趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
2月以来しばらくご無沙汰になってしまっていた日本100名城巡りなのですが、今年のゴールデンウイークを利用して、関西方面にある3城を巡ってくることができました。で、そのうち最初に訪れたのが、楠木正成が鎌倉幕府と戦いを繰り広げた山城、千早城です。
千早城は、大阪府唯一の村である南河内郡千早赤阪村にある連郭式山城で、国指定史跡。
築城は、後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動である元弘の乱の真っ最中である元弘2年/正慶元年(1332年)。築城主である楠木正成は、元々この一帯に下赤坂城と上赤坂城を構えて幕府軍と戦っていました(赤坂城の戦い)が、そこに詰め城として築城されたとのこと。そしてその翌年、再び幕府軍が大軍で攻めてきたのですが、下赤坂城、上赤坂城と幕府軍に落とされたものの、楠木正成以下楠木軍は千早城に籠城し抵抗。攻め手の100万人に対しわずか1000人の軍勢(ちなみに数は『太平記』のもの。)で、有名な藁人形に甲冑を着せた陽動作戦のほか、岩石落としや丸太落とし、敵兵に油をかけて火をつけたり、さらには糞尿による攻撃などによって、見事幕府軍を撃退することに成功。その12日後に、(手薄になっていた関東を新田義貞が攻め落とした結果)鎌倉幕府は滅亡しました。
そして同年、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、千早城は南朝方の重臣となった楠木正成の居城となりましたが、延元元年/建武3年(1336年)に湊川の戦いで足利尊氏に敗れ自刃。その後正成の嫡男である正行、その弟の正儀、そして正儀の嫡男である正勝の居城となりましたが、南北朝時代末年となる明徳3年(1392年)正月、北朝方の畠山基国に攻められ、難攻不落を誇った千早城も落城してしまいました。
午前8時のちょい前に、大阪市内(十三)の宿を出発。阪神高速、南阪奈道を通って羽曳野ICから一般道へ。国道170号、大阪府道・奈良県道705号富田林五條線などを通って千早赤阪村へ。
【千早赤阪村内の府道705号を行く】
そのまま道なりに進むとだんだん山奥に分け入っていくような感じに。このときは正直、このような山中にかつての軍事的重要拠点があったとは思えなかったのですが、後で調べたところ、千早城は大和国の五条と河内国の南河内地方を結ぶ最短コースとして昔より軍事・交通の要衝となっていた千早街道(途中まで現在の府道705号と同一ルート)を見下ろす金剛山の支脈上にあるそうで、街道を抑える為にも当地に拠点を築くことは重要なことだったんですね。
【金剛山麓まつまさ】
【金剛山麓まつまさ駐車場】
そうこうしているうちに、日本100名城スタンプラリーのスタンプが置いてある、『金剛山麓まつまさ』というお店に到着。ここまで宿から50kmちょっと、約1時間20分ほどかかりました。それにしても、朝9時過ぎだというのに、駐車場はほぼ満車。そして、駐車場では、なにやら本気な格好に着替えている人達も。で、ここでスタンプを押させて貰い、ついでに簡単な地図というか案内が書いてあるペーパーを貰い、さらには朝食のうどんをいただいから、いざ千早城へ。
【金剛山登山口】
先ほど書いたように、周りは本気な山登りの格好をした人ばかり。そんな中、ジーパンにトレーナー着てショルダーバッグ背負った明らかに浮いた格好(それでも、靴だけはトレッキングシューズに履き替えましたが。)というのはアレだったのですが、とりあえず千早城目指しアタック開始。
【千早城(千早神社裏参道)入り口】
【千早城跡案内図】
しばらく進むと、このような分かれ道が。千早城というか千早神社行くならここを行った方が早いと思われたのですが、その前に楠木正儀公のお墓に寄りたかったので直進。
【楠公城跡の石碑と分かれ道】
更にしばらく進むと?楠公城跡の石碑とまた分かれ道が。左手は「山頂」、右手は「千早城跡」と書いてあります。で、実はここに来るまで、先ほどの看板に出ていなかったつづら折りの階段とか出てきてちょっと混乱気味だったのですが、ここで何故か千早城跡の方を選択。
【いきなり狭くなる道】
【行く手を遮る倒木】
するといきなり道は狭く険しくなり、倒木が目の前に。さすがに同行者と「間違ったかも」などと話しながらそれでも進んだのですが、しばらくすると東屋のような建物がある平らなところへ。
【茶宴台広場?】
ここで道を間違えたことを確信。先ほどの案内看板の「茶宴台広場」というところのようで、ここも千早城の曲輪のうちのひとつだったんですかね?で、とりあえず来た道を引き返し、分かれ道まで戻って先程と反対方向へ。
【楠木正儀公のお墓】
そのままちょっと進んで振り返ったところ(前ばかり見てると気が付きませんでした)に、ようやく楠木正儀公のお墓のお墓を発見。右手の立て看板には1680年建立と楠木正成公の首塚説ありという文字が。
【千早神社裏参道】
ここで引き返し、再び茶宴台広場を通っても良かったのですが、せっかくなので?しばらく歩いて最初の分かれ道まで。ここから改めて千早城を目指してアタック。
【千早神社に到着】
しばらく登ると、千早神社に到着というか、参道と交差。丁度このあたりに堀切があったようです。
【千早神社社務所付近】
【千早神社本殿】
千早城の主廓だったところは、現在は千早神社になっています。その千早神社ですが、もともとは千早城築城の際、八幡大菩薩を祀って鎮守としたものが、後に楠木正成、楠木正行を合祀。明治時代に社殿を再建、祠を建て、現在の千早神社となったそうで。で、本殿の後ろにも櫓台跡とかの遺構があったようなのですが、神様の裏手に回るのは罰当たりな気もして、本殿に手を合わせるだけで退散。帰りは、千早神社の表参道を通って行くことに。
【茶店のあるあたり】
【そこからの眺め】
先程の裏参道との交差地点からちょっと行ったところに、茶店(この時は閉まっていました)などがあるかなり広い曲輪跡が。で、そこからの眺めが大変素晴らしかったというか。(写真だとウデが悪くて伝わらないのが残念!)ここに城を築いた理由の一つが解ったような気がしました。
【表参道を下る】
【表参道入り口】
あとは、微妙な高さの石段をひたすら降りて下山。ちなみにその石段、600段もあるそうで、ちょっとした山登りで疲れた身体に結構堪えました。ですがやがてというかとうとう入り口のところまで到着。ちなみに、登り始めてからここまで、(途中で道を間違えたりしつつも)約1時間半ほどの道程となりました。で、あとは道路を歩いてクルマを停めたところまで。
行く前は、鎌倉末期から南北朝時代の城ということもあり、あまり明確な遺構は残っておらず、千早神社を中心としたところに曲輪や堀の姿を見ることができるだけかなぁ、などと思っていたのですが、実際に行ってみると、登山口から山に入った途端、(予備知識があったおかげだと思うのですが)ただの山ではない雰囲気というか。で、山を登りつつ、この地でかつて激しい戦いが繰り広げられた事に思いを馳せれば、今にも鬨の声が聞こえてきそうだな、なんて。もっとも、なまった身体に山登りは堪えたというか、途中からゼーハーしながら登っていたのでそんな余裕はあまりなかったんですがね。それと、今回は行かなかったのですが、2つめの分かれ道を金剛山山頂方向に行けば他の城跡もあったので、もし次に当地を訪れる機会があれば、そちらにも行ってみたいですね。(もっとも、その前に身体鍛えないといけませんが。)
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