趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
1月に行った二泊三日の四国(とちょっとだけ広島)旅行の三日目にして最終日。この日は、愛媛県内の日本100名城5つのうち、未踏の3つをまわる予定になっていたのですが、最初に訪れた今治城を後にして向かったのが、松山市の道後温泉近くにある中世の城郭、湯築城です。
湯築城は、愛媛県松山市にある梯郭式の平山城。
その築城については、14世紀前半、室町時代初期に伊予国の守護であった河野氏によって。中世の城郭なので、山を囲むように二重の堀を設け、その間に土塁という、シンプルな構造だったようです。その後、200年以上にわたって河野氏の本拠となっていたのですが、戦国時代に入ると土佐の長宗我部氏の侵攻を度々受けるようなり、天正12年(1584年)の暮れには降伏したとの話もあるのですが、長宗我部氏の四国平定については異論、異説もあるので実際はどうだったか不明ということで。
ですが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐において、時の当主である河野通直(伊予守)は小早川隆景の説得を受けて降伏。四国平定後、湯築城は伊予国の一部と共に小早川隆景に与えられました。そして天正15年(1587年)、隆景の筑前国移封にともない替わって福島正則が領することになったのですが、正則は国分山城に居城を移したため、湯築城は廃城となってしまいました。
その後時代だいぶ下って明治維新を迎え、明治21年(1888年)、城跡は県立道後公園として整備。そして平成14年(2002年)、国の史跡に指定されました。
【国道317号を】
【松山市内走行中】
【道後公園西口駐車場】
今治城のある今治市から、湯築城のある松山市の道後温泉付近に向かうには、山の中を概ねまっすぐに行く国道317号で。実は計画を立てる時、余裕があれば若干遠回りでも海沿いを行く国道196号とも考えたのですが、この日、あと2つのお城を廻る事を考えて、ちょっとでも早そうな方を。で、お昼も食べずに走ること約1時間で湯築城付近まで来たのですが、生憎駐車場が満車。で、探しつつお城の外周を1周半くらいして、結局西口駐車場で空き待ちをすることにしたのですが、幸いなことに10分程度待っただけで停めることが出来ました。
【西口】
【西口付近の外堀】
【西口付近の土塁】
早速、駐車場資金の西口から城跡である道後公園へ。ちなみに、道後公園はほぼ円形をしているのですが、丁度9時方向にあるのがこの西口。ここから反時計回りで3時方向にある東口までの、外堀と内堀に挟まれた間が、湯築城跡として復元されている区域になります。
【湯築城資料館】
西口から入ってすぐ右手にあるのが、発掘資料などが展示されている湯築城資料館。日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。で、中にはボランティアさんがいて、展示資料の解説と城主であった河野氏を紹介するビデオの放映もしていたのですが、全部合わせて約40分と、結構なボリュームがありました。
【土塀と門】
【武家屋敷1】
資料館の隣には、発掘調査などの成果に基づいて内部の間取りまで復元された16世紀中頃の武家屋敷が。屋内では、連歌を楽しむ様子が人形で再現されています。ちなみに、城跡の復元区域のうち、概ね東半分は家臣団居住区で、このような建物や塀などが復元された立体復元区域となっています。
【溝の遺構】
【円形石積遺構】
また、立体復元区域には、前述の建物や塀の他、石積みされた堀などの遺構もわかるような形で残されています。ですが、下の写真の円形石積遺構は、井戸にしては浅すぎ、トイレにしては寄生虫卵などが出土しなかったということで、用途が謎だそうです。
【武家屋敷2】
こちらは、立体復元区域にもう1棟復元された武家屋敷。ただ、内部については発掘調査の結果などによっても正確にわからなかったとのことで、復元はあえて外観に留め、屋内は資料展示スペースとなっていました。復元については、こういう手法もおおいにアリですね。
【家臣団居住区付近の内堀と土塁】
前述のとおり、湯築城として復元されている区域は外堀と内堀に囲まれた区域なのですが、堀にはそれぞれ土塁が設けられています。で、こちらが内堀とその土塁。また発掘調査の際、土塁の下から、火葬に使われていた坑が発見されたそうです。
【外堀の土塁から見た立体復元区域】
【土塁展示室】
こちらは、一部登れるようになっている外堀の土塁からの景色。土塁と土塁に囲まれたわりと狭いところに屋敷が密集していたのかな、と。また、外堀土塁はその内部が見学できるよう土塁展示室が設けられていました。
【公園中央の小山】
この道後公園というか湯築城跡は、中央に小山が鎮座しているのですが、かつてはお城の本丸でもあったんですかね?
【庭園区と建物跡の平面表示】
【ごみ捨て穴跡】
【上級武士居住区付近の内堀】
城跡の復元区域のうち、概ね西半分は庭園区・上級武士居住区で、建物跡などが平面表示されています。また、この辺りの内堀は、山側の石が露出してなかなかの眺めになっていました。
【遮蔽土塁(上級武士居住区側から)】
【遮蔽土塁(東口側から)】
湯築城跡としての復元区域の東端は、外堀と内堀の間が一番狭くなっているのですが、そこに設けられているのがこの遮蔽土塁。外堀土塁とこの土塁の間には、門が設けられていたと考えられています。で、このあたりで復元区域は終了。
【東口】
湯築城跡復元区域が終了したところにあるのが道後公園の東口。今ではほとんど面影は感じられないのですが、かつてはこちらがお城の大手口だったそうです。
【グラウンド】
【北東部の外堀】
【北部(正岡子規博物館裏手)の内堀】
【北口付近】
ここからは、城跡と言うよりも公園なんですが、そのままぐるっと進むことに。
【湯釜】
北口から中に入ったところに置かれているのが、現在の道後温泉本館が出来るまで使われていたという湯釜。県の指定文化財で、奈良時代に作られたと伝えられています。
【丘陵広場】
【展望台】
【展望台から松山城方向の眺め】
最後は、公園中央に鎮座する小山へアタック。途中の丘陵広場を経由して展望台が置かれた山頂部へと登りました。で、展望台からは、松山市内が良く見えました。
というわけで湯築城だったのですが、復元整備されていたのは公園の一部とはいえ、中世城郭の雰囲気を今に伝えるお城だったかと。個人的には、現在、公園として使われている城跡の北半分、そして中央の小山の部分も、かつてどのような姿だったのかもっと知りたくなりましたね。
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