趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
「史跡 福山城跡」の石碑
1月に行った四国(とちょっとだけ広島)旅行の2日目。この日はまず、徳島県徳島市にある徳島城を訪れたのですが、次に向かったのが、瀬戸大橋を渡って本州の、広島県福山市にある福山城です。
福山城は、広島県福山市にある輪郭式の平山城。
実は今回、初めて福山城にお伺いするにあたって調べた時に知ったのですが、福山って比較的新しい都市なんですね。というのも元和5年(1619年)、安芸国と備後国一帯の、合わせて50万石を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことに伴い、徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西国の有力外様大名に対する抑えとして当地に10万石で入封して新しい藩(福山藩となる)が成立。その際、現在の福山城から約5.6km北北東に行ったところにある神辺城に入城したものの、物理的に手狭で、また地理的にも戦略的に重要な西国街道と瀬戸内海両方に睨みを効かせることが難しい場所にあったため、幕府の肝煎りですぐさま築城が開始された(なんでも天下普請に近い規模だったそうです。)際に、総構えの城下町も合わせて造られたのが福山(その名前もこの時に付けられたそうです。)の始まりなんだそうで。
ただ、元々は芦田川河口域の田畑や湿地帯だったところを埋め立てて街ごと城を築くことは容易ではなかったようで、元和6年(1620年)には大洪水によって工事が中断されるなどしつつ、城が完成したのは元和8年(1622年)になってから。しかし、完成した城は天守は五重、櫓は三重櫓7基を含む20基以上というスペックは大大名クラスというか、幕府が以下に当地重要な拠点とみていたかが伺えます。更に総構の堀には、延宝4年(1676年)に石垣が築かれました。
それで、築城当時から、水野家が代々城主を務めたのですが、元禄11年(1698年)に当主が夭逝したため水野家は断絶。一時天領となった後、元禄13年(1700年)に松平忠雅が出雲から入封しますが、10年後の宝永7年(1710年)、宇都宮から阿部正邦が入封し、以降幕末まで城主を務めます。ですが阿部家は代々、幕府の要職を勤めていたためあまり福山には戻らなかったみたいですね。また、この頃には藩の財政が悪化し、享保15年(1730年)には丸御殿の奥居間、寛延3年(1750年)には二の丸城米蔵の大半が撤去されるなど、不要な施設は解体していったらしいです。
やがて迎えた幕末。第二次長州征伐への出兵準備中だった慶応元年(1865年)、櫛形櫓での火薬爆発から、槍櫓、鉄砲櫓を焼失してしまいました。その後、第二次長州征伐は失敗に終わり、福山藩は明治維新へと至る動乱を静観していたのですが、福山は幕府の重要拠点であったことから朝敵と見なされてしまいます。それで天守に砲撃を受けるなど攻撃を受けたのですが、戦闘が本格化する前に恭順が許され、慶応4年(1868年)、福山城は開城しました。
明治に入り、明治6年(1873年)の廃城令で福山城は廃城処分となって施設の売却が始まり、天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓以外の建物と本丸を除く大部分の土地が人手に渡りました。ですが残った部分は福山公園となり、明治29年(1896年)には天守を含む残った建物の大修理が行われました。また昭和6年(1931年)には天守が、昭和8年(1933年)には伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が旧国宝に指定。昭和11年(1936年)には本丸が国の史跡に指定されたのですが、太平洋戦争末期の福山大空襲の際、天守や御湯殿などが焼失してしまいました。そして戦後は、昭和25年(1950年)伏見櫓、筋鉄御門が国重文に指定され、昭和27年(1952年)から筋鉄御門、昭和28年(1953年)から伏見櫓の解体修理がなされました。昭和39年(1964年)には本丸と二の丸が国の史跡に指定されたのですが、その際、二の丸は市が買い戻したそうです。その後も昭和41年(1966年)には天守、月見櫓、御湯殿が復興、昭和54年(1979年) 鐘櫓(市重文に指定)が復興されるなど整備が続けられ、昭和63年(1988年)には西外堀跡にふくやま美術館、平成元年(1989年)には三の丸跡西部に広島県立歴史博物館が建設されるなどして現在に至ります。
【瀬戸と大橋を渡る】
【福山市内走行中】
【有料駐車場】
この日最初に訪れた徳島城を後にしたのは午前10時40分頃だったのですが、そこから国道11号などで鳴門市へ出て、鳴門ICから高松道に。あとはひたすら高速道路を移動し、途中、瀬戸大橋で本州へと渡り、山陽道を経由して福山城近くに着いたのは、午後2時を少し廻ったところでした。それで、お城の北側にあるふくやま文学館前の有料駐車場に車を停めました。ちなみにこちらの駐車場、駐車券を福山城博物館などの受付に持って行くと、駐車料金は1時間無料となるサービスがあります。
【天守方面へと向かう上り坂】
【東御門跡】
【東御門跡の石垣】
それで駐車場に着いた時点でもうお城の中に入っているとは思うのですが、とりあえずは駐車場からも見える天守を目指します。で、テニスコートの脇を通り過ぎると、右手に天守方向へと向かう上り坂が。で、ここを進むと東御門跡というところからいきなり本丸へ。
【本丸】
往時はかなりの規模を誇った福山城。本丸も結構な広さですね。
【復興天守】
【天守からの風景(福山駅方向)】
現在の天守は、前述のとおり昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリート造で復興されたもの。往時の姿とは違う箇所も多いそうなのですが、付け櫓のある5重の天守はとても立派な印象です。また内部は福山城博物館となっており、各所に残る昭和的ディテールが個人的にはツボでした。ちなみに、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。
【鏡櫓】
【月見櫓】
【御湯殿】
本丸内の復興建築物。月見櫓と御湯殿は天守と同じ昭和41年(1966年)、鏡櫓は昭和48年(1973年)の再建です。ちなみに御湯殿は、当時、御風呂屋という名称だったそうで。
【本丸御殿跡】
こちらは、藩主が居住した本丸御殿跡。もっとも、こちらに居住したのは二代藩主までで、三代藩主からは三の丸に建てた新たな御殿に澄んだそうです。ですが、表御殿はその後も行事などで使用された為、明治時代まで現存していたとのこと。
【鐘楼】
こちらは本丸内の(一部)現存建築物で、市の重要文化財である鐘楼。往時は多門櫓の一部が鐘撞堂となっていたそうなのですが、廃城後に鐘撞堂の周りの多門櫓が取り壊されたため、このような形で残ったそうです。ちなみに、午前6時、正午、午後6時、午後10時に自動で自動で鐘が鳴るそうなのですが、タイミングが合わず聞くことが出来ませんでした。
【伏見櫓】
【二の丸から見た伏見櫓】
本丸の南にあるのが、国重文に指定されている現存建築物の伏見櫓。櫓と言っても、かなりの大きさですね。ちなみにこちらの櫓。伏見城からの移築建築物で、元々慶長6年(1601年)前後に建てられたものを、元和6年(1620年)に当地に移築したことが、かつての解体修理と際に判明しているそうです。また、福山城にはこの櫓の他にも、伏見城からの移築とされている建物が多数在ります。
【筋鉄御門】
本丸の南にあり、正門にあたるのが、この筋鉄御門。こちらも伏見櫓同様、国重文に指定されている現存建築物です。
【本丸南側の石垣と白塀】
筋鉄御門を出ると、JR福山駅と並行するように石垣が続いているのですが、かなりの高さですね。
【内堀跡】
本丸を出て西に向かって進んだところにあったのが、内堀跡という案内看板。周囲には石垣もあるのですが、堀に関しては完全に「跡」という印象です。
【広島県立歴史博物館】
【よみがえる草戸千軒】
そのまま進むと、広島県立歴史博物館があったので立ち寄ってみることに。それで、ひととおり見学したのですが、中でも『よみがえる草戸千軒』と題された、中世の港町、草戸千軒を丸ごと再現した展示は、圧倒的存在感。これはすごいですぞ。
【本丸西側の石垣その1】
【本丸西側の石垣その2】
広島県立歴史博物館の東側にあった石垣。本丸西側にあたるんですかね。
【旧内藤家長屋門】
最後は、ふくやま美術館の東側、本丸の北西あたりに移築されている、旧内藤家長屋門。元々は外堀に面したところにあった建物で、弘化3年(1846年)に建てられたものわ。昭和51年(1976年)に解体移築したものだそうです。
というわけで福山城だったのですが、城跡が福山駅至近の中心市街地にあり、また城域内に公共公益施設を整備した際にも遺構が破壊されたと聞いていたので、実際に行ってみると、本丸部分には城の雰囲気がしっかりと残り、(福山大空襲でいくつか焼失してしまったとはいえ)櫓や門など藩政時代の建物が堂々と残っていたことに、正直驚いたというか。歴史的遺構を全て復元・保存するのは難しいとは思うのですが、とりあえず現存するものだけでも後世に伝えて欲しいな、と、勝手ながら思う次第で。
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