たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 56/100城目 長篠城 【平成27年3月14日】

「長篠城址」の石碑

 前の記事でも書いたとおり、3月半ばに愛知方面をクルマで旅してきたのですが、その最初の目的地が、日本100名城のひとつ、長篠城です。


長篠城について

 日本史において「長篠」と言えば、天正3年(1575年)に織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼率いる武田軍が戦い、戦国最強と謳われた武田騎馬隊を鉄砲を駆使して撃ち倒しその威力を世に知らしめると共に、武田家滅亡のきっかけの一つともなった「長篠の戦い」が有名だと思うのですが、その戦いの初めに攻防戦が繰り広げられたのがこの長篠城。

 三河に侵攻してきた武田の大軍に包囲され、落城寸前まで追い詰められた際、城主の奥平貞昌(後の奥平信昌)は、約65km離れた岡崎城の徳川家康へ使者を遣わし援軍を要請することになったのですが、その危険な役目を買って出たのが鳥居強右衛門(とりいすねえもん)。武田軍の包囲をくぐり抜け、翌日には岡崎城に到着。その頃岡崎城には、武田軍の動きを察知した家康によって連絡を受けた織田信長の軍勢が到着していたところだったのですが、翌日にもそれら織田・徳川連合軍が長篠に向け出発することを知りました。それを少しでも早く長篠城に伝えようと、すぐさまとって返した強右衛門だったのですが、城の近くで武田軍に捕らえられ、援軍が間近に迫っていたことが武田軍にバレてしまいます。ここで一刻も早く長篠城を落とす必要に迫られた武田勝頼は、強右衛門に、長篠城に向け援軍は来ないので開城するよう伝えろと命令しますが、強右衛門はその命に従うふりをしてまもなく援軍が来ることを伝え、それに怒った勝頼は強右衛門を処刑。その死は籠城する味方を奮い立たせ、援軍が来るまで長篠城を守り抜くことに成功しました。

 その後、主戦場は長篠城の近くの設楽原に移り、織田・徳川連合軍によって武田軍は壊滅的ダメージを受け敗退することとなったのですが、長篠城については戦での損傷がひどく、その翌年、奥平信昌は新たに新城城を築城し、長篠城は廃城となってしまいました。

実際に行ってみた

 と、そんなドラマを秘めた長篠城に今回お伺いすることに。

【城跡入口の看板】
城跡入口の看板
 それでいきなり出迎えてくけるのが、磔にされる前述の鳥居強右衛門が描かれた看板。ちなみにこの絵は、武田家の家臣であった落合左平次が、強右衛門の忠義に感銘を受けてその磔姿を自らの旗指物とする際に描かれたとのこと。

【現地にある案内図】
現地にある案内図
 現最後明確に残っている縄張りは、本丸周辺にあったもののみ。そこをJR飯田線が突っ切っています。

【長篠城址・史跡保存館】
長篠城址・史跡保存館
 二の丸帯曲輪に建つのが、長篠城址・史跡保存館。日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらにあります。また館内は、鳥居強右衛門や当時の城主奥平氏に関する展示などがあります。

【本丸の空堀】
本丸の空堀
【本丸の土塁】
 本丸の土塁
【本丸】
本丸
 現在残る本丸の堀や土塁は、二度目に家康方の城となった時、武田氏の再度の侵攻に備えて奥平氏が整備したものということ。

【城跡を横切るJR飯田線】
城跡を横切るJR飯田線
 城跡を横切るJR飯田線には、その名も「古城趾踏切」というなの踏切がかけられていて、そこを渡ると野牛(やぎゅう)郭という曲輪に出ます。で、写真は右手が本丸とその土塁、左手が野牛郭となっているのですが、その間に、線路が出来る前は土塁が繋がっていたんですかね。

【野牛郭】
野牛郭
【野牛郭突端から豊川下流方向を望む】
野牛郭突端から豊川下流方向を望む
 野牛郭には水源(湧き水)や物見櫓跡などがありました。またその南端は、宇連川が、現在は豊川に名を変えた寒狭川に合流しているのですが、鳥居強右衛門が岡崎城に向かう際、梅雨で増水する寒狭川を約4km程泳いで武田軍の包囲を突破したそうで。ちなみに、写真に写る立派な橋梁(写真奥方向)は、建設中の新東名高速のものです。

【鳥居強右衞門磔死之碑】
鳥居強右衞門磔死之碑
【JR鳥居駅】
JR鳥居駅
 長篠城跡を堪能した後は、豊川の対岸にある鳥居強右衞門磔死之碑へ。元々は近くの別の場所りあったそうなのですが、圃場整備事業によって原位置に移転したさうで。また、近くにはJR飯田線の鳥居駅というのがあったのですが、鳥居強右衛門さんから取ったんですかね?

【新城市設楽原歴史資料館】
新城市設楽原歴史資料館
【敷地内に再現された馬防柵と土塁】
敷地内に再現された馬防柵と土塁
【資料館屋上から設楽原を望む】
資料館屋上から設楽原を望む
 さらにその後、長篠城と同じ新城市内にある、新城市設楽原歴史資料館へ。ここには長篠の戦いに関する資料の他、幕末の開国の際に重要な役割を果たした、当地ゆかりの岩瀬忠震(いわせただなり)の資料も展示されています。また、その屋上からは、長篠の戦い後半戦の舞台となった設楽原が見渡すことが出来ました。

感想とかまとめとか

 というわけで長篠城。城跡そのものや、長篠の戦いの歴史的意義を考えると大変感慨深いものがあったのですが、個人的には、何といっても鳥居強右衛門さん。命に代えて使命を果たしたその勇敢さには、激しく心揺さぶられました。今回は時間の関係で回れなかったのですが、お城の近くには強右衛門さんのお墓もあるので、また当地を訪れて、お墓参りがてら、長篠の戦いの古戦場巡りもしてみたいなぁ、と。

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