見板張りの天守が建てられたとのこと。また、早世した幸長に代わって藩主となった弟の長晟が土塁から石垣に改修したとのこと。
そして元和5年(1619年)、長晟は広島藩に加増転封となり、代わって徳川家康の十男である頼宣が55万5千石で入城。後に(徳川)御三家と呼ばれる紀州徳川家が成立しました。また頼宣は、兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に城の改修と城下町の拡張を行いました。(この際、あまりにも規模が大きかったので謀反の疑いをかけられたそう。)その後、明暦年間、文化年間に火災に見舞われ、更には弘化3年(1846年)7月26日に天守曲輪に落雷し、御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたのですが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建されたそうで。
しかし、明治4年(1871年)の廃城令により多くの建造物が解体もしくは移築されたのですが、昭和6年に国の史跡に指定され、昭和10年には、廃城令による解体や移築を免れた天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。ですが、第二次世界大戦末期の昭和20年7月9日に起きた和歌山大空襲により、国宝指定建造物11棟すべてが焼失してしまいました。(嗚呼、なんてことを…。)そして戦後の昭和32年に、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定。翌昭和33年には、天守群が東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート造による外観復元にて再建されたのですが、この時、多額の寄付をした和歌山県出身の松下幸之助が「天守閣に『ナショナル』の看板を掲げさせて欲しい」と言ったというエピソードが有るそうな。(それは実現しなかったのですが、松下幸之助は後にも城内の庭園に茶室を寄贈したそうで。)そして昭和58年には明治42年に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元。平成18年には、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下が復元されたそうです。
これまであげた記事のとおり、朝から昼過ぎまで千早城などのある大阪府千早赤阪村で過ごし、さらには阪和道の和歌山北ICを出てから市街地に入る手前で和歌山ラーメンをいただいたりしたおかげ(でも旨かった!)で、お城の有る市街地に入ったのが午後3時をとうに回った頃。
【和歌山市内走行中】
和歌山市の中心部に入ると、道路の感じが城下町のそれっぽくなってきました。
【不明門駐車場】
今回クルマを止めたのが、こちらの不明門駐車場。ちなみに午後3時半近くという時間帯にもかかわらず、空き待ちのクルマが何台かいました。
【不明門駐車場付近の石垣】
和歌山城の魅力の一つに、1つのお城の中に各時代というか、様々な石垣の積み方を見ることができるというのがあるのですが、クルマを降りてすぐにそれが目の前に。
【動物園】
写真だとわかりづらいのですが、城内の一部は動物園となっています。(遠目からでもクマなどがいるのが見えました。)ちなみに入場は無料で、昭和45年に開園されたとのこと。時間がなくて見ることができなかったのが結構残念だったりして。(いつかもう一度来てみたいなぁ。)
【城内にいた野良猫】
城跡に猫ってわりとつきものというか、どこに行っても住み着いていると思うのですが、和歌山城にもいらっしゃいました。
【岡口門】
【裏手から見た岡口門】
国の重要文化財に指定されているのがこの岡口門。浅野時代の初期には大手門だったのが、その後搦手門となったそうで。で、現在残っているのは元和7年(1621年)に紀州徳川家初代藩主である頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門なのですが、再建当時は現在の切妻屋根の門櫓の両側に続櫓があったのが、残された櫓台からもわかります。
【表坂】
西口門から本丸へ向かう途中にあるのがこの表坂。(写真は坂の途中で見下ろしたところです。)
【本丸御殿跡】
【本丸御殿跡から天守を望む】
表坂から続く緩やかな坂を登り切ったところにあるのが本丸御殿跡。現在は城内に水を供給するための水道施設になっていました。ちなみに、こちらにお住まいになったのは紀州徳川家初代藩主の頼宣と最後の藩主で有る14代茂承のみで、あとは二の丸御殿にお住まいになったとのこと。
【天守曲輪入り口付近から】
【入り口付近の休憩所】
【入り口になっている楠門】
天守曲輪内に入るには入場料が400円かかります。また、入り口付近の休憩所が激シブだったというか、個人的に、こういう昭和な木造建築ってツボなんですよね。で、入場券を買った後、楠門から入場。ちなみに楠門は、復元された天守曲輪の建築物のうち唯一木造で復元されたそうです。
【天守】
【天守最上階から紀ノ川方向を望む】
天守の復元に携わったのは、前述のとおり東京工業大学名誉教授の藤岡通夫氏なのですが、氏が関わった復元天守にはかの中津城といった結構な物件もある中、この和歌山城はかなり以前の物に忠実に作られたそうで、復元の際に窓を増やしたりすることが多い中それをやらず、大きさにもこだわって復元されたそう。で、天守の中はお約束の資料館。そこに展示されている資料も興味深かったのですが、個人的には、昔の鉄筋コンクリート建物ということで、その造作とかに興味を惹かれたりして。また、天守最上階に登れば、こちらもお約束の絶景。あと、珍しい連立式天守の二の門櫓から楠門(二の門)、そして乾櫓といった建物群の繋がり方もよくわかります。
【二の丸跡】
ここにはかつて、江戸城の本丸御殿を模した二の丸御殿があり、(紀州徳川家)初代頼宣と14代茂承以外の藩主が暮らしたとのこと。ちなみに、江戸城本丸御殿をも模したということで大奥もあったそうです。(大奥があったのは江戸城の他名古屋城とここだけなんですって。)
【御橋廊下】
御殿のあった二の丸と、庭園のあった西の丸とを結ぶのが、この御橋廊下で、身分の高い人たちだけが利用できたとのこと。斜めにかかる廊下橋は全国的にも珍しく、江戸時代の図面を基に平成18年に復元されたそうです。
【西の丸庭園と鳶魚閣】
紀州徳川家初代藩主頼宣が西の丸御殿と共に築造したと言われているのが、西の丸庭園。昭和45年から3年間をかけて復元されたそうで、昭和60年に国の名勝に指定されています。
【追廻門】
砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ門が追廻門。馬を追い回したことからそう呼ばれたそうで、現在は市の指定文化財となっています。
というわけで和歌山城だったのですが、第一印象は、観光スポットというよりも、市街地にある市民の憩いの場という感じでした。ですが見て回るうち、さすがは徳川御三家の居城だったところというか、見所がとても多く、駆け足で見て回っても正直時間が足りませんでした。で、そんな中印象に残っているのは写真にあげたところなのですが、今回時間の関係で省いてしまった動物園や和歌山城歴史展示室、そして大手門などを含め、是非とももう一度見に来たいと思いますね。
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